016.第4話 姉の幽霊(8)主と獣
狐里視点です。
東の空が白々と明るみ、たなびく雲が淡い紫へと染まっていく。
鳥が夜明けを告げ、寝静まっていた里も徐々に目覚め始める。
「おや、もう行ってしまうのかい」
穏やかな男性の声に、出立しようとしていた鴉代と狐里、そして見送りに立っていた沙苗と葵は振り返った。
戸口には、沙苗の父と母が、我が子を見守るような優しげな笑顔で立っていた。
「はい。お世話になりました」
「また近くを通りかかることがあったら、いつでも頼ってね」
粛々と礼を述べる鴉代の手を取って、沙苗の母が優しく告げる。
鴉代はやや居心地悪そうにしながらも、ぎこちなく頭を下げて謝意を示した。
名残を惜しむ様子の彼らの隣で、葵に抱きかかえられた猫だけが、遠慮なく鴉代に敵意を向けている。
結果を見れば収まるところに収まったとはいえ、過程には思うところがあるのだろう。
グルル、と唸り声を上げる猫と、複雑な表情で猫を撫でる葵をちらと見比べて、鴉代が躊躇いがちに目を伏せた。
「……その子の姉君が、少し前に亡くなったと聞きました。よろしければ、ひとさし弔いを」
「あら、良いの?」
「ええ。世話になった、礼です」
遠慮がちな申し出に、沙苗の両親は瞬いた後、微笑んで受け入れた。
遊行の者が、宿の返礼に舞や祈祷を捧げるのは自然な流れだ。だから、この申し出も、旅の巫女という設定に則ったものであるのだろう。
同時に、それだけではないのだろう、と狐里は思った。
鴉代が一度荷物を置き、赤い紐を垂らした神楽鈴を取り出す。右手で鈴を掲げ、左手で紐を捧げ持ちながら、彼女はしずしずと進み出た。
沙苗と両親、葵とその腕に抱えられた猫へと順繰りに視線を遣ってから、紅を引いた目元をつと伏せる。
そして、しゃらん、と鈴を打ち鳴らした。
神奈備の 御諸の山に 斎う杉
思い過ぎめや 苔生すまでに
女性にしては低く落ち着いた、けれど少女らしい伸びやかな声で紡がれたのは、神の座す山の神木を引きつつ、誰かへ向ける想いの永遠性をうたう古歌だ。
葵の腕に力が籠る。猫は喉の奥で唸りながらも、見開いた眼は舞う少女を凝視している。
ひらり、ひらりと袖が翻る。しゃらり、しゃらりと鈴が鳴る。
とん、と拍子を踏む足は軽やかで、人にあるべき身の重さを感じさせない。
羽ばたきのように舞った衣が風を起こして、曙の空に白い花びらが散る。
涼やかな香気を放つそれを黒衣の袖で受け止めて、鴉代が緩やかに瞼を上げた。
風に散る 花橘を 袖に受けて
君が御跡と 偲びつるかも
この橘の花弁を、去っていった方の名残と偲びましょう──と。
謡い上げた残響が消えるまで、周囲の者たちはただ、鴉代を見つめていた。
舞を終えた鴉代が、鈴を下ろして息を吐く。
「では、私たちはこれで。お世話になりました」
荷物を背負い、一礼してそのまま場を後にしようと鴉代を、狐里は慌てて追いかける。
その背に、静かな声がかかった。
「里の出口まで送っていくわ」
振り返ると、申し出た沙苗だけでなく、猫を抱えた葵までもが一緒に立っていた。
「鴉代、狐里。今回のこと、改めて、本当にありがとう」
事情を知らない者たちに声が届かない程度に充分離れた後、沙苗が改めて礼を告げた。
「ありがとう。……『覚えている』ことを、想い続けることを、否定しないでくれて」
穏やかな微笑みには少し翳りがあるが、狐里が最初に会った時のような思い詰めた様子はない。悲しみを忘れ去るのではなく、抱えながら前に進むと決めた、そんな強さがあった。
沙苗はそのまま振り返り、葵と猫へと向き直って再度頭を下げた。
「葵。白。寄り添えなくて、ごめんなさい。叶うなら、今後は私も一緒に、橘の思い出話をしても良いかしら」
「沙苗ちゃんがいいなら、葵は嬉しいよ。白もいいよね?」
「ええ、もちろんよ」
躊躇いがちな沙苗に、葵がぱっと笑みを輝かせる。
白は気まずそうに顔を逸らして、ぺたりと耳を倒した。
「わたしも言い過ぎたわ。沙苗ちゃんが橘を大切に思ってくれていたことも、沙苗ちゃんなりに葵を大切にしてくれようとしたことも分かってる。橘が、沙苗ちゃんのことが大好きだったことも。わたしも……できれば、沙苗ちゃんとも仲良くしたいわ」
