018.第5話 大蛇と生贄(2)鴉の古馴染み
狐里視点です。
岩屋の中は、外から見た時の印象と比べて結構広かった。
入り口は重なった巨石とツタで半ば隠され、その奥に葦を編んだ簡素なすだれがかかっている。すだれ越しに深くまで陽が差し込むため、内部はそこまで暗くはなかった。
中央に据えられた炉の中では熾火がちらちらと燻り、その周りの床にはむしろが敷かれている。壁際には大小さまざまな甕や壺が並べられ、低い木棚に皿や杯などが雑多に置かれている。天井に渡された縄からは、干した魚や果物、薬草らしき草の束などが吊り下げられていた。
意外に生活感のある住み処だ。
「適当に座ってくれ」
告げながら、雨蛇がさっさとむしろの上に胡坐をかく。
炉を挟んだ向かいに鴉代が座ったのを見て、狐里もその隣に腰を下ろした。
「前に会ってからは二、三十年ってとこか? しばらく音沙汰がないから心配してたんだぞ?」
長い髪が床につくのも構わずに、片膝を立てて頬杖をついた雨蛇が、鴉代を流し見る。
「小蛇を遣いにやろうにも瘴気で近づけねえし。様子が分からなくてやきもきしたもんだ」
「瘴気?」
何のことだろうか。
きょとりと首を傾げた狐里に、雨蛇はちらと目を上げて、彼女と視線を合わせた。
「昔──もう百年近く前か、あの辺で洪水があったのは知ってるか?」
「む……」
聞いたことはある、気がする。
記憶を辿りながら、曖昧に相槌を打てば、雨蛇が軽く頷いて話を続ける。
「それから長らく、御景山の麓に人は住んでいなかった。が、三十年ばかり前、また他所から人が移ってきてね。荒れた土地を開墾し、家や田畑を作って暮らし始めた。で、ちょうどその頃からぱったりと連絡が途絶えたもんだからさ。こいつが呪いに変じて全員取り殺してたらどうしようかと思ったね」
雨蛇が冗談めかした調子で声音を軽くして、だらりと胸の前に手を垂らしてみせる。ふざけた様子だが、心配は本物らしい。
「だから、すまなかったと言っているだろう」
疑いをかけられた鴉代が、苛立ち半分、決まり悪さ半分といった様子で声を尖らせる。
はいはい、と肩を竦めて、雨蛇が手を下ろした。
「けどさ。少し前から急に瘴気が晴れたから、そろそろ大丈夫かな、と思って遣いを出したんだ。本当、元気そうで良かったよ」
若草色の瞳がふっと和らぐ。
安堵と慈しみが混ざり合ったような眼差しに、鴉代はどこか居心地悪そうに身じろいで、場を取り成すように小さく咳払いをした。
「昔話はそれくらいにしろ。そうだ、些少だがこれを」
「別に、気ぃ遣わなくていいのに」
渡された手土産に、雨蛇が苦笑しつつも手際良く包みを開けた。
「杏と、すももと、キイチゴと……、お、この金柑は蜜煮か?」
「酒にしようか迷ったが、お前はこういう方が喜ぶかと思ってな」
そういえば、来る前に何やら準備していると思った。
包みから中身を取り出して並べつつ、声を弾ませた雨蛇に、鴉代が微かに表情を緩める。
「せっかくの厚意だ。早速いただこうじゃないか」
いそいそと木杯を並べた雨蛇が、壁際に並べられた甕から瓶子に酒を移す。そのまま杯に注ごうとして、何かに気付いたようにぴたりと手を止め、狐里たちの方を窺う。
「甘酒の方が良かったか?」
鴉代が不満げに唇を曲げた。
「見た目で子ども扱いしないでくれるか?」
「おまえには言ってねえよ」
雨蛇は呆れた様子で返して、酒を注いだ杯を渡す。そして空の杯を手に、狐里へと視線を投げかけた。
