020.第5話 大蛇と生贄(4)望まぬ生贄
七年前、ひどい日照りがあった。
雨は絶えて降らず、田畑は乾き、稲も作物も枯れ果てた。
人々は飢え、渇き、弱い者から順に死んでいった。
雲一つない冴えた青空に、太陽が無慈悲に輝いていた。
困った里の者たちは、山の大蛇に生贄を差し出すことにした。
香河池山に棲む大蛇は、水の力を持つ土地神だという。
人々は彼に生贄を差し出し、どうか雨を降らせてください、と願ったのだった。
*
「と言ってもなあ。俺は多少長く生きているだけの、ただの蛇だ。雲ひとつない空から雨を降らせるほどの力は持ち合わせてない」
雨蛇が心底困り果てたように肩を竦める。
「それに、人間など長らく食べちゃいない。生贄なんて差し出されても、扱いに困るだけだ」
あっさりした彼の口振りに引っかかるものを感じて、狐里は訝しげに瞬いた。
「長らく、ということは、昔は食べておったのか?」
「昔はな」
狐里が差し挟んだ疑問に、雨蛇は特に隠す様子もなく頷く。
「けど、生贄を欲しがる神なんて、今時流行らないだろ。化け物扱いされて、退治されるのがオチだ。俺はそんなのごめんだからな」
「……流行り廃りで決めるものなのか?」
思わず怪訝な顔をする狐里に、雨蛇が首を傾げて、少し考え込むように視線を斜め上に向けた。
「割とそうだな。人間だって同じだろ? この辺りじゃまだ獣を狩るが、都じゃ四つ足の獣を食うのは禁じられたって聞くぞ?」
「そうなのか?」
思わず鴉代を振り仰いで確認する。彼女はああ、と頷いて、指先に摘まんだ干し魚をつまらなそうに揺らした。
「らしいな。殺生は残酷だから、とかなんとか。その割に、人間は人間同士で殺し合うがな」
「生きるために食う。これはいつの時代も変わらない。だが、何を食うのを良しとするか、という倫理や道徳は、その時々に応じて変わっていく」
まあ、時代の流れというやつなんだろうよ、と言いながら、雨蛇が杯を傾ける。
「昔は、神が生贄を求めるなんて珍しくもなかった。天候や実り、天災みたいな、人の力が及ばない領域のものをどうにかしてやるんだから当然の対価だ、って発想だな。けど、時代が変わって、人を食うものは鬼や化け物と呼ばれるようになった。だから俺も、人を食うのは避けるようになった。腹を満たすだけなら、鳥や獣で充分だ。退治されるのも、性質が変わるのも嫌だしな」
「性質が変わる、とな?」
きょとんと首を傾げた狐里と違い、鴉代はすぐに理解したらしい。納得したように頷いてから、狐里に向かって説明を加える。
「神は信仰を受けて神となる。鬼は恐れられるがゆえ鬼となる。私たちあやかしは、大なり小なり外部の影響を受けることが多いのだ」
「人間がそう呼ぶ、というだけでなく?」
「言霊、という言葉を聞いたことがあるか。言葉は力だ。思いや、感情もな。それによって私たちは変質し得る」
言葉を切った鴉代が、そうだな、と思案げに視線を落として、立てた膝の上に肘をつく。
「例えば、この大蛇の場合。もとは蛇のあやかしだが、山の守り神として人々に敬われ、畏れられるうちに、土地神の性質を持つようになったと言える。お前も狐のあやかしと山神様の遣いの二つの性質を持っているだろう?」
それと同じだ、と鴉代がこともなげに言う。
狐里はぽかんと口を開けた。
「いつの間に?」
「お前がそう名乗り、他者にそうと認識されたからな」
どうやら、自分の知らないところで、自分の性質が変わっていたらしい。
衝撃を受ける狐里に、話を戻すぞ、と雨蛇が咳払いした。
「まあ、腹を空かせていたのは俺も同じだ。旨そうだったら食ってたかもしれないが、やってきた生贄を見れば、痩せて食いでのない子どもだ。どうやら里の者たち、みなしごを口減らし感覚で差し出したらしい」
今じゃ多少マシになったが、当時は本当に骨と皮しかなかったんだぞ? と天井を仰いで嘆いてみせる雨蛇に、鴉代が特別な感慨も見せずに淡々と頷く。
