022.第5話 大蛇と生贄(6)守られない約束
鈴蘭視点。過去話の続きと現在です。
「おまえ、名は何と言うんだ?」
大蛇にそう尋ねられたのは、彼女が岩屋で過ごし始めてから半月ほど経った頃だった。
菜を摘んでいた少女は、ぽかんと動きを止めた。
「人間には名があるだろう?」
違うのか、と首を傾げながら、大蛇が彼女の手元をひょいと覗き込む。ああ、それは人間には食べられないやつだ、なんて言いながら籠の中身を選り分ける様子は手慣れたものだ。
第一印象こそ超然としていたが、しばらく一緒に過ごしてみれば、大蛇はだいぶ気さくで、面倒見の良いひとだった。
よく笑うし、基本的に機嫌が良い。
毎日の食事も、暖かい寝床も気前良く与えてくれるし、鈴蘭が何か尋ねれば、迷惑がらずに答えてくれる。
だが、大蛇に捧げられた身でありながら、大蛇の世話になるなど、道理に合わない。
だから彼女は、少しでも大蛇の手を煩わせないように、せめて自分の食べ物くらい自分で集めようと、頑張っているのだった。
「どうした?」
黙ったままの彼女に、大蛇が怪訝な目を向ける。
思考が逸れていた。
少女は慌てて首を振ると、目の前の問いに意識を戻した。
「名前は、ない、です」
あったかもしれないが、忘れてしまった。彼女の名を呼ぶ者は、ずっといなかったから。
少女の返事に、大蛇が不思議そうに首を傾げた。
「しかし、それでは不便だろう? 人間は同族が多い。呼び分けは必要じゃないのか」
「うーん……。用事がある時は『おい』とか……。あとは、『のろま』とか『役立たず』とか呼ばれていましたね」
「…………」
大蛇の顔が険しくなる。
何か、気に障ることを言ってしまっただろうか。
確かに、問いに対する答えとしては不十分だったかもしれない。聞かれたことに答えないのは失礼だ。大蛇が怒るのも当然である。
しかし、答えを持ち合わせていないものはどうしようもない。
うんうんと唸りながら必死に知恵を絞り、ようやく心当たりを見つけて、少女はぱっと顔を輝かせた。
「あ、そうです! 最近は、『贄』と呼ばれました!」
これなら、自分だけの呼び名と言えるだろう。
里の大人に初めてそう呼ばれた時、役目とともに名も与えられたようで嬉しかったことを思い出す。
喜び勇んで答えたのだが、なぜか大蛇の眉間の皺はさらに深まった。
駄目だったらしい。
おろおろする少女に、大蛇は深い溜息をついて、考え込むように睫毛を伏せた。先程籠の中から取り上げた草を手持ち無沙汰に弄びながら、ふと何かを見つけたように足元に視線を留める。
白い可憐な花が咲いていた。
結い上げられた少女の髪に、折り取ったそれをかんざしのように挿して、大蛇が呟いた。
「鈴蘭」
「?」
「鈴蘭、と呼ぶ。それでいいか」
「ええと……?」
彼女に、名を付けてくれた、ということだろうか。
首を傾げると、鈴なりに咲いた花が、ころころと揺れる。
「気に入らないか?」
「いえ! あの、嬉しい、ですが……」
嬉しいが、困惑が勝つ。
ただの食料に、名前なんてつける理由が分からなかったから。
少女は目を泳がせて、自身の髪に触れた。小さな花を落とさないように、指先でそっとつつく。
「……鈴蘭には、毒があるのですよ。以前、山蒜と間違えて持って帰ったら、ひどく怒られました。お花は綺麗だけど、飾っておくのもダメなんだそうです。活けた水が毒になるから」
「そ、そこまで毒性が強いのか」
毒があることは知っていたようだが、水に毒が移るほどだとは知らなかったらしい。
大蛇が慌てて少女の髪から花を引き抜く。あ、と言う間もなく地面に落ちた花を、少し悲しい思いで見つめてから、少女は顔を上げて大蛇を見つめた。
「大蛇さま。わたしを食べる時に、毒があったら困るでしょう」
冗談めかすように、軽く微笑んでみる。
別に、毒のある花の名を付けられたところで、自分に毒が宿るわけではないのだが。
大蛇はぱたりと瞬いた後、クク、と愉快気に笑った。
「毒があるのか。俺と同じだな」
あ、と口を開けた大蛇が、自身の牙を指し示す。
人間とは違う、鋭く尖った牙を、少女は魅せられるように見つめた。
「大蛇さまと同じ、ですか」
「ああ、おそろいだ」
「おそろい……」
口の中で呟きながらも、大蛇の牙から目が離せない。
