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023.第5話 大蛇と生贄(7)たったひとつの願いごと

鈴蘭視点、現在です。

 谷底から吹き上げる風が、ばたばたと髪を煽る。

 空は重く垂れ込めて、灰色の雲が太陽をすっかり覆い隠している。

 鈴蘭(すずらん)は足を止めて、ぼんやりと崖下を見下ろした。

 切り立った急斜面には岩肌が露出して、ところどころから細い木が枝を伸ばしている。谷底の方は、薄い霧に覆われてよく見えない。ただ、微かな水音だけが聞こえていた。


 ここはどこだろう。

 馴染みのない景色に、鈴蘭は首を傾げた。

 あの場から逃げたい一心で、方角などろくに考えていなかった。とはいえ、岩屋周辺の風景はおよそ見慣れているはずなのに。

 考えかけて、ふと思い出す。

 昔、鳥を追いかけて落ちかけた崖だ。危ないからもう近付くな、と重々言い含められたから、それ以降は近づいたことがなかったのだ。


 確か、弓の使い方を教えてもらって、少しずつ上達してきた頃だった。

 獲物を見逃すまいと上ばかり見ていて、地面が途切れていることに気づいていなかった。足を滑らせたところで、雨蛇(うだ)に腕を掴んで引き戻されたのだ。

 せっかく作ってもらった小弓を落としてしまったこと。雨蛇が珍しく語気を強めて怒っていたこと。掴まれた腕が痛かったこと。怪我はないかと確かめる雨蛇の指先がやけに冷たかったこと。

 よく、覚えている。

 

「鈴蘭!」


 名を呼ばれた。

 あの日と同じ、ひどく、切羽詰まった声で。

 遠い過去から、目の前の現在へと意識を戻す。

 肩を掴もうとしてきた雨蛇の手を避けて、鈴蘭は振り返った。


「来ないで、ください」


 自分でも驚くくらい、平坦な声が出た。

 雨蛇が鈴蘭の方に手を伸ばしたまま硬直する。

 鈴蘭は雨蛇を睨み据えたまま、崖沿いに数歩後退った。

 足元の小石が、ぱらぱらと谷底へ落ちていく。

 手の届かない距離を挟んで、ふたりは向かい合った。


「……鈴蘭」


 雨蛇がもう一度、彼女の名を呼んだ。

 懇願するような、響きだった。

 鮮やかな若草色の瞳には、必死な色が浮かんでいた。


 ──ああ。

 鈴蘭は目を伏せた。


「わたし、知っていました。あなたが優しいひとだって。優しいから、わたしを食べようとしないんだって」


 そうだ。

 たぶん、ずっと前から分かっていた。

 ただ、見ないふりをしていただけで。


「でも、優しいから、最後には食べてくれると思っていました」


 初めて出会った時の彼は、冬の山みたいに悠然として、厳かで、神々しく見えた。

 しばらく一緒に過ごしたあと、それだけじゃないことを知った。気さくで、寛大で、慈しみ深い。超然としているのは見た目だけで、気質としてはむしろ親しみやすいといってもいいかもしれなかった。

 でも、人間のようだと思ったことは一度もなかった。

 いつも楽しそうなのは、人間のように細かいことを気にしないからだ。些細なことで笑うのは、彼にとって、草木も鳥も人間も、大した違いがないからだ。

 彼は草木も鳥も慈しむ。けれど、木の実を採り、鳥を狩るのを厭うことはない。

 食べることは当然の営みだ。そこに、奪った命への敬意と少しの悼みこそあれ、命を奪うこと自体への忌避はなかった。


 だから、願っていたのだ。

 自分も、いつか、あんなふうに、と。


「ねえ、雨蛇さま」


 密やかに囁いて、雨蛇を見上げる。


「知っていましたか。あなたと一緒に食事をするたび、あなたに食べられる山鳩に、イワナに、ぐみの実に、わたし、いつも嫉妬していたんですよ」


 口を開ける。咀嚼する。飲み込む。美味いな、と目を細める。

 それを見つめながら、胸を焦がしていた。

 どうして、かれらは食べてもらえて、自分は食べてもらえないのだろう、と。

 いったい、かれらと自分と、何が違うのだろう、と。


「わたしをずっと、騙していたんですか」


「俺は……、……──」


 雨蛇が反射的に何かを言いかけてから、言葉を詰まらせて黙り込む。

 痛みを堪えるように顔を歪めて、彼は項垂れた。


「騙す、つもりじゃなかった。俺は……、ただ、」


 絞り出すように、雨蛇が呟く。

 強ばった指先が、微かに震えていた。


「ただ……、おまえに、生きてほしかった。生きる気に、なってほしかったんだ」


 水気を含んだ風が、髪を巻き上げて吹き抜けていく。

 鈴蘭は瞬いた後、言われた言葉を自分なりに咀嚼して、首を傾げた。


「わたしの気が変わるのを待ってた、ってことですか?」


 確認する。

 雨蛇の瞳が狼狽したように揺れた。

 ああ、そうなんだな、と納得する。

 どうやら自分は、信じてもらえていなかったらしい。

 あんなに、何度も伝えたのに。


 不思議と、怒りはなかった。

 悲しみもなかった。

 何もかも、妙に現実味がなかった。

 まるで、魂だけが一足先に身体から抜け出して、外側から自分を見下ろしているみたいな。


「どうしても、わたしを食べる気はないんですね」


 静かな念押しに、雨蛇は少しだけたじろいだ後、しっかりと頷いた。


「ああ、ない。叶うなら、ずっとこのまま──」

「今すぐ食べてくれなければ死にます、と言っても?」

「!」


 何か言いかけた言葉を遮るように問えば、雨蛇が鋭く息を呑んだ。

 泣きそうな顔を見て、鈴蘭は少しだけ悲しい気持ちになる。


 どうして、そんな顔をするのだろう。

 あなたには、いつもみたいに笑っていてほしいのに。

 たとえば、よく熟れた果実を見つけられた時みたいに。

 たとえば、よく肥えた獲物を仕留められた時みたいに。

 ねえ。

 どうか、そんな顔をしないで。

 きれいで優しい、わたしのかみさま。


 葉擦れのざわめきと、微かなせせらぎだけが、遠く響いている。

 雨蛇はしばらく黙り込んだ後、ぐっと何かを飲み込むように頷いた。


「…………分かった」


 掠れた声で、彼は言った。

 ざり、と、彼の足元で小石が音を立てる。


「今すぐ食ってやる。だから、そこを動くなよ」


 地面を踏みしめるように、彼が一歩踏み出す。

 張り詰めた瞳を見上げて、鈴蘭は笑った。

 その言葉が、嘘だと分かってしまったから。


 ああ。

 本当に、優しくて、臆病で、ずるいひと。


「嘘つき、ですね」


 たったひとつの役目さえ、果たせないなら。

 どんなに待っていても、頑張っても、無駄だというのなら。

 きっと、最初からこうしなきゃいけなかったのだ。


「さよなら」


 足裏が地を離れる。

 妙に穏やかな心地だった。

 もうこれ以上、自分を騙す必要がないからかもしれなかった。


 雨蛇が何か叫んで、必死に手を伸ばしている。

 けれど、届かない。


 目を閉じる。


 ぐしゃり、と重いものが潰れる音がした。

第5話は次回で区切りの予定です。

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