024.第5話 大蛇と生贄(8)雨が降る
※残酷な描写が含まれる可能性があります。
狐里と鴉代が岩屋の外に出た時、雨蛇と鈴蘭の姿は既になかった。
「どこへ行った」
「こちらだと思ったのじゃが……」
鴉代が眦を険しくして、木立を見透かすように目を凝らす。狐里は微かな物音も聞き逃すまいと耳をそばだて、ひくりと鼻を動かした。
そうして当たりをつけ迷いながら向かった先に、探していたふたりは見当たらない。
行き止まりの崖を前に、途方に暮れて周囲を見渡した時だった。
慟哭が聞こえた。
あるいは、咆哮といった方が近いかもしれない。
ただごとではない響きに、狐里と鴉代はさっと目を見交わした。
緊迫した顔で頷いた鴉代が、崖から慎重に身を乗り出して、下を覗いて──絶句した。
「どうしたのじゃ」
「お前は見ない方がいい」
彼女と同じように崖下を覗こうとした狐里の襟首を掴み、鴉代が引き戻す。
狐里は上体を起こして、鴉代を正面から見据えた。
いつもは落ち着いている瞳が、動揺と憔悴に歪んでいる。
それだけで、何が起こったのか、およそ想像がついた。
狐里は短く息を吸った。
鴉代が自分を気遣ってくれていることは分かる。
でも。
「これも縁じゃ。我は見届けたい」
「…………」
鴉代がちらりと崖下を気にしてから、迷うように睫毛を伏せる。
しばらくの後、重苦しい息を吐き出して、彼女は言った。
「仕方ないな」
立ち上がり、ばさりと衣を翻す。
無言で差し出された腕に身体を預け、狐里は鴉代の首元にしがみついた。
鴉代は狐里の肩口と膝裏をしっかり支えると、躊躇いなく地面を蹴った。
細い背に、黒い翼が広がる。
一度だけ羽ばたいた翼が、風を捉える。
ゆっくりと旋回しながら高度を下げ、彼女は音もなく谷底へと着地した。
「大蛇」
気もそぞろな様子で、鴉代が呼びかけた。
奇妙なほど静かだった。
遠く聞こえるせせらぎの音に重なって、浅い息遣いだけが、微かに聞こえていた。
狐里を気に掛ける余裕もないらしい鴉代の腕から、何とか抜け出して地面に降り、狐里は鴉代の視線の先を追った。
雨蛇がいた。
深く俯いて、こちらに背を向けて、地面に膝をついている。
いや、膝をついているのではない。
衣の裾から伸びているのは、人間の足ではなく、巨大な白い蛇の尾だ。
狐里は目を瞬いた後、首を振った。
別に、驚くことではない。鴉代の本性がカラス、狐里の本性がキツネであるように、彼の本性は蛇なのだろう。ならばこれは、鴉代が人型のまま背に翼を生やすように、部分的に変化を解いた──あるいは解けた──というだけのことだ。
「……大蛇」
躊躇いがちに再度呼びかけながら、鴉代が一歩近づく。
雨蛇の背中は微動だにしない。
白い蛇体は、地面にぐるりととぐろを巻いていた。
輪の中心に、何かを囲い込むように。
鴉代が歩を進める。
ようやく彼女の存在に気づいたみたいに、雨蛇がゆっくりと顔を上げた。
「──っ」
狐里は息を呑んだ。
真っ黒な目をしていた。
先程までの彼の瞳が、春の野に芽吹いた若葉の色だとするなら、今の彼の瞳は、光の差さない深い水底のようだ。それくらい、昏く、重く、澱んだ色だった。
見てはいけないものを見てしまったような気がして、思わず目を逸らす。
それでようやく狐里は、彼の背後に何があるのかを見た。
そこにあるのは、かつて少女だったものだ。
途中で木にでも引っかかったか、この高さから落ちたにしては綺麗だが、それでも、息がないことは一目で分かった。
鴉代がちらりとそちらを確かめる。すぐに目を逸らしたのは、崖上から既に見ていたからだろう。
水気を含んだ重苦しい風が、谷間を吹き渡る。草の間に咲いていた白い小花が、零れるように散った。
「…………こんな、ことに、なるのなら、」