あの牙が、いつか自分を貫くのだろうか。そう思うと、どきどきと胸が高鳴る。
そんな少女の様子に気付いていないのか、大蛇がまた籠を覗き込んで顔を顰めた。
「鈴蘭。おまえは誤って食うなよ。早々に死なれては困る」
どうやら、少女を『鈴蘭』と呼ぶのは、大蛇の中で決定事項になったらしい。
何となく、落ち着かない気持ちになる。
が、発言には異議を唱えたい。
「……食べませんよ」
「なら良いんだが」
控えめに抗議すると、大蛇が籠の中から何かを摘まみ上げる。
鈴蘭の葉だった。
「……あ」
「知識はあっても、見分けはまだまだみたいだな」
からかい交じりに笑う大蛇に、少女は悄然と肩を落としてから、思い直してぐっと拳を握った。
「食べない、ように気をつけます。わたしは大きくなって、あなたに食べてもらうんですから」
決意を込めて大蛇を見上げると、彼は呆れたように軽く息を吐く。
「分かった分かった、もうそれで良い。だから、勝手に死ぬなよ」
「ふふ、楽しみにしてますね」
ここ半月ですっかりお決まりになったやり取りを交わしてから、少女はふと目を瞬かせた。
「大蛇さま。あの、大蛇さまのことは、なんとお呼びすれば良いですか」
大蛇が自分を『鈴蘭』という名で呼んでくれるなら、自分も大蛇を名で呼びたい。
そう思って尋ねれば、大蛇は意外そうに少し黙った後、穏やかに目を細めた。
「雨蛇、だ。名が必要なら、そう呼んでくれ」
「はい。雨蛇、さま」
心からの笑みを浮かべる少女に、雨蛇も笑みを返した。
月日は瞬く間に過ぎていった。
相変わらず、植物の見分けはなかなかつかなかったが、雨蛇は辛抱強く、それぞれの特徴を教えてくれた。
他にも、いろいろなことを教えてもらった。
魚の釣り方に、捌き方と保存の仕方。鳥やウサギを獲るための罠の仕掛け方。小弓の作り方と使い方。木の実の下処理の仕方に、果実から酒を造る方法。水場の見つけ方。空の色から天気を読む方法。
鈴蘭の覚えは悪かったが、彼女が失敗しても、雨蛇はほとんど怒らなかった。
ただ、おかしそうに笑うだけ。たまに呆れることはあったが、不機嫌になることも、馬鹿にすることもなかった。
怒られたことが全くなかったわけではない。
たとえば、鳥を追いかけて崖から落ちかけた時は厳しく叱られたし、毒性のある実をうっかり食べて寝込んだ時はぶつぶつ文句を言われた。
しかし、深追いせず獲物を逃した時は特に咎められないし、間違えて毒草を採ってしまっても、食べる前に雨蛇に確認を取れば、選り分けながら見分け方を教えてくれる。
そう気付いてからは、怒られることはなくなった。
だから鈴蘭は、失敗することも、同じことを何度も聞き返すことも、恐れなくなっていったのだ。
そうやって、何度も教えてもらい、何度も試すうちに、できることは少しずつ増えていった。
「雨蛇さまは、どうして怒らないのですか」
訊けたのは、夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が過ぎた頃だった。
唐突な問いかけに、雨蛇は面食らったように黙り込み、難しい顔で空を仰いだ。
「そうだな……」
薄青の空はまだ寒々しく、煙のように広がった雲が、太陽の光をぼんやりと霞ませている。
冷たい風に、雨蛇の白い髪がさらさらと靡く。それを煩わしげにかき上げながら、雨蛇がはたと思いついたように口を開いた。
「早春に鳴く鶯の声を聞いたことはあるか?」
「鶯、ですか?」
鈴蘭は首を傾げた。
春を告げるといわれる鳥だ。当然、鳴き声を聞いたことはある。
しかし、早春というのはいつまでを指すだろう。日々の仕事に追われる中では、「ああ、いま鶯が鳴き始めたなあ」なんて意識して耳を傾けることはなかったから、改めて問われると困る。
むむ、と眉を寄せた鈴蘭に、雨蛇は何かを探すように梢を見渡してから、ちょうど良い、と口元を緩めた。
「耳を澄ましてみろ」
言われるままに、鈴蘭は目を閉じて耳を澄ました。
木々が枝を揺らす音の合間に、ホケ、ケキョ、と頼りない声が聞こえる。
「あれが、鶯?」
聞いたことはあるかもしれないが、鶯だと認識していなかった気がする。
鶯とは、ホーホケキョ、と透き通った美しい声で鳴くはずだ。