「狐里。おまえ、今いくつだ?」
なぜそんなことを聞くのだろう。首を捻りつつも、狐里は素直に答えた。
「獣の頃のことはよく覚えておらぬが……、あやかしとなってからは、一年と少しじゃな」
途端、雨蛇が手にした柄杓を取り落とした。
ぱしゃりと酒の滴が跳ねる。もったいない、と顔を顰める鴉代をよそに、雨蛇が目を瞠って狐里をまじまじと見つめた。
「赤子じゃねえか!」
「妙なことを気にする。狐の一歳は成獣だろうに」
予想していなかった反応にぽかんとした狐里を代弁するように、鴉代が淡々と言う。
「それは……まあ、そうか」
雨蛇は睫毛を瞬かせると、動揺を誤魔化すように杯に酒を注ぎ、狐里に手渡した。
子どもの姿をしていても、狐里はあやかしだ。酒は問題なく飲める。飲めるのだが、雨蛇の言う『甘酒』とやらに興味をそそられたところだったので、少々残念な気持ちではある。
しかし、振舞われる側でそれを言うほど厚かましくはない。
杯に口をつけつつ、ふと思いついて、狐里は首を傾げた。
「そういう雨蛇……どの、はいくつなんじゃ?」
口振りや態度からして、雨蛇は鴉代より年長のあやかしなのだろう。
呼び方に迷った挙句、慣れない敬称をつけてみた狐里に、彼はあくまで軽い調子で笑った。
「だから、畏まんなくていいって。俺は、ただの蛇だった頃も含めて三百年くらいだな」
「三百……」
あやかしの基準は分からないが、人の寿命が数十年、蛇の寿命は確か十数年だというから、それと比べればかなりの長命だろう。
指を折りながら考えたところで、狐里ははたと、自分が鴉代の年齢を知らないことに気付いた。
隣を見上げれば、狐里の疑問を察したのだろう。鴉代が杯から唇を離して、こだわりなく答えた。
「私は百年くらいだ。ただのカラスだった頃を含めてもさほど変わらぬ」
「ふたりとも、長く生きておるのじゃな」
感嘆する狐里に、雨蛇が頬杖の角度を深くして、ひらひらと片手を振った。
「まあ、おまえに比べればな。けど、おまえのところの山神は、俺よりもっと長かったはずだぞ」
「山神様のことを知っておるのか?」
思いがけない名に、狐里は思わず身を乗り出した。
「知ってるも何も、俺はもともとそちらの山神──ミカゲ殿と旧知の仲だったんだ。ミカゲ殿とは、隣人……隣神とでも言えばいいのか? ご近所のよしみでたまに会って酒を酌み交わしてたんだが、ある時、こいつを連れてきたんだ」
雨蛇に指をさされて、鴉代が頷く。
「ああ。山神様と巫子様に連れられてきたのが最初だったな」
「我は山神様にも巫子様にも会ったことがないのじゃ。どんなひとたちだったのじゃ?」
ぽんぽんと交わされる言葉の合間を縫って、疑問を差し挟む。
雨蛇が頬杖から顎を浮かせ、意外そうに狐里と鴉代を見比べた。
「こいつから飽きるほど思い出話を聞かされてるもんだと思ってたけど」
まあいいか、とひとりごちた彼が、立てた膝を引き寄せる。長い髪がするりと床を滑って、むしろの上でとぐろを巻く。
窺うようにちらりと鴉代に視線を遣ってから、雨蛇は思い出を辿るように遠くを見つめた。
「ミカゲ殿は、明るくてよく笑う御仁だったよ。山そのもののような雄大さがありながら、ひとつひとつの生命を慈しむあたたかみもあった。俺よりよほど年上のはずだが、どこか……無垢、とでもいえばいいのか? 擦れていない純粋さもあってな。自然を愛し、人を愛し、里を愛していた。情の深いひとだった」