「やったあ!」
ぎこちなく、けれど誠実に紡がれた白の言葉に、葵が無邪気に喜ぶ。
笑い合う二人と一匹を見ながら、鴉代が憂いげに睫毛を伏せた。
「……人とともに生きるか」
「そのつもりよ。悪い?」
鴉代がぽつりと落とした呟きを、自分に向けられたものと判断したのだろう。白が葵の腕の中でつんと顎を反らす。
相変わらずの喧嘩腰だが、態度は幾分柔らかい。先程の舞で、何か伝わるものがあったのだろう。
二又に分かれた尾を落ち着かなげに揺らす白に、いや、と鴉代が首を振った。
「悪くはない。……悪い、はずがない」
噛みしめるような物言いに、白が首を傾げる。
赤みがかった瞳は白に向けているが、白を映してはいない。半ば独り言のように、鴉代は続けた。
「私も……、本当は、知っていたはずなのだ。人と、人ならざるものが絆を結べることもあると。望んでいたはずなのだ。そうして絆を結んだ者たちが、周囲に邪魔立てされず、ともにあれれば良いと」
「邪魔立てされたけどね」
ふん、と白が辛辣に吐き捨てる。
鴉代がぱたりと瞬いて、白に焦点を合わせ直した。
「すまなかった。死者に成り代わり、生者の死者への想いを利用しているのかと思ってしまい、私も気が立っていた」
「……それしか、思いつかなかったのよ」
存外に素直な謝罪に、白が苦々しい思いを滲ませて目を逸らす。
そうだろうな、と応えて、鴉代が視線を下げる。沙苗までが気まずそうに下を向いた。
重苦しい空気に黙っていられなくなって、狐里はついつい口を挟んだ。
「つまり、そなたはその時点でのそなたの最善を尽くしたということじゃろう」
あの時ああしていれば、というのは、後になってからこそ言えることだ。
限られた時間で、追い詰められた精神状態で、最善の判断を下すことは難しい。
それに、今の最善と、その時の最善は違う。
白のままで葵に寄り添う、という結論が出ると、最初からそうしていれば、と考えてしまいそうになるが、三月前の葵にはそれが通用しなかった可能性もある。
白が『橘』として葵の心を癒してきた期間があったからこそ、葵がその結論を受け入れられる程度まで回復したとも取れる。
沙苗の対応についても同じことだ。沙苗が葵に向けた優しさが、気晴らしや未来の話が、悪い方にばかり作用したと決まったものではない。
少なくとも狐里は、彼女たちの必死の行動があったからこそ、穏やかに笑い合える今があるのだと、思いたかった。
そうね、と沙苗が呟く。それからふと思い出したように、鴉代と狐里をまじまじと見つめた。
「あなたたち、人間じゃなかったのね」
幽霊の正体が猫だったのにも驚いたけれど、と感慨深げに言う沙苗に、狐里たちを厭う様子はない。
そういえば伝えていなかったな、と鴉代が苦笑する。
「私は御景山の山神様に仕える鴉だ。こちらの狐も似たようなものだ」
「御景山、ってすぐ近くじゃない」
「ああ。だから、もし何かあれば知らせをくれ。すぐに飛んでこよう」
「別に何もないわよ」
むっとした様子で横から口を挟んだ白に、鴉代が小さく微笑む。
「何もないならそれがいちばん良い。だが、何もなくても、良ければたまに様子を教えてくれると嬉しい」
「……気が向いたらね」
穏やかな鴉代に、白が気勢を削がれた様子で横を向いた。
踏み固められた道を逸れ、山道に入る。
不意に、ゆらり、と空気が揺らいで、斜め前を歩く鴉代がいつもの姿に戻る。
見慣れた姿にどことなく安堵しながら、狐里は小走りで鴉代の隣に駆け寄った。
「そなた、舞えたのじゃな」
「別に、何か特別な力があるものではない。昔、巫子様に少し教わっただけだ」
「巫子様?」
物憂げな鴉代の返答に、狐里はぴんと耳を立てる思いで首を傾げた。
山神様の名はたまに聞くが、そちらの名は初めて聞いた。
ぴんと耳を立てる思いで首を傾げた狐里の問いに、鴉代は簡単に答えた。
「山神様に仕えていた巫子だ」
「人の子か?」
「ああ。人間だ。……山神様の、大切な人だった」
「そう、なのか」