「実際、口減らしなのだろうよ。全員に行き渡る食料がないのであれば、人の方を減らせば良い。口減らしのため子どもを殺すと言えば心が痛むが、神への生贄だと言えば何やら崇高なお役目のように聞こえる。お前も体よく利用されたものだな」
「そう。崇高なお役目になってしまったんだ」
皮肉めかして片眉を上げた鴉代に、雨蛇が苦々しい面持ちになる。
「何ていうかな……。あいつはあいつなりに、張り切って送り出されてきたみたいでな。俺はお前を食う気はない、とは言ったんだが、生贄として送り出されたからには帰れません、と言う。山に放り出すこともできたが、数日ももたずに死ぬのは目に見えてるし、それはそれで後味が悪い。仕方ないから、しばらくここに住まわせることにしたんだ」
当時のことを思い出しているのだろう。雨蛇が額を抑えて遠い目をする。
しばらくそうしていたかと思うと、彼は長い溜息を吐いてばさりと髪をかき上げ、げんなりしたように言葉を続けた。
「食え食えとうるさいから、俺もイラッときて、ある程度肉がついたら食ってやってもいい、って言ったんだ。けど、まさか本気にされるとは思わなかったんだよ」
長い指が、落ち着きなく岩床を叩いている。
少女の反応への困惑か、あるいは自身への苛立ちだろうか。
「人間は生きたがるもんだろ? 今は一時的に思い詰めてるかもしれねえが、ちゃんと食って寝て、身体と心が元気になれば、すぐに出ていくだろう、ってさ」
「だが、そうはならなかった」
「ああ、そうだ。そうはならなかった」
鴉代が静かに結論を先回りする。
雨蛇は大袈裟に頷くと、心底困り果てたようにがくりと肩を落とした。
「で、そのうちに……、その、なんだ」
滑らかに流れていた言葉が、急に滞る。
歯切れ悪く口ごもる雨蛇に、鴉代がからかいめかして片眉を上げた。
「何だ。愛おしくなったか?」
「い……」
明け透けな物言いに、雨蛇が一瞬言葉を詰まらせる。
手元の杯を弄びながら視線を泳がせ、それから静かに息を吐き出した。
「そう……、だな。愛着が湧いた……、とでも言おうか。ほら、鳥でも獣でも、花でも木でも、しばらく一緒にいた相手や、手ずから育てたものには情が移るだろ。まあ、そういうやつだ」
「なるほど。そういうやつか」
落ち着かなげに耳元の髪をいじる雨蛇を面白そうに見遣ってから、鴉代がふむ、と顎先に手を当てる。
彼女はちらりと狐里に視線を遣ってから、視線を持ち上げて雨蛇と目を合わせ、切り揃えた髪先を払った。
「それで、お前はあの子をどうしたいんだ」
「……それを相談したかったんだ」
鴉代の空気が、からかうものから真面目なものに変わったことに気付いたのだろう。
姿勢を正した雨蛇の肩から、白い髪がさらりと零れ落ちる。
「本音を言えば、人間の間で幸せになってくれれば、と思うよ」
雨蛇はそう言って、物憂げな睫毛を伏せた。
「もといた里には戻れないと言うならば、別の里に行けばいい。あいつなら、きっとすぐに馴染むだろう。働き者だし、頑張り屋だし、素直だし……、ああいや、頑固なところもあるが……」
何か思い出したのか、薄い唇が少しだけ笑みを刻む。しかし、それはすぐに苦々しい色に変わった。
「人間は人間同士で暮らした方がいいだろ。だから、塩やら何やら、山で手に入りにくいものを買ってこいとか適当な用事を言いつけて、少し遠くの里に使いに行かせたりもしたんだ。うまくいけば、そのままそっちに居つけばいいって思ってさ。なのにあいつ、戻ってきちまうんだよな」
「……このまま、共に暮らすのでは駄目なのか?」
疑問に思って、狐里は遠慮がちに口を挟んだ。
見たところ、鈴蘭という少女と雨蛇は、問題なく暮らしているように思える。岩屋の中の生活感からも、二人のやりとりからも、地に足のついた生活を送っているのが窺えた。別に、人里にこだわる必要はないのではないだろうか。
しかし、雨蛇はきっぱりと首を振った。