「……巫子様は?」
「巫子殿は、見た目こそ淑やかだが、芯の強い人だったな。人の身でありながら、あのミカゲ殿相手にも物怖じせず、物言いにも振舞いにも容赦がないものだから冷や冷やしたぞ」
「里の者たちの前では、見た目通り淑やかだったぞ。山神様相手だから、だろう」
「だな。互いに気を許していたからこその振舞いだろう」
鴉代の反論を肯定した雨蛇の、懐かしそうに細めていた目が、ふと翳る。
「俺はおふたりのことを大して知らないが、それでもおふたりが互いを大切に思い、慈しみ合ってたのは知ってる。だから──」
「大蛇」
ぴり、と空気が張り詰めた。
炉の中でばらりと乾いた音がして、ほとんど炭化した薪がひとつ崩れ落ちる。黒い燃え滓と灰が静かに舞って、炉のふちに零れた。
咎めるように声を鋭くした鴉代の方を見ないまま、雨蛇は静かに息を吐いた。
「そうだな。湿っぽい話はやめよう」
たん、とわざとらしく音を立てて置いた杯に手酌で酒を注ぎ、ぐいと呷ってから、雨蛇がふたりの手元を見比べた。
「飲め。遠慮するな」
微妙な空気を振り払うように声を明るくした雨蛇に、鴉代が空になった杯を突き出す。
「ならば遠慮なく。もっと辛い酒はあるか?」
「本当に遠慮ねえな、おまえ……」
呆れ声を上げつつも、付き合い良く違う甕を開ける雨蛇に、狐里は遠慮がちに声をかけた。
「我は甘酒というのを飲んでみたいのだが、構わぬか?」
「お、いける口か?」
若草色の瞳がぱっと輝く。
何がいけるのかはよく分からないが、彼の気に入りの品なのだろうか。誰かと好みが重なった時の嬉しさは、狐里にも分かる気がする。
狐里の分を注ぐついでに、自分の杯も同じもので満たして、雨蛇が杯を傾ける。
真似して口に含めば、濃厚な甘さが口の中に広がった。甘酒というからには甘いのだろうと思ってはいたが、酒の風味はほとんどなく、米の甘みを何倍にも凝縮したように甘い。
「冷たくても旨いが、温めると更に甘さが引き立つ。寒い時期は生姜なんかを加えてもいいぞ」
顔を綻ばせて甘酒を飲む狐里と、それをにこにこと見守りながら果実をつまむ雨蛇に、鴉代が呆れたような半眼で見遣った。
「甘い酒と甘い肴でよく飲めるな」
「おまえだって辛い酒と辛い肴で飲むだろうが。っと、せっかく用意したのに忘れるところだった」
雨蛇がぽんと手を打ち合わせる。
なんだ、と首を傾げる鴉代に、少し待て、と言い置いて彼が席を立つ。
やがて戻った彼が、鴉代の手土産の隣にどさりと皿を置いた。
「ほら。おまえはこういう方が好きだろ」
ふきみそに葉ワサビの漬物、イワナの燻製、タケノコに山椒の若葉をあわせた木の芽和え。
並べられた品々に鴉代がほう、と身を乗り出して頬を緩めた。
「この辺りではまだふきのとうが採れるのか?」
「少し登ればね。と言いたいとこだけど、さすがに今年はもう終わりだな。これは少し前に作っといたやつだ」
ふきのとうのほろ苦さに舌鼓を打ちつつ、イワナを炉の傍で炙る鴉代に、雨蛇が苦笑する。
「相変わらず、見た目に似合わず渋いな」
「見た目と食の好みは関係ないだろ。そういうおまえは相変わらず甘党だな。蛇は肉食だろうに」
「別に、果物ばっかり食ってるわけじゃねえぞ。人は長らく食ってねえが、鳥や獣は普通に食うしな」
すかさず言い返した鴉代に、雨蛇が軽口めかして反論する。
(長らく?)
