015.第4話 姉の幽霊(7)夢は醒めた
狐里視点です。
冷たい夜風が、ひやりと肌を刺す。
青い闇に白い花弁が舞い、甘やかな香りが庭いっぱいに広がる。
「ねえ、どういうこと?」
困惑に揺れる葵の声を聞きながら、狐里は俯いた。
葵を離れたところに留めておくように、と鴉代から頼まれていたのに、言い争うような声と不穏な気配を気にする葵を引き留めることができなかった。
そのせいで鴉代は負傷し、橘の幽霊──鴉代によると、正体は橘に化けていた橘と葵の飼い猫だったらしい──は逃げてしまった。
破れた袖をめくり、怪我の様子を確認する。肉を抉られた傷口が痛々しい。
「すまぬ」
袖を裂いて傷に巻き付けながら、狐里はしょんぼりと謝った。
「……いや、こちらが手こずった。すまない」
役目を果たせなかったことを怒られるかと思ったが、鴉代は気にするなというように首を振り、左肘をついて上体を起こした。
途端に、微かな呻き声を上げる。どうやら、傷に障ったらしい。
右腕を押さえた手の下からじわりと染みが滲んで、袖を黒く濡らす。鉄錆のような濁った臭いが鼻につく。
狐里は慌てて鴉代を支えた。
鴉代は顔を顰めながらも何とか上体を起こし、眦に力を込めて葵を見上げた。
「彼女は、君の姉君ではない。君の飼い猫の白が、君の姉君に化けていたんだ。君を……、慰めようとして」
言い淀みながらも付け加えた一言は、葵への配慮だろうか。それとも、白に対して何か思うところがあったのだろうか。
狐里が葵と一緒にいた間、鴉代と白、そして沙苗の間に、どんなやりとりがあったのか、狐里は知らない。
ただ、今の声音は、死者に化けて子どもを惑わし、自身を負傷させた相手に向けるものとしては、少し感傷的な気がした。
「そう、だったんだ」
鴉代の説明に、葵がぽつんと呟いて俯いた。
衝撃を受けているようにも、知った事実を咀嚼しているようにも見える。
もしかしたら、葵としても『橘』に違和感を覚えることがあったのだろうか。
納得して、受け入れてくれれば良い。あとは白の方をどうにか説得できれば、幽霊騒ぎは解決だ。そう思いを巡らせ始めた時だった。
「ねえ。どうして邪魔するの」
昏い声がした。
一瞬、いつの間にか白が戻ってきて、今度は葵に化けたのかと思った。それほどまでに、今までの葵の雰囲気にそぐわない声だった。
葵がゆっくりと顔を上げる。
狐里は息を呑んだ。
年齢の割に幼い雰囲気だと思っていた。その無邪気さは、今は欠片も見当たらない。
葵は大きな目を凍てつかせて、鴉代と沙苗を順に睨む。
先程の、正体を暴かれた時の白にも似た、まっくらな瞳だった。
「沙苗ちゃんが頼んだの? 『幽霊の正体を暴いて』って」
しんと静まり返った宵に、葵の声だけが響く。
狐里の指を握る鴉代の指先が冷たい。顔色が悪いのは、失血のせいだけではないだろう。
沙苗は息を詰まらせながらも、何とか言葉を紡いだ。
「っ、ええ、そうよ。葵……あなたが、幽霊に取り憑かれているのではないかと、思ったから」
そっか、と葵が頷く。
すとんと感情が抜け落ちたような、無表情のまま。
「葵ね、薄々は分かってたんだ。お姉ちゃんがお姉ちゃんじゃないって」
白だったのは分からなかったけど、と自嘲する葵は、どこか大人びた表情をしている。
「でもね。それでも、良かったんだ。気付かない間は、夢を見ていられるから」
夜空に浮かぶ半月を仰いで、葵がうっそりと目を細める。
風が吹く。ざわざわと草木が揺れる。沙苗も鴉代も、凍りついたように動かない。
柔らかな髪を靡かせて、葵が再び沙苗に焦点を合わせた。
ねえ、と葵が囁く。
「どうして暴いたの? どうして、葵からお姉ちゃんを奪ったの?」
答えられずにいる沙苗と、押し黙ったままの鴉代を見比べて、葵がくるりと踵を返す。ここにはもう用はない、と言うように。
