017.第5話 大蛇と生贄(1)五月雨の遣い
「ねえ、大蛇さま。早く、わたしを食べてくださいね。わたし、ずっと、ずーっと待っているんですから」
鴉の古い知己だという大蛇の青年に招かれ、隣の山を訪れた狐と鴉。
そこでふたりは大蛇より、「頼んでもいない生贄を捧げられて困っている」との相談を受ける。
第5話「大蛇と生贄」、全7~8節くらいの予定です。
しとしとと降る雨が、境内の紫陽花を濡らしている。
天から落ちた滴は、青や紫の花に弾かれて葉に溜まり、玉となって地面へと転がり落ちる。
社の周りにぐるりと廻らされた濡れ縁に腰を下ろし、狐里はぱたぱたと足を揺らした。
雨は好きだ。雨粒が葉を叩く音も、湿った土と緑の匂いも、水気を帯びた冷ややかな空気も。
「──……」
ふと、雨音の中に密やかな話し声が聞こえた気がして、狐里はぴくりと耳を動かした。
女性にしては少し低い、落ち着いた声は鴉代のものだ。
独り言ではなく、誰かと話しているような雰囲気だが、もう一方の声は聞こえない。
人間がこの社を訪れることは少ないし、もし人間が訪れたとしても、人嫌いの彼女は余程のことがない限り顔を出さない。
(誰と話しているのだろう)
鳥か、獣か。
狐里はそろりと縁の上に足を引き上げ、柱に身を隠すようにしてそちらを覗き込んだ。
鴉代は社の正面にしゃがみ込んで、足元あたりの低い位置に視線を合わせている。流れた髪に隠されて表情は見えないが、漏れ聞こえる声は穏やかだ。
「では、近々そちらに向かうと伝えてくれ。私と、もうひとり連れて行っても構わないか?」
問いかけて、少し間が空く。
狐里には聞こえなかったが、肯定の返事があったのだろう。鴉代が軽く頷いて立ち上がり、視線を合わせ直すように一歩下がる。
それでようやく、狐里にも相手の姿が見えた。
「のわ?!」
思わず叫んでしまった。
慌てて口に手を当てるが、出てしまった声は戻せない。鴉代がぱっと振り返り、地面のそれもゆるりと首をもたげる。
真っ白な小蛇だ。
長さは親指と人差し指を広げたくらいだろうか。
こちらを見る赤い瞳は利口そうで、大きな生き物への敵意も恐れもない。
小蛇は狐里に向かって礼をするように頭を動かすと、滑るように木立の中へと消えていった。
「お前……」
「すまぬ!」
半眼を向ける鴉代に、狐里はがばりと頭を下げた。
今のは自分が悪かった。覗き見も、鴉代の客だろう相手に対して大きな声を出したのも。
「まあ良い。ちょうど用事は終わったところだ」
さらりと許されて、狐里はあれ、と顔を上げた。
普段ならもう二、三は続くはずの小言がない。別に小言を所望しているわけではないが、何となく肩透かしを食らった気分である。
鴉代はそんな狐里を気に留める様子もなく、軽やかな足取りで階を上がり、狐里を追い越して妻戸をくぐった。
「そんな端近では雨に当たるだろう。濡れたいのなら構わないが」
からかうような忠告を投げて奥へ引っ込む鴉代を追い、狐里もぱたぱたと社の中へ入った。
吹き込む程度の雨なら、濡れるのも嫌いではないが、今はそれより、機嫌の良さげな鴉代の様子が気になった。
「先程の蛇、そなたの知己か?」
話していた時点で知己といえば知己なのだが、そういうことではなく。
知性を感じさせる瞳に、礼儀正しい振舞い。どこか神聖さを覚える真っ白な色彩といい、ただの蛇ではないように思えたのだ。
言葉足らずな問いに含まれた疑問を、察し良く汲み取って、ああ、と鴉代は頷いた。
「の、遣いだ。久しぶりに会いに来ないか、と言伝を持ってきた。何でも、相談事があるらしい」
「会いに行くのか?」
「そのつもりだ」
淀みない答えに、狐里は目を瞬かせた。
久しぶりに、という言い方からして、知己とやらはこの山に住んでいるわけではないのだろう。
鴉代が自分から山の外に出るのは珍しい。狐里が連れ出すことはあるが、自分から出ようとするのは、もしや狐里がこの山に来てから初めてではないだろうか。
「我も! 我も行く!」
ぴょこんと飛びついてじゃれかかれば、鴉代が煩そうに半身を引く。が、怒りはしない。
「そう言うと思って、ふたりで行くと伝えてある。雨が落ち着いたら向かうとしよう」
「うむ!」
避けるのが面倒になったらしい鴉代が、狐里を引き剥がすのを諦め、金色の頭を掴んでわしゃわしゃとかき回す。
細い指の感触に目を細めてから、狐里はふと鴉代を見上げた。
「それで、その知己というのはどんなひとなのじゃ?」
「隣の──、香河池山に住まう大蛇だ」
端的に答えてから、少し説明が足りないと思ったらしい。鴉代が考え込むように顎に指を当てて、躊躇いがちに付け加えた。