掠れた、ひどく聞き取りにくいその声が雨蛇のものだと、一瞬分からなかった。
ぞろり、と蛇体が蠢く。
引き攣った息を吐き出して、雨蛇が目を伏せた。
「──きちんと、食っておけばよかった。あいつはずっと、それを望んでいたんだから」
長く垂れた髪が、彼の表情を覆い隠す。
乱れた髪には木の葉や小枝が絡み、白い衣は泥や草の汁で汚れている。衣の裾から伸びる蛇体も、よく見ればあちこち切れて、血が滲んでいた。
おそらく、落ちた鈴蘭を追って、急斜面を滑り降りたのだろう。
だが、間に合わなかった。
「私のせいだ」
鴉代が呟いた。
苦々しげな声音には、深い悔恨が滲んでいた。
「私たちが来なければ、こんなことにはならなかった」
鴉代と狐里が来なければ、鈴蘭があの会話を聞くこともなかった。
すまない、と項垂れる鴉代に、否、と雨蛇はかぶりを振った。
動きこそ緩慢だが、その仕種には断固とした意志が籠もっていた。
「相談したいと言って、おまえを呼んだのは俺だ」
雨蛇の喉の奥で、息が震える。彼は呼吸を整えて、自嘲するように唇を歪めた。
「こうなるのは時間の問題だった。それを知っていて、先送りにするしかできなかった。だから、俺のせいだ」
「だが……」
「これは俺ひとりの罪だ。誰にも渡さない」
なおも言い募ろうとした鴉代に、雨蛇がきっぱりと言い切る。
反論を許さない強い響きに、鴉代がぐっと黙り込む。
しばらくの沈黙の後、雨蛇は長く息を吐くと、ぞろりと背を向けて視線を落とした。
「悪い。しばらく、ひとりにしてくれるか」
「どうするんだ」
鴉代が問う。
声を強張らせた鴉代に、雨蛇は安心させるように少しだけ笑うと、横たわる少女の瞼を指先で撫でた。
「食うよ。それが、俺にできる唯一の弔いだ」
答える雨蛇の声は、どこまでも静かだった。
身を屈めて、そっと少女の遺体を抱え起こす。
ぐらりと揺れた頭を丁寧に支え、前髪を軽く梳き、衣を整えて寝かせ直す。
愛おしむような、手つきだった。
「食ってほしいというのが、あいつの願いだった。遅すぎたが……、せめて、それを叶えたい」
衿を整えた指が袖を滑り、奇妙に捻れた腕を捧げ持つ。
そして、口づけるように、唇で指先に触れた。
血の気の引いた唇が、躊躇いがちに開き、そのまま閉じられる。
は、と浅い息が落ちた。
俯いた髪先が震える。
少しの間の後、再度口が開いた。
ぱきり、と。
儚い何かが、折れる音がした。
「──……っ」
ぐ、と喉の奥で何かが詰まるような音がする。
それを咀嚼し、飲み下し、彼はまた口を開いた。
髪の陰になって、表情は見えない。
ただ、濡れた牙と、赤く染まった口元だけが見えていた。
ざわり、と山が騒めいた。
肌に感じる水の気配が強くなる。清澄で、神秘的ですらあった山の空気が、少しだけ濁ったような、錯覚を覚えた。
「見るな」
低い制止とともに、冷たい手のひらで手元が覆われる。
引き寄せられるままにぐるりと反転して、狐里は鴉代を見上げた。
「……見ないでおいてやれ」
鴉代が呟いて、狐里の頭を自身の肩口に押し付ける。
一瞬だけ見えた彼女は、ひどく辛そうな顔をしていた。
「ひとりにしてやろう」
鴉代が狐里を抱え上げる。
おそらく、この場から飛び去ろうとしているのだろう。
「しかし……」
背後から、えずくような音がする。時折、嗚咽を吞み込むように咳き込みながらも、咀嚼する音が止まることはない。
ちらちらと後ろを気にする狐里の頭を抱え込んで、諭すように、鴉代は言った。
「ひとりにしてくれ、とあいつは言った。今は、その方がいい」
「…………」
鴉代は失うことを知っている。
だから、こういう時にどうしたら良いのかは、狐里より鴉代の方が分かるはずだ。
──本当に、そうだろうか。
白い横顔をじっと見上げる。
飛び立とうとした鴉代は、少し躊躇った後、短く息を吸った。