それ以上聞いて良いのか分からずに、狐里は黙り込んだ。
「代わりではなく、寄り添う、か」
不意に落とされたのは、姉妹の家の庭で、葵が白に告げた言葉だ。
意外に早くからあの場にいたらしい。どことなく居心地の悪い思いで、狐里は足を速めた。
「聞いておったのか」
「ああ。私が踏み込んでも事を荒立てるだけだと思い、声をかけなかった」
ざくざくと、土を踏む音が響く。
「お前は優しいな。私では思いつかなかった。いなくなったひとに、代わりはいないから」
「そなたも優しかったではないか」
沙苗に協力的だったこともだし、先程の白とのやり取りもだ。
懸命に言い募る狐里に、鴉代はふっと自嘲的に唇を歪めた。
「あの人間のためではないよ。死者を冒涜する者が許せなかっただけだ。それに……」
鴉代がぼうっと遠くを見上げる。茂り合う樹々の葉に遮られて、空は遥か遠い。
「主を失った獣の気持ちなら、私にも少し分かるから」
細めた目に映るのは、懐かしさ、だろうか。そう言い切るには、まだ少し、痛々しい。
すい、と舞の動きをなぞるように、鴉代が天に手を差し伸べる。蕾が綻ぶように手のひらを開き、何も掴まないまま静かに下ろす。
「──あの方に拾われた時、私はまだほんの雛だった」
やがて、唇から零れた声音は、どうしようもない愛おしさと苦しさを孕んでいた。
「山神様が? 巫子様、もか?」
物思いを邪魔しないように、慎重に尋ねる。ああ、と鴉代は頷いた。
「傷ついた、ただのカラスだった私を拾って、手当てをしてくれた。その際に加減を間違えたようで、私はこの姿を得たのだ」
儚い笑みを浮かべた鴉代が、切り揃えられた髪を指先で梳いて、髪飾りを押さえ、耳元に触れる。つややかな濡れ羽色の中で、そこのひと房だけが白い。
「私の羽根、ここの部分だけ白いだろう。だからあのかたは、私をシロと呼んだのだ」
「白……」
あの猫が正体を看破され、名を呼ばれた際に鴉代が動揺した様子だった理由が、分かった気がした。あの猫に、当たりが強かった理由も。
そこにいない、大切な誰かを想う者。鴉代はきっと、白と自分を重ね、だからこそ白の行動が許せなかったのだろう。もしかしたら、彼女の大切な山神に、彼女自身が化ける想像すら、したのかもしれなかった。
思い出を辿るように自らの髪を撫でながら、鴉代が目を伏せる。
「拾ってくれた。助けてくれた。名を呼んでくれた。それだけで、あの方は私のすべてとなった」
遠い夢を見るような彼女の言葉に、狐里はああ、と手を打った。
その気持ちなら、狐里にも少し分かったから。
「大切なひとに、代わりはいない。誰も代わりにはならない。しようとも思わない。が──、」
何かを確かめるように、とん、と鴉代が拍子を踏む。ゆるりと回れば、黒い袖が羽ばたきのように翻る。
「もしも、大切なひとを失った時、ひとりでなければ……、寄り添ってくれる存在がいれば、少しは心安らぐのかもしれないな」
紅い瞳が、狐里を見つめる。首を傾げれば、鴉代が拗ねたように目を逸らす。
歩を速めた鴉代を、狐里は慌てて追いかけて、その袖を掴んだ。
「あやつら、上手くやれれば良いな」
沙苗に、葵に、白。別れたばかりの三人の姿を思い浮かべながら鴉代を見上げれば、鴉代が呆れたように毒づいた。
「お前は、分かっているのか分かっていないのかどっちなんだ」
「?」
「いや、いい。……そうだな。きっと、大丈夫だろう」
前に向き直った鴉代が、ざくざくと山道を歩いていく。
山神の眠る社に帰るまでは、今しばらくかかる。狐里はよし、と気合を入れ直して、鴉代の背を追った。
第4話「姉の幽霊」はこれで終わりです。
作中の短歌は万葉集からの引用です。
■次回予告
「ねえ、大蛇さま。早く、わたしを食べてくださいね。わたし、ずっと、ずーっと待っているんですから」
鴉の古い知己だという大蛇の青年に招かれ、隣の山を訪れた狐と鴉。
そこでふたりは大蛇より、「頼んでもいない生贄を捧げられて困っている」との相談を受ける。
第5話「大蛇と生贄」、全7~8節くらいの予定です。
※来週は第5話準備のため更新お休みします。次話更新は再来週の予定です。