そして、先ほど白が逃げたのと同じ方向に駆け去った。
「葵!」
狐里が名を呼んだ程度で、葵が足を止めるわけもない。
追いかけたいが、怪我をしている鴉代を放置するのも気が引ける。迷う狐里の背を、細い手がぽんと押した。
「行ってやってくれ」
「良いのか?」
「ああ。……頼む」
赤みを帯びた目はまだ苦痛の色が残り、対応を誤ったのでは、という後悔と自責が沈んでいる。
しかしそれ以上に、狐里への信頼と託す色が浮かんでいた。
「うむ。頼まれた!」
狐里は地を蹴って、葵の後を追った。
*
門を出て程なく。ぼんやりと佇む葵の後ろ姿を見つけ、狐里はほっとして彼女に駆け寄った。
「葵」
名を呼べば、葵が振り向く。
「狐里ちゃんは、お姉さんに頼まれてたの? 葵を足止めするように、って」
お姉さん、と葵が呼ぶのは鴉代のことだ。
ひやりとした緊張を覚えながら、狐里はぎこちなく頷いた。
「……そうじゃ」
「ふうん」
肩を強張らせた狐里に、葵は興味なさそうに頷いて、視線を前に戻す。
そこには、小さい寝屋があった。
人が暮らしている気配はなく、やや荒れているが、年単位で放置されていたという様子でもない。
橘と葵が暮らしていた家だろうか、と狐里はぼんやり思った。
葵は真っ直ぐ寝屋の方に向かい、しかし中に入ることはなく、戸口を通り過ぎて横に回る。
「入らぬのか?」
「うーんとね、たぶん、……ああ、やっぱり」
意外に思った狐里の問いに、葵は上の空で返しながら、慣れた様子で身を屈め、荒れた庭をかき分けて茂みを覗く。
そして、ほっとしたように声を和らげた。
「白」
伸び放題の茂みの中には、小さく身体を丸めた少女が蹲っていた。
猫の姿ならば茂みの中に収まれたのだろうが、人間の大きさだと隠れ切れていない。
葵の呼びかけに振り返った彼女は、ひどい様子だった。
泣き腫らした目が真っ赤になっている。
丁寧に梳られていたはずの髪はぐしゃぐしゃに乱れて、木の葉や小枝が絡まっている。
着物は土や草の汁でまだらに汚れて、どこかに引っ掛けたのか袖の端が破れている。
「こんなところにいた。白はここが好きだったもんね」
「……葵」
ざくり、と草を踏んで葵が歩を進める。
白はくぐもった声で葵の名を呼んで、恥じ入るように口元を袖で隠した。
見た目も、声も、先ほど見た『橘』のままなのに、纏う空気は全然違う。
葵の前で橘として振舞っていた時の優しげな様子とも、鴉代と対峙していた時の好戦的な態度とも異なる。
まるで、途方に暮れた幼子のようだった。
「葵を心配してお姉ちゃんのフリしててくれたの?」
「怒って、ないの?」
「怒ってないよ。白には」
葵が衣の裾を払って、白の傍にしゃがみ込む。
「考えてみれば、そうだね。お姉ちゃんのこと、あんなに上手に真似っこできるくらいよく知ってて、葵のことを心配してくれるなんて、白くらいだもん」
「……でも、正体を暴かれてしまったわ」
「そうだね」
ああ、と白は呻いた。
「ずっと、傍にいたかった。橘の代わりに、あなたを見守っていたかったわ」
「葵も、ずっと一緒にいたかったよ」
葵が指の甲で白の目元を拭い、そっと髪を撫でる。白が目を閉じて、愛おしむように葵の手に頬をすり寄せた。
「葵に夢を見せてくれてありがとう。白のおかげで、お姉ちゃんがまだ生きてるみたいに思えた。だけど、もう、大丈……、…………」
大丈夫、と言い切ることができないまま、葵の言葉が途切れる。
俯いた目元から、ぽたり、と涙が零れ落ちた。
声もなく抱き着かれて、白が狼狽えた様子で葵の背を擦る。
所在なく惑った目が狐里を見つけて、敵を見定めたかのごとくに歪んだ。
あいつの仲間か、と口元が動く。
傷ついた子猫を守る母猫のように葵を抱きしめた白から、ゆらりと敵意が立ち上る。
狐里はきょとんと首を傾げた。