信じられない思いで瞬けば、雨蛇が鈴蘭の方を見て頷いた。
「春先の若い鶯は、鳴き方が下手だ。そこでな、」
雨蛇が一旦言葉を切って、梢の方を見上げる。そして、少し口をすぼめた。
ホー、ホケキョ、と澄んだ口笛が、谷に響いた。
一瞬、しんと静まり返る。次いで、ホケキョ、と先程より上手くなった声が、自信なさげに鳴いた。
もう一度、雨蛇が口笛を吹く。それに遅れて、鶯が鳴く。
繰り返すうちに、最初は辿々しかった声が、高らかで堂々としたものになっていく。
呆気に取られる鈴蘭を振り返った雨蛇が、悪戯に成功した子どもみたいに楽しげに笑った。
「鶯だって鳴き方を教わらなきゃ鳴けない。教わったところで、一発じゃ鳴けない。犬や狼なんかの獣だって、群れの中で大人のやり方を見ながら狩りを練習していくもんだ。なのに、どうして人間が、教えられもせず、練習しもしないで、最初から全部ひとりでできるなんてことがある?」
できると思うなら、そりゃ驕りってもんだ。と、雨蛇が茶化すように語尾を軽くする。
「知らないんなら、ひとつずつ覚えていけばいい。何度も間違えて、失敗しながら、ちょっとずつできるようになっていきゃいいんだよ」
風が吹く。湿った土と水の匂いの中に、淡い花の香りが混ざる。
雨蛇も気づいたのだろう。お、と目を細めて、香りの元を辿るように風上に目を向ける。
「……──」
鈴蘭は小さく息を吸った。
俯いて、言われたことを反芻する。それから顔を上げて、しっかりと頷いた。
「はい。分かり、ました」
「それは良かった」
雨蛇が満足げな笑みを浮かべる。
白く霞んだ空と、芽吹きを待つ木々の間で、雨蛇の若草色の瞳だけが、鮮やかにきらめいていた。
しかし、どんなに優しくされても、自分の役目を忘れたことはなかった。
それは、たったひとつ、自分に与えられた、はじめての役目だったから。
自分の価値は、ただそれだけだったから。
本当に、雨蛇さまはわたしを食べる気があるのだろうか。
そんな疑念を抱き始めたのは、いつからだったろう。
いい加減、食べられる草と食べられない草の見分けもおよそつき、仕掛けた罠の成功率も徐々に上がってきた頃だろうか。
「もう、役立たずじゃねえな。ひとりでも生きていけるんじゃねえか?」
「え」
てきぱきと夕餉の支度を済ませ、食べ始めようとした時だった。
何気ない調子で発された雨蛇の言葉に、鈴蘭は椀を取り落とした。
「っ」
中身の粥が零れて、膝にかかる。
熱さに顔を顰めた鈴蘭に、雨蛇が慌てて腰を浮かせる。
「おい、大丈夫か?!」
「大丈夫、です」
確かに熱かったが、火傷するほどではない。
首を振る鈴蘭に、雨蛇が眉を吊り上げて、部屋の隅から引っ張ってきた水甕を傾ける。
「わ、何してるんですか。水汲みだって大変なのに」
威勢良く流れた水を咄嗟に手のひらで受け止めつつ、慌てて水甕を押し戻す。
雨蛇は水甕を立て直しながらも、手拭いに滴るほど水を含ませて、鈴蘭にずいと押しつけた。
「火傷を侮るな。しばらく冷やしておけ」
「……はい」
こういう時の彼はなかなか引かない。
大人しく膝を冷やしながらも、鈴蘭は眦に力を込めて雨蛇を睨み上げた。
「さっきのはどういうことですか。わたしを追い出すつもりですか?」
「別に、追い出す気はねえよ」
「ならいいですけど……」
「けど、住み良さそうな里があったらそっちに移ったって構わないんだぜ? 人間は人間同士の方が暮らしやすいだろ」
安堵しかけた途端にこれだ。
何も分かってない。鈴蘭はむっと頬を膨らませて、雨蛇を見上げる視線に抗議の色を込めた。
「移りません。わたしはあなたに食べてもらうんですから」
「……まだ言ってんのか、それ」
雨蛇がぼそりと呟く。
いつからだろうか。鈴蘭がこの手の発言をした時、雨蛇が辟易した顔をするようになったのは。
知らない。そんなわけがない。
頭によぎった不安を振り払うように、鈴蘭は雨蛇ににじり寄った。
「ねえ、雨蛇さま。わたし、そろそろおいしそうになりましたか」
胡坐をかいた彼の膝に半ば乗り上げるようにすれば、水で濡れた衣の裾が当たったのか、彼が微かに顔を顰めた。下りろ、というように手で示すのを無視して、鈴蘭はそのまま彼を見上げた。
骨と皮しかないと言われたあの頃に比べて、ずいぶん肉はついたと思う。