やや引っかかる物言いに、狐里は首を傾げた。
しかし、鴉代は別のところが気になったらしい。
「……鳥か」
鴉代が微妙に嫌そうな顔をして、肴に伸ばしていた箸を止める。
普段、人の姿で過ごしていることが多いとはいえ、鴉代の本性は鳥である。
カラスとて他の鳥を捕食することはあるはずだが、他の種族に言われるのは気になるのかもしれない。
しかし、雨蛇は鴉代の表情に気付いていないのか、あるいは鴉代が鳥であることを忘れているのか、そうだな、とこだわりなく頷いて話を続けた。
「今の時期だと山鳩かな。ただ焼いても良いが、ぱりっと蒸すと更に旨い。秋冬になると鴨や雉なんかに脂が乗ってくるな」
そこまで喋ってから、雨蛇がおや、と怪訝な顔で首を捻る。
ようやく気付いたのだろう。しまった、というように目尻を微かに引き攣らせ、話を切り上げようとして──ふと、悪戯を思いついたみたいに唇の端を引き上げた。
「そういえば、カラスはまだ食べたことがなかったな」
からかいめいた軽口とともに、雨蛇が胡坐を崩して腕を伸ばす。
長い指が、並べた肴の横に置いていた鴉代の細い指先を捕らえる。
そのまま軽く引き寄せて、噛みつく真似をするように口を開ければ、薄い唇の間から、人とは違う鋭い牙が覗いた。
鴉代の肩が、ぴくりと跳ねる。
「悪ふざけはやめろ」
吐き捨てる声が固い。
戯れと理解してはいるのだろうが、あからさまに身体が強張っている。あやかし同士仲良くしていても、野生の動物としての本能はあるのだろう。
そしてそれは、雨蛇も同じだったらしい。
冗談めかした明るさを浮かべていた瞳が、不意に色を変える。ふざけた調子がすっと抜け落ちて、怯える獣を前にした捕食者の色になる。
ぐい、と腕を引かれて、鴉代が前のめりに体勢を崩した。
黒い髪が揺れて、軽い身体が、ずり、と引きずられる。捕らえられていない左手を床について何とか留まり、鴉代は紅い目に焦りを浮かべて雨蛇を見上げた。
「やめ……、」
さすがに良くない気配がする。
狐里は慌てて立ち上がった。そのまま、ふたりの間に割って入ろうと大股で回り込む。
白い指先が、開いた口元に触れる寸前。
雨蛇の瞳が、ふと翳った、ように見えた。
(……?)
そこによぎったものは、何だったのだろうか。哀愁か、あるいは切なさだろうか。
雨蛇の力がふっと緩む。その隙を見逃さず、鴉代が手を振り解こうとした時。
「雨蛇さま」
この場にいる三人の、誰とも違う声が響いた。
ほっそりした影が、するりと狐里と鴉代の前に滑り込んで、雨蛇のすぐ前に立つ。
しなやかだが少し荒れた手が、そっと雨蛇の手を取って丁寧にほどき、鴉代の代わりに自分の指を絡める。
彼女は、まるで鴉代と狐里など目に入っていないかのように、雨蛇の前に片膝をついた。
そして、半ば彼に乗り上がるほどの距離から、大きな瞳で責めるように彼を見つめた。
「雨蛇さま。わたしより先に、その子を食べるのですか。その子、わたしくらい……いいえ、わたしより細いくらいなのに」
「……鈴蘭」
雨蛇が呻くように呼んだのは、彼女の名だろうか。
人間の少女だ。少なくともそう見える。
見た目の年齢でいうなら鴉代と同じか、少し上くらいに見えるから、十三、四といったところか。
ほっそりした身体に若草色の上衣を纏い、足首が出る丈の白い裳をあわせている。柔らかそうな髪はふたつに分けて複雑に結い上げられ、可憐な花が飾られている。
大人というには幼さが残るが、清廉さの中に匂い立つような色気がある。綻びかけの蕾にも似た雰囲気の娘だ。
「ねえ、雨蛇さま」
鈴蘭と呼ばれた少女が、すい、と雨蛇に身を寄せる。
彼女は絡めた指を自らの胸元に引き寄せて、もう一方の手で、雨蛇の頬を包み込むように撫でた。
「いつ、わたしを食べてくれるのですか」
うっとりと。
夢見るような声で、少女が囁いた。