「俺はいいが、あいつが納得しない。あいつは俺に食われることに執着してる。贄という役割に縛られて、自分にはそれ以外ないと思い込んでるんだ。俺といる限り、それは消えることはないだろう」
雨蛇の眉が苦しげに寄る。なあ、と身を乗り出して、雨蛇は鴉代に縋るような目を向けた。
「どうすれば良い。どうすればあいつに分かってもらえる?」
「食う気がないと、伝えてはいるのだな?」
「伝えたさ。何度も。だが……」
鴉代の冷静な確認に、答える雨蛇の言葉が失速する。
ぱち、と熾火が爆ぜた。
長い睫毛が、白い頬に陰を落としている。自嘲気味に唇を歪めて、雨蛇は顔を伏せた。
「……信じようとしないんだ。そんな意地悪言わないでくださいよ、なんて言いながら、目だけは全然笑ってない。希望を奪われたみたいな、虚ろで、真っ暗な目で俺を見るんだ。で、俺が取り下げるまで、絶対に引き下がろうとしない。だから俺も根負けして、もう少し育ったらな、って誤魔化しちまう。そうしたら、途端に安心して、嬉しそうな顔をするんだ」
「そこで引いては駄目だろうに」
「分かってる!」
鴉代の苦言に、雨蛇が初めて声を荒らげた。
はあ、と肩で息をしてから、悔やむように眉を下げる。感情を鎮めるように長く息を吐いて、彼は静かに言葉を継いだ。
「分かってる。そうやって誤魔化しても、一時しのぎにしかならないってことぐらい。それに、そうやって誤魔化すのもそろそろ限界だ。ちゃんと、分かってもらわなきゃならない。俺は、あいつを食う気がないんだ、って。だから──」
雨蛇が何を言おうとしたのかは、結局分からなかった。
がしゃり、と何かが割れる音がしたからだ。
口を閉ざした雨蛇が、険しい目で入り口を見遣る。
すだれの向こうに、誰かがいる。
誰なのかは、考えるまでもなかった。
「……っ」
雨蛇が立ち上がる。大股で入り口の方へ向かい、ばさりとすだれをまくり上げる。
茫然と座り込んだ少女が、雨蛇を見上げた。
足元には、割れた甕が転がっている。どろりとした真っ赤な液体が床を汚して、辺りには、むせ返るような甘ったるい匂いが広がっていた。
「どうした。怪我をしたのか」
「はい……、あ、いえ……」
要領を得ないまま首を振る鈴蘭の手を取った雨蛇が、割れた破片を気にしながら、怪我の有無を確認する。
鈴蘭は心ここにあらずと言った様子で雨蛇を見上げ、少し躊躇ってから、ぽつりと呟いた。
「雨蛇、さま。わたしを食べる気がないというのは、本当、なんですか」
「……聞いていたのか」
雨蛇の肩がぴくりと跳ねる。
ゆっくりと顔を上げ、ひどく強張った声で、彼は尋ねた。
「何故、ここに来たんだ。しばらく外すようにと伝えただろう」
「ぐみ酒が……よくできていたので、客人にも、と思って」
鈴蘭が汚れた指で、割れたかめと、床に広がる液体を指し示す。
そういえば、先程果実を食べた時に、酒にも向くという話をしていた。だから、気を利かせて持ってきてくれたのだろう。
ねえ、雨蛇さま、と。
掠れた呼吸が、雨蛇を呼ぶ。
「質問に、答えてくださいますか」
「……っ、……──」
雨蛇が何かを堪えるように目を瞑る。
伝えなくてはいけない、と言っていた。
しかし、こんな時に、こんなふうに伝える気はなかっただろう。
けれど。
やがて開いた目は、強い決意を宿していた。
「……本当だ」
その声に、いつものような気さくで軽い響きはない。
鈴蘭は、しばらく何も言わなかった。
ただ、丸い目を大きく見開いて、雨蛇を見上げていた。
やがて、一度だけ瞬いて、密やかに息を吐き出した。
「そう、ですか。この先も、ずっと?」
「ああ」
「そう、なんですね」
俯く。
噛みしめるように黙り込んでいたかと思うと、急にぱっと顔を上げて、鈴蘭は笑った。
泣き笑いのような、笑顔だった。
「嘘つき」
「鈴蘭!」
雨蛇が伸ばした手の先をすり抜けて、鈴蘭が駆け出す。
雨蛇は一瞬固まってから、弾かれるように立ち上がって彼女を追いかけた。
取り残された狐里と鴉代は、呆然と顔を見合わせた。