雨蛇の腰くらいまでしかなかった身長も、肩口くらいまでは伸びた。
太っているかと言われれば難しいところだが、充分、食べるところはあると思う。
しかし、雨蛇はちらりと鈴蘭を一瞥したかと思うと、すぐに顔を逸らして、話にならないというように首を振った。
「駄目だな。まだまだだ」
「でも、これ以上食べても肉はつかないですよ」
どうやら自分は肉がつきにくい体質らしい。それに、山暮らしの食生活と運動量では、太るにも限界がある。
必死で言い募る鈴蘭を軽くあしらって、雨蛇が立ち上がる。
「知らねえよ。とにかく、まだと言ったらまだだ」
「ええー!」
むくれる鈴蘭を置いて、雨蛇が水に濡れたむしろをてきぱきと拭き始める。これは一旦どこかに掛けて乾かした方がいいな、と言いながらばさりと持ち上げて抱えてしまうと、外に向かいながら鈴蘭を振り返った。
「衣、着替えてこい。思いっきり水かけちまったからな。痛むようなら手当てするが、その様子なら大丈夫そうか?」
「……大丈夫、です」
躱された。
だが、ここでこれ以上粘っても、良い結果は見込めない。
乾いた衣に着替えるべく、鈴蘭は渋々立ち上がった。
それから、何度も似たようなやり取りを繰り返した。
それでも、信じていたのだ。
何度疑念を抱いても、その度に振り払った。
そんなわけない、勘違いだ、と自分に言い聞かせて、たったひとつの約束を信じた。
しかし、膨れ上がった不安は、雨蛇が客人だという少女に食らいつこうとしているのを見た瞬間に決壊した。
雨蛇の古い友人だという彼女は、自分よりさらに小柄で、細い身体をしていた。
鈴蘭が食べてもらえないのは、まだ充分に成長していないからではなかったのか。
身体の大きさが足りないのでないなら、いったい、何が足りないというのだ。
戯れだ、と言い訳をしていたが、鈴蘭は戯れにもそんなことをしてもらったことはない。
席を外せ、と言われたから一旦外したが、やはりどうしても様子が気になる。
なんとか理由を見つけて、鈴蘭はもう一度そちらに向かった。
岩屋の入り口付近の巨石に身を隠して、こっそり中の様子を窺う。
話し声が聞こえた。
聞き慣れた男の声に、聞き慣れない少女の声が応える。
内容までは分からないが、漏れ聞こえる雨蛇の声は、いつもより真剣な響きを帯びているような気がする。
何を話しているのだろう。
差し込む陽光を遮らないように気をつけながら、岩屋のすぐ外までそろそろと近寄る。
「……このまま、共に暮らすのでは駄目なのか?」
耳に飛び込んできた問いに、鈴蘭は息を詰めた。
「俺はいいが、あいつが納得しない。あいつは俺に食われることに執着してる。贄という役割に縛られて、自分にはそれ以外ないと思い込んでるんだ。俺といる限り、それは消えることはないだろう」
(……え?)
何の話をしている。
納得、とは何だ、執着、とは何だ。
聞こえる会話は途切れ途切れではあるが、彼の主張を知るには充分だった。
「食う気はないと、伝えてはいるのだな?」
(やめて)
「信じようとしないんだ。……だから俺も根負けして、もう少し育ったらな、って誤魔化しちまう」
(やめて!)
違う。
違う。
誤魔化しなんかじゃない。だって、約束した。
約束したのだ。
「分かってる!」
雨蛇の声が悲痛な色を帯びる。
今まで一度も聞いたことのないその声色に、ああ、本気なんだ、と分かってしまった。
「ちゃんと、分かってもらわなきゃならない。俺は、あいつを食う気がないんだ、って」
(……ああ)
裏切られた、ような気がした。
確かに、最初はそんなことを言っていた。
でも、折れてくれたと思っていたのだ。
出て行っても良いだの、そんなのはすべて、ただの軽口だって。
(いや、違う)
本当は、自分でも気付いていたのだろう。
でも、気づかないふりをしていたのだ。
手のひらで顔を覆う。
抱えていた口実の酒甕が、支えを失って、ぱりんと割れた。
話し声がぴたりと止む。
急いた足音が鈴蘭の方に向かってくる。
振り仰ぐ。
瞠られた若草色と、目が合った。
雨蛇さま。
あなたは、わたしのすべてでした。
あなたに食べられるために、わたしは生きてきました。
あなたが食べてくれないのなら。
わたしに、生きる意味はないのです。




