019.第5話 大蛇と生贄(3)食べられたがり
狐里視点です。
「鈴蘭。客の前だ」
雨蛇が渋面を作って鈴蘭の手を解き、人差し指で彼女の額を軽く弾く。
ひゃ、と小さな声を上げた鈴蘭が、額を押さえて一歩下がる。
雨蛇は大袈裟に溜息を吐くと、身を引いて元の位置に戻り、気まずさを誤魔化すように耳元の髪をかき上げた。
「鴉、すまない。戯れが過ぎたな」
「その通りだ。まったく、趣味の悪い」
鴉代がどかりと胡坐をかいて腕を組み、細い顎を反らして雨蛇を半眼で見上げる。
雨蛇は苦笑いを浮かべながら、鴉代に向かって許しを乞うように両手を合わせる。
妙な空気が霧散したのを確かめてから、雨蛇が改めて鈴蘭に向き直った。
「鈴蘭。今のはただの悪ふざけだ」
「本当、ですか」
宥めるような調子の雨蛇に、鈴蘭が眉を下げて視線を迷わせる。
ああ、と首肯して、雨蛇が鴉代たちを手で示した。
「こいつらはあやかしで、俺の古い馴染みだ。俺は友人を食べる気はねえよ」
「そう、でしたか……。早とちりをして、申し訳ございません」
本心から納得したかは分からないが、ひとまず呑み込んだ顔をして、鈴蘭が狐里と鴉代に丁寧に頭を下げた。
「大蛇よ。そちらの娘は?」
鴉代が不審げに眉を顰めて、大蛇と鈴蘭を順に見比べる。
床に置いた籠を抱え直した鈴蘭が、ちらと雨蛇を振り返る。
雨蛇が軽く頷いて促したのを確認して、彼女は片手を胸に当てて、控えめに微笑んだ。
「鈴蘭、と申します。雨蛇さまの贄として、ふもとの里より遣わされました」
「……贄?」
鴉代がおうむ返しに呟く。
その声がひどく冷え切っているように聞こえて、狐里は隣の鴉代を見上げた。
白い顔には、何の感情も浮かんでいない。凍りついたような、完全な無表情だった。
雨蛇はしまった、というように僅かに目を泳がせてから、追及を躱すように身を乗り出して、鈴蘭の抱えた籠の中身を覗き込んだ。
「収穫はどうだ。お、ぐみの実があるじゃねえか」
どうやら、鈴蘭は山の中で食糧を集めて帰ってきたところだったらしい。
雨蛇に向けて傾けてみせた籠の中には、山菜やきのこ、タケノコなどが見える。
その中に赤い実を見つけて、雨蛇が嬉しそうな声を上げた。
きらきらしていて美味しそうな実に、つい物欲しげな目を向けてしまっていたのだろうか。
顔を上げた雨蛇が狐里の方を見て、微笑ましげに目元を緩める。そして、手のひらで籠を示した。
「食っていいぞ」
「……良いのか?」
これは、彼女が雨蛇のために集めてきたものだろう。横から取るのは少々気が引ける。
窺うように鈴蘭を見上げる狐里に、鈴蘭はにこりと唇の端を上げた。
「もちろん、構いませんよ。雨蛇さまの大切なお客人ですから」
「では、ありがたく」
あまり固辞するのも失礼か、と判断し、狐里は素直に赤い実を口へ運んだ。
ぷちりと口の中で弾けた実は、甘みよりやや酸味と渋みが勝っている。
思わずきゅっと口をすぼめた狐里に、雨蛇は悪戯に成功した子どものように軽やかに笑って、長い指で実を摘まみ上げた。
「酸っぱかったか? 色が濃くて、光に翳すと少し透けるようなやつを選ぶといい。それでも当たり外れはあるけどな」
生で食べてもいいが、果実酒にも向くんだ、などと言いながら、雨蛇が実を選り分ける。
「お、でも、だいぶ見分けが上手くなってたんじゃねえか? 昔は若い実ばっかり採ってきたもんな。しばらく放っときゃ甘くなるかと思って、放置してダメにしたりな」
「もう。わたしだって、成長してるんですよ」
思い出し笑いをしつつ、雨蛇がひょいひょいと実を摘まむ。
微笑みながらそれを見守る鈴蘭の視線が、雨蛇の口元と牙に向いているのに気付き、狐里は何となく居心地が悪い思いで目を泳がせた。
「雨蛇さま。口元に果汁が」
不意に、鈴蘭がすっと雨蛇に近づき、細い指先で彼の口元を拭った。
唇のぎりぎりを滑った指が、牙の先を掠める。偶然を装っていたが、明らかにわざとだ。
さすがに雨蛇も何かに気付いたらしい。彼はやや狼狽えたように身を引くと、わざとらしく顔を顰めて、鈴蘭の指先を手拭いで拭った。
「行儀悪いぞ」
「申し訳ございません」
親みたいな叱り方をする雨蛇に、全く悪びれた様子のない鈴蘭が口先だけで謝罪する。
雨蛇は額を押さえて深い溜息をついた。
「鈴蘭。俺は久しぶりに会う友人と積もる話がある。悪いが、しばらく外してくれるか」
「はい、分かりました」
渋々と言った様子で、鈴蘭が籠を抱え直す。彼女はそのまま岩屋の入り口の方に足を進めかけ、外に出る前に、一度だけ振り返った。
「雨蛇さま。そのかたがたのことは、ご友人だから食べない、とのことでしたが、」
差し込む陽差しが逆光になって、鈴蘭の顔が暗い陰になっている。
「わたしは、あなたの友人ではありませんよね」
「──」
雨蛇が僅かに息を詰める。
一拍の後、何かを堪えるように長く息を吐いて、鈴蘭を見上げた。
「ああ。おまえは友人じゃない」
固い声で答えた雨蛇の、表情は見えない。
「よかった」
鈴蘭が声音を明るくして、ぱっと表情を綻ばせる。
花が咲くような、可憐な笑みだった。
「ねえ、雨蛇さま。早く、わたしを食べてくださいね。わたし、ずっと、ずーっと待っているんですから」
とろけるように甘やかな声で、鈴蘭が告げる。
細められた瞳は、ただ雨蛇だけを見つめている。
しばらくそうしていた後、思い出したように狐里と鴉代にぺこりと頭を下げると、彼女は今度こそ駆け去っていった。
ぱたぱたと、軽い足音が遠ざかる。
雨蛇が詰めていた息を吐いて、ぐったりとした様子で頭を抱えた。
「何だ、今の娘は」
「聞いた通りだ」
「人は食べないんじゃなかったのか」
「そうだ」
詰問する声音の鴉代に、雨蛇が悄然と答える。
「相談事がある、と言っていたな。あの娘のことか」
「……そうだ」
重ねた問いに、唸るように返した雨蛇が、背を丸めたまま膝を引き寄せる。そして、疲れ切った様子で鴉代と狐里を順に見上げた。
「贄、と言うておったが……」
ちらと鴉代を窺いつつ尋ねた狐里に、雨蛇が首肯する。
「ああ、そうだ。あいつは、七年前にふもとの村から俺に捧げられた生贄だ」
聞いてくれるか、と縋るように聞いた雨蛇に、鴉代と狐里はそれぞれ頷いた。
雨蛇は杯を傾けて唇を湿すと、これまでの経緯を語り始めた。




