021.第5話 大蛇と生贄(5)はじめての役目
鈴蘭視点です。
嘘だ。
はあ、はあ、と吐き出す呼吸が耳にうるさい。
もつれた足が木の根に引っかかって、鈴蘭はぐしゃりと地面に倒れ込んだ。
嘘だ。
髪に飾っていた小花が零れて、土にまみれる。歯を食い縛って立ち上がり、彼女は再び走り出した。
あの岩屋から、逃げ出すように。
*
「名誉なお役目だ。必ず果たしてくるんだよ」
七年前。
山の大蛇への生贄として選ばれた、六歳の彼女に、里の大人たちはそう告げた。
「はい。おやくめ、かならずはたしてまいります」
彼女は心からの笑みを浮かべて、しっかりと頷いた。
彼女の両親は、彼女が赤ん坊のころに亡くなった。
庇護を失い、そのまま死ぬはずだった彼女に、里の人々は食べ物と着る物、寝る場所を与えてくれた。
与えてもらった分は、返さねばならない。
なのに自分は、どうしても鈍臭くて役立たずだった。
鍬は重くてろくに持てないし、水汲みをすれば桶を引っくり返す。山菜を摘みに出れば迷子になる。
だからこそ、このお役目だけはなんとしてもやり遂げてみせる、と誓ったのだ。
こんな自分でも、みんなの役に立てるのだと、嬉しかったのだ。
その日も空は青く澄んで、ひどく晴れ渡っていた。
真っ白できれいな衣を着せられ、髪は丁寧に梳られて、葛の葉を飾られた。帯に花を挿され、唇には淡く紅を差された。
彼女は衣の袖を広げ、まじまじと眺めた。
こんなに着飾ったのは、初めてだった。こんなに身支度に時間をかけるのも、大人たちがその世話をしてくれるというのも。
「……ごめんね」
彼女の髪を梳きながら、彼女より十ばかり年上の娘が、ぽつりと呟いた。
何で謝るのか、分からなかった。
「ここで祈りながら、大蛇さまを待つんだよ」
山の中腹のある洞窟まで彼女を送り届けた大人たちは、そう彼女に言い含めて、仕上げとばかりに彼女の手足を麻縄で縛った。
そんなことしなくても逃げないのに、と思ったが、これも儀式に必要なことなのかもしれない。
大人たちの足音が遠ざかるのを聞きながら、彼女は跪いて目を瞑った。
そして、一心に祈りを捧げながら、山の大蛇の訪れを待った。
そのまま、どのくらいの時が過ぎただろう。
洞窟の中はひんやりとしており、祈る指先がかじかんで、徐々に感覚がなくなってくる。
どこからか、ぴしゃり、ぴしゃり、と水の落ちる音がする。
一定の調子を刻むその音に眠気を誘われ、彼女はいつの間にかうとうとしていた。
不意に、するり、と何かが這うような気配がして、彼女ははっと目を開けた。
(大蛇、さま?)
慌てて平伏する。次は何をすれば良いのだったか、と記憶を辿ろうとして、彼女はざっと青ざめた。
大蛇が来てからの作法を聞いていない。
このままで良いのか、何か口上を述べるのか、それとも。
失礼があったらどうしよう。役目を果たせなかったら。食べてもらえなかったら。
どくん、どくん、と鼓動がうるさい。
何もできないまま固まった彼女の、頭上から低い声がかかった。
「顔を上げろ」
大人の男性の声だ。
落ち着いているが、どこか沈んだ響きがある。
平伏しなくて良いのだろうか。しかし、命令に従わない方が無礼だろう。
そう判断し、彼女は思い切って顔を上げた。
見たこともないほど、きれいで神々しいひとが、そこにいた。
結わずに下ろした髪は透き通るように白く、清水のように肩を流れ、背を伝って石床に滑り落ちる。
白い髪といえばまず老人を思い浮かべるが、目の前の彼は到底、老人には見えない。そういう白さではない。峰を覆う雪のような、あるいは波立つ渓流のような、清らかで澄んだ白だ。
背筋の伸びた立ち姿はしなやかで、暗がりの中にあって薄光を纏うようだった。
いや、実際に纏っているのだろう。そうでなければ、この暗さの中で、彼の姿だけがはっきりと見えていることへの説明がつかない。
(このひとが、山の大蛇、さま?)