「何故、もう一緒にいられないみたいに言うのじゃ?」
「え?」
呆れた声が重なった。
白と葵がふたり同時に狐里の方を向く。何を言っているんだ、という視線に、狐里はますます首を傾けた。
「葵が白を拒否するならともかく、双方が良いと言っておるのじゃ。何の不都合がある?」
「だって、無理だよ。もう、夢は醒めちゃったもん。葵はもう、お姉ちゃんがお姉ちゃんじゃないって知ってしまった。知らないフリで、今までみたいに過ごすのはできないよ」
「ええ。正体を知られた獣は去るが定めだわ」
葵の言葉に、白が大人しく頷く。
「橘の姿でいられぬ理由は分かった。じゃが、それが去らねばならない理由にはならぬじゃろう」
白が不審げに瞬いてから、大きく目を見開いて葵の方を向く。
まだ訝しげに眉を顰めている葵の方に焦点を合わせて、狐里はもどかしい気持ちで言葉を重ねた。
「葵。そなた、白のことは愛しくないのか。そなたが愛しいのは姉だけか?」
「そんな……、白のことだって、大切だよ。でも、違うでしょう。白はお姉ちゃんじゃないし……」
「違っていてはいけないのか」
「……え?」
葵が目をしばたたく。
「悲しいことだが、そなたの姉はもういない。どんなに取り繕おうと、それは変えられぬし、無理に取り繕おうとすれば綻びが出る。そなたも薄々とは気付いていたのじゃろう。夜毎現れる幽霊が、本物の姉ではないということに」
「…………」
葵がぎゅっと白の袖口を掴む。
白が葵を抱き寄せる腕に力を込め、一度は薄れたはずの敵意を再び滾らせて、狐里を睨みつける。
狐里は白の視線を受け止めて、真っ直ぐに彼女を見つめ返した。
「じゃが、白。そなたはいるじゃろう。無理に姉の代わりになるのではなく、白として葵の傍にいれば良いではないか」
「で、でも。それでは意味が……」
「意味がないか?」
白の弱々しい反駁を遮って、今度は葵に問いかける。
「葵、そなたは白にどうして欲しいのじゃ。このまま去ってほしいのか?」
「……っ」
葵が白を見上げて、くしゃりと顔を歪めた。
溢れた涙が次から次へと頬を伝い、白の衿元を濡らす。
「違う。違うよ。葵、白に傍にいてほしい」
「葵……」
息を詰まらせた白の胸元に顔を埋め、くぐもった声で葵は言った。
「ねえ、白。白はお姉ちゃんじゃないけど、白のこと、家族だって思っても良いかな」
「ええ……、ええ、もちろんよ。わたしはずっと、あなたたちのことを家族だと思っていたわ」
白が掠れた声で頷く。そして、薄い肩を掴み、葵の顔を覗き込んだ。
涙にまみれた葵が、白をぼんやりと見上げる。
「葵。あなたの傷が癒えるまで、わたしはあなたの傍にいるわ」
決意を固めたように、誓いを捧げるように、厳かな声音で、白は言った。
「泣きたい時には、一緒に泣きましょう。眠れない夜には、ともにあの子を偲びましょう。気が済むまで思い出話をして、泣き疲れたら、一緒に眠りましょう。いつの日か、涙を伴わずに、あの子の話をできる日が来るまで」
「……そんな日、来るのかな」
「分からないわ。でも、思い出したの。桐が……、あなたたちのお母さんが亡くなった時、あなたも橘もわたしも、そうやって悲しみを乗り越えたんだ、って」
話すうち、白は猫の姿に戻っていた。
茶色の毛並みに、足先だけ白いその猫は、葵が抱きしめるとすっぽりと腕の中に納まった。
「……白までいなくなっちゃって、寂しかったんだよ」
「ごめんなさい。ごめんね、葵。これからは、白としてあなたの傍にいるわ」
葵がくしゃくしゃの顔のまま、泣き笑いのように唇を歪める。
「ありがとう。おかえり、白」
「ええ。ただいま、葵」
抱き合うふたりを邪魔しないように、狐里はそろりと足を引いて、彼女たちの傍を離れる。
いつの間にか、追いかけてきたらしい鴉代と沙苗も、ふたりを遠巻きに見守っていた。