「昔、世話になった相手だ」
「昔、か」
軒先からぱたりと雫が落ちる。
降り続いていた雨は徐々に弱まり、厚い雲の切れ間から淡い陽光が差した。
*
「ひとつ山を越えるだけで、ずいぶんと景色が変わるものじゃな」
感慨に声を弾ませて、狐里はきょろきょろと辺りを見渡した。
切り立った崖は岩肌が露出して、その下を清らかな渓流が走っている。速い流れは川岸を削り、岩にぶつかって飛沫を飛ばす。吹く風は細かな水滴を含んで、ひやりと肌を冷やした。
鴉代はばさりと翼を畳んで背に収めると、黒い衣の衿元を合わせた。
「確か、この辺りのはずだ。私たちが来たのは気付いているはずだが……」
「そうなのか?」
首を傾げれば、鴉代は記憶を辿るように辺りの風景を見渡しながら、なおざりに頷いた。
「この山一帯は、あいつの領域だからな。お前だって、御景山に人やあやかしが入り込めば分かるだろう。それと同じだ」
「分からぬが?!」
当然のように言わないでほしい。
きょとんとした顔でこちらを向いた鴉代に首を横に振れば、そうなのか、と鴉代が若干気まずげにする。
「また教える。とにかく、気付いているはずだ。……ああ、来たな」
岩の間から姿を現したのは、先日と同じ、白い小蛇だった。
小蛇は狐里と鴉代の姿を認めて礼をするように頭をもたげてから、するりと身体を滑らせてもと来た方を向く。どうやら、ついてくるようにと言っているらしい。
灰白の岩の上を這う蛇を、見失わないように追いかける。
少し進むと、木々の緑が濃くなる。膝まで茂った下草をかき分けながら進み、辿り着いたのは、山肌に穿たれた岩屋だった。
待っていろ、と告げるように一度振り返ってから、小蛇が先触れのように岩屋の中へ入っていく。
程なくして姿を現したのは、長身の青年だった。
白い、と真っ先に思った。
地面につきそうなほど長い髪も、一度も陽に当たったことがないような肌も、抜けるように白く、長い睫毛に縁取られた切れ長の瞳だけが、芽吹いたばかりの新芽のような鮮やかな若草色をしている。
身長は狐里より頭ふたつ分ほど高い。しなやかな身体に白い衣をさらりと着流して、低めに締めた帯は瞳と同じ若草色だ。
どこか神秘的な雰囲気につい気後れして、狐里は思わず半歩後退った。
一方、鴉代は纏う空気を少し緩めて、とん、と青年の前に歩み出た。
「久しいな、大蛇よ。すまない、長らく不義理をした」
鴉代が律儀に頭を下げる。
大蛇と呼ばれた青年は、白い睫毛を瞬かせてから、からりと明るく笑った。
「相変わらず堅っ苦しいなー、おまえ。気にするなって」
思ったよりも気さくな物言いをする。
ニッと快活な笑みを浮かべれば、初めに抱いた近寄り難さは一気に薄れて、親しげで人当たりの良い印象になる。
狐里は意外な思いで目をしばたたき、爪先で伸び上がって、鴉代の肩越しに青年を見上げた。
「来てくれてありがとな。俺がそっちに行ければ良かったんだけど、あんまりこの地を留守にするわけにもいかなくてさ」
「彼は土地神だ。守護する地から遠くは離れられぬ」
狐里の疑問を察したのか、鴉代がちらと狐里を振り返って解説を加える。
大蛇が軽く手を振って苦笑した。
「そんな大仰なモンじゃないって。別に数日かそこら離れたところで何が起こるってわけでもないんだけど、今は少し事情があってね。……っと、そちらが?」
興味津々といった様子でひょいと鴉代の背後を覗き込む大蛇に、鴉代は半身を引いて狐里を示した。
「少し前から社に居ついた狐だ」
「居ついた……」
間違ってはいない。間違ってはいないのだが。
反論もできず、しょんぼりと肩を落とした狐里に、大蛇が楽しげに笑い声を上げた。
「居ついた、か。おまえのことだから、気に入らない相手だったら即座に追い出してるだろうに。居つかせているんだな」
「それは、まあ……、そうだが」
からかいめいた口調に、鴉代が歯切れ悪く答える。
鴉代が押されている。
いつもやり込められるのは自分の方だったから、珍しいものを見た心地で、狐里は思わず目を瞬いた。
大蛇は微笑ましげに目元を緩めてから、改めて狐里へと向き直った。
「俺はこの山に棲む大蛇だ。土地神だのヌシだの言われることもあるが、もとはただの蛇だ。畏まらないで、気軽に接してくれると嬉しいね」
親しげに笑いかける大蛇に、狐里は慌てて姿勢を正し、ぺこりと頭を下げた。
「我は狐里じゃ。少し前に鴉代に助けられ、それから社で世話になっておる」
「よろしくな、狐里。俺のことは必要があれば雨蛇と呼んでくれ」
ニッと唇の端を引いた雨蛇の、鮮やかな若草色の瞳に、楽しげな色がきらめいた。