大蛇というからには、大きな蛇の姿をしているのだと思っていた。
目を瞬く。
このひとが、自分を食べるのだろうか。そう思うと、ぼんやりしていた未来が一気に現実味を帯びる。
どくり、と、先程とは違う意味で心臓が高鳴った。
「……幼子か」
白い顔に険しい色を浮かべた大蛇は、苦々しい様子で吐き捨てると、彼女に向かって屈み込んだ。
「──」
彼女は静かに目を閉じた。
しかし、恐れていた──あるいは期待していた痛みは、訪れなかった。
手足を縛めていた縄が、ぱらりと落ちる感触がする。
驚いて目を開ければ、不快そうに眉を顰めた大蛇が、縄を斬ったらしき小刀を鞘に納めて上体を起こすところだった。
「生贄は要らん。帰れ」
「え」
その宣告に、頭が真っ白になった。
大蛇が踵を返す。彼女は慌てて身を乗り出して、彼の袖に縋りついた。
「なぜですか。わたし、おいしくなさそうですか」
「……」
彼は振り返ると目を眇め、彼女を冷ややかに値踏みした。
「そうだな。旨くはなさそうだ。骨と皮ばかりで食うところがない」
淡々と告げられた言葉に、愕然とする。腕を引いて彼女の手を解こうとする彼に、させるまいと取り縋る。
「では、もっと太れば、食べてくださるのですか」
必死だった。
どうして、食べてくれないのだろう。
せっかく、役目が与えられたのに。
ようやく、自分にもできることがあると知ったのに。
「……なぜ、そんなに食われたがる。家に帰れば良いだろう」
「帰れば、いけにえのおやくめを放りだしたと殺されます」
帰る場所なんて、自分にはない。
生贄として送り出された以上、この命はもう大蛇のものだ。
だから、大蛇に食べてもらえないのならば、自分の命に価値などないのだ。
「おねがいです。どうか……、どうか、わたしを、」
息が詰まる。
俯いて肩を震わせる彼女の頭上に、静かな溜息が落ちた。
「……そういえば、そんなこともあったな」
物憂げな声音が、ぼそりと呟く。
不意に、長い指が彼女の顎にかかった。
里の男たちに比べると細い手は、しかし女性のように華奢ではなく、見た目より力は強い。
逆らわずに顔を上げれば、こちらを見定める瞳と視線が交わった。
真っ白な彼の、瞳だけが鮮やかな若草色をしているのだと、その時初めて気付いた。
「無理に放り出しても死にそうだな」
仕方ない、と独りごちた彼が、突き放すように手を離す。
それから、衣の裾を払って立ち上がり、短く告げた。
「来い」
「はい……?」
よく分からないが、命じられればついて行くほかない。
彼女は慌てて立ち上がり、さっさと歩き出した彼の後を小走りで追いかけた。
歩幅の違う彼について行くのは一苦労だった。
息を切らして追う彼女を、大蛇は辛抱強く待ってくれたが、途中で痺れを切らしたらしい。
荷物でも運ぶみたいに片手で抱え上げられ、彼女は大蛇の肩の上で身を縮めた。
やがて辿り着いたのは、山奥の岩屋だった。
どかりと腰を下ろした青年が、炉の中の灰を火箸でかき回して火種を掘り起こす。そして、慣れた手つきで湯を沸かし、椀に注いで、ずいと彼女に差し出した。
「飲め」
「……?」
状況が掴めないまま、言われた通り白湯を飲む。
かじかんだ身体に熱い湯が沁み渡り、指先までじんわりと温まっていく心地がした。
「食え」
少女がちょうど白湯を飲み終わった頃、今度は一回り大きい椀が差し出される。
中を見れば、芋と木の実を煮た粥らしい。干した青菜も加えられ、ほかほかと白い湯気が立ち上っていた。
飢饉の今、食べ物は貴重だ。自分に渡す分などないだろうに。
困惑して青年を見上げる。
なかなか食べ始めない彼女に、青年が苛立たしげに舌打ちした。
「まずは食って肉をつけろ。後の話はそれからだ」
「……わたしがこれを食べれば、あなたはわたしを食べてくれるのですか」
椀を見下ろしたまま、固い声で問う。
自分用らしい粥をよそっていた青年が手を止める。敵でも見るようにそちらの椀を睨めば、青年が椀と彼女を見比べる。そして、椀を持ったまま、面倒そうに左手を軽く振った。
「あー、はいはい。分かった、考えておいてやる」
「……分かり、ました」
そういうことならば。
匙を手に取り、粥を口に運ぶ。
「っつ」
舌をやけどしそうなほどの熱さに驚き、彼女は慌てて匙を口から離した。
熱いものの食べ方など忘れていた。自分は手際が悪いから、言いつけられた仕事を終えて寝屋に戻ると、食事は既に冷え切っていた。残っていないことの方が多かったかもしれない。
改めて、ふー、と匙に息を吹きかけてから、ぱくりと口に含む。
ふわりとした温かさと素朴な味わいが、口の中に広がった。
急に、ぐるる、と腹が鳴った。ひもじささえ忘れていた腹が、久しぶりに空腹という感覚を思い出したらしい。
椀を傾けて、粥をかき込む。
噛みしめて、飲み込み、彼女は決意とともに顔を上げた。
「大蛇さま。わたし、いっぱいたべて、いっぱい大きくなります。あなたに、食べてもらえるように」
「……勝手にしろ」
呆れたような溜息を吐いた大蛇に、はい、と頷いて、彼女は食事を再開した。