「大蛇!」
背後の物音が止む。
鴉代はそちらを見ないまま、決然と言った。
「また、来る」
「……来なくていい」
低い呻きが返る。
鴉代が頭を振る。断固とした意志を込めて、彼女は繰り返した。
「また、来るからな」
それだけ言い残し、答えは聞かずに、鴉代は今度こそ地面を蹴った。
ぽつり、と冷たい滴が頬に当たった。
抱えられたまま上を向けば、鴉代も空を見上げていた。
「ああ。雨、だな」
鴉代が呟いた。
*
降り始めた雨は瞬く間に勢いを増し、すぐにざあざあと打ち付ける本降りに変わった。
この雨の中では飛べない、という鴉代の判断により、ふたりは一旦地上に降りて、木陰で雨をしのぐことにした。
鴉代は腕を組んで木の幹にもたれ、ぼんやりと空を見上げている。
なんとなくそちらを見てはいけない気がして、狐里は鴉代から一歩だけ離れ、大きく広がった枝の先から落ちる雨の数を意味もなく数えた。
激しく降り注ぐ雨は、葉に溜まる余裕もなく、葉を揺らしてそのまま地面に落ちる。すぐに、空から降る雨と枝から落ちる雨の見分けはつかなくなった。
「……どうして人間は、勝手な思い込みで、こちらの望まぬことばかりする」
絞り出すように、鴉代が呟いた。
鈴蘭のことか、あるいは、彼女を生贄に差し出したという里の大人たちのことか。
いや、きっと、それだけではない。
鴉代がこういう顔をする時は、大抵。
「山神様のことか?」
彼女の表情を窺いながら、慎重に問う。
鴉代は答えずに、狐里を見下ろした。
「私が人間を嫌う理由、言っていなかったな」
吐き出す声音に自嘲めいた響きが混ざる。
黒い睫毛の先から落ちた雨の雫が、白い頬を伝って、地面に落ちる。
紅い瞳は沈んでいたが、どこまでも静かだった。
「巫子様は人間に殺されたのだ」
「──え?」
山神に仕えていたというその人間について、狐里が知っていることは少ない。
山神とともに鴉代を拾ったこと。鴉代に舞を教えたこと。淑やかだが、芯の強いひとだったということ。そして。
「巫子様、というのは、山神様の大切なひと、だったのではないか」
「ああ。大切なひと、だったさ」
「なのに、どうして──」
は、と乾いた息を吐いて、鴉代が濡れた髪を乱暴にかき上げる。
「知らぬ。人間の考えることなど。私に分かるのは結果だけだ」
「結果……」
「そう、結果だ。何が起こったと思う?」
雨音が耳を穿つ。
雨蛇の嘆きを思い出す。
深い悲しみと、後悔と、自責。あれがもし、少女を生贄として捧げた里の者に向けられたとしたら。
『もう百年近く前か、あの辺で洪水があったのは知ってるか?』
不意に、明るい中に真面目な響きを含んだ声が、耳の奥に蘇る。
岩屋で彼から話を聞いたのはついさっきの出来事のはずなのに、ずいぶんと昔のことのような気がした。
『小蛇を遣いにやろうにも瘴気で近づけねえし──』
同時に、一年前のことを思い出す。
まっくろで、どろどろな、くらいものに呑まれかけていた狐里を、鴉代は救い出してくれた。
あの、まっくろなものは。
あの時に感じた、悲しみと、怒りと、拒絶は。
もしかして、山神の。
「──里が、沈んだ?」
半ば確信を持って、口にする。
見上げれば、鴉代が皮肉げに唇を歪めた。
「正解だ」
鴉代が嗤った。
声音だけは手習いの子どもを褒めるみたいに優しいのに、浮かべた笑みは暗澹とした色をしていた。
第5話「大蛇と生贄」はこれで終わりです。
■次回予告
山に迷い込んだ幽霊の青年と出会った狐と鴉。
「会いにいかねばならぬ人がいるのだ」と明るく告げる彼をふもとまで案内する道すがら、2人は彼の身の上を聞く。
「いつだって、置いていく方は、置いていかれる方の気持ちなど考えやしない」
第6話「白露の約束」、全4~6節くらいの予定です。




