014.第4話 姉の幽霊(6)偽物
沙苗視点です。
淡く笑んだ橘の瞳に、灯火の炎が踊っている。
柔らかな手に頬を固定され、目を逸らすことは許されない。
動けないのは、彼女への恐怖からだろうか。あるいは、彼女に魅入られているからなのだろうか。
瞬きさえも止めた沙苗の身体を、突如、浮遊感が襲った。
「──っ?!」
視線が、心が、強制的に橘から引き剥がされる。
沙苗を橘の手から奪うように抱きかかえて、鴉代が跳んでいた。
「下がっていろ」
音もなく着地した鴉代が、沙苗を床に下ろして橘と向き合う。
沙苗は壁際にへたり込んだまま、長い黒髪の揺れる後ろ姿をぼうっと眺めた。
「死者の幻で心を惑わそうなどと……」
「……幻?」
鴉代が苛立たし気に吐き捨てた発言の意味も理解できないまま、沙苗は耳についた単語を拾い上げて繰り返した。
沙苗の疑念に、向き合う二人は答えない。
ただ、水面に落とした小石が波紋を広げるように、場の空気がざわり、と騒めいたのが分かった。
鴉代が橘から目を逸らさないまま、壁際に置いた自身の荷物を片手で探り、樫材の杖を探り当てて引き寄せる。
橘は姿勢を崩さないまま、ただ纏った笑みが凍りついたように温度を下げた。
先に動いたのは鴉代だった。
長い黒髪が翻る。踏み込んだ一歩で距離を縮め、振り抜いた杖が橘の胴を捉える。
沙苗は思わず悲鳴を上げた。
橘の身体が宙を舞う。戦闘の心得のない橘は、あえなく壁に激突した、かに思えた。
「……ふふ」
嘲るような笑みが閃いた。
たん、と軽く跳んだ橘が四肢の全てを使って壁に着地し、勢いをそのままに空中から鴉代に襲いかかる。
「く……っ」
歯を食い縛った鴉代が、杖を操って受け止める。
束の間の膠着。
橘が強く杖を蹴りつけて跳び退る。踏ん張り切れなかった鴉代が蹈鞴を踏む。
その隙を逃さず、橘が五指を広げて鴉代に掴みかかった。
「!」
躊躇なく目元を狙った攻撃を、鴉代が顔を傾けて躱し、後ろに大きく跳んで距離を取る。
身を低くして自分を睨め上げる鴉代を見下ろして、橘が心底楽しそうに笑った。
(知らない)
また、心臓がドクリと鳴る。
胸の前で握った拳を震わせて、沙苗は動揺に瞳を伏せた。
橘は穏やかな性格だった。
手先が器用で、糸を紡ぐのも機を織るのも得意で、料理が上手くて。
半面、動作はおっとりした方で、鳥を射たり、魚を撮ったりするのは苦手だった。
きょうだいが妹ひとりしかいなかったからだろうか、取っ組み合いの喧嘩とも無縁で、沙苗の弟妹たちの喧嘩に遭遇すると止められずにおろおろしていたのを覚えている。
あんなふうに動き、あんなふうに笑う橘は知らない。
「お前、橘とやらじゃないだろう」
一瞬、心を読まれたのかと思った。
冷ややかに糾弾する鴉代は沙苗を見てはいない。ただ、相対する橘だけを見据えている。
彼女の正体を見極めるように。
橘は答えずに薄く笑って、横合いから薙ぐように爪を振るう。
鴉代は橘に視線を合わせたまま、それを受け流した。
「幽霊でもないが、生きた人間でもない。人に近いが、獣の臭いがする。──人の近くにあった獣か?」
「…………」
さっと幕を引くように、橘の顔から表情が消えた。
衣の裾がひらめく。
手首を蹴り上げようと繰り出された橘の足を避けて、鴉代が上段に杖を構えれば、空いた胴に橘が突っ込む。
正面から抱き着くように押さえ込まれ、鴉代が体勢を崩した。
倒れかけたところで上体を捻り、橘と自分の位置を入れ替えようとする。橘が抗う。
二人は縺れ合ったまま、空いた戸口から外へと転がり出した。
「──っ」
は、と息を切らした鴉代が、何とか橘を振り切って距離を取る。
橘もゆらりと身を起こす。
青白い月明りの下で、二人は睨み合った。
庭の草は日中の雨でしっとりと濡れて、葉に溜まった滴が、夜空に散らばる星のように点々と輝いている。
その中で、ひときわ明るい金星のように、橘の目が爛々と光っていた。
ひんやりとした夜風が向かい合う二人の髪を乱して、湿った土と緑の匂い、そして花橘の芳香を運んでくる。
(獣の、臭い)
鼻を擽るそれらの香りに、ふと鴉代の発言を思い返して、沙苗はひとりごちた。
「そういえば」
先程感じた、微かな違和感。橘に抱き着かれた時に感じた、陽だまりのような香り。
あれは、橘の香りではない。
記憶の、ひどく近しい位置にはあるけれど。
「橘の家では、猫を飼っていたわ。あの子のお母さんが子供の頃、縁のあったお寺で生まれた仔を譲り受けたらしいの。茶色い毛並みで、足の先だけが白いから──『白』と、あの子は呼んでいたわ」
橘が鴉代と相対したまま、ちらと沙苗を横目で見た。
射殺すような、鋭い目で。
「ネズミを食べてくれるから、って穀物庫の番に貸し出されたりして、里中で可愛がられていたわ。でも、しばらく前から見かけなくなって」
一月か、二月ほど前からだったろうか。
橘が死んだ、少し後。葵が幽霊を見たと言い出す、少し前だ。
「橘と葵の母君が子供の時から、となると、獣にしては結構な年だな」
鴉代が橘から目を逸らさないまま、低く呟く。
ええ、と沙苗は頷いた。
「そうね。猫は死ぬ前に姿を消すと聞くから……、その、そういうことなのかな、と思っていたのだけれど……」
歯切れ悪く言葉を切り、沙苗は胸の前でぎゅっと手を握って、橘の姿をした彼女の姿を見つめた。
猫は気紛れな生き物だという。あの猫も数日間ふらっといなくなるなど日常茶飯事だったから、沙苗も最初はあまり意識していなかった。橘の弔いやら葵の引き取りやらでごたごたして、気にかける余裕がなかったというのもある。
もっと気にしておくべきだったと、今更ながらに悔やむ。
いつの間にか、沙苗は立ち上がっていた。
押し留めようとする鴉代の手を押しのけて、彼女の前に立つ。
彼女は笑みの消えた無表情で、静かに沙苗を見返した。
「ねえ。あなた……もしかして、白なの?」
問いかける、声が震えた。
彼女がゆっくりと睫毛を瞬かせる。
直後。その表情が、憎々しげに歪んだ。
「──邪魔、しないでくれるかしら」
橘と同じ声で、橘とは違うざらついた声音で、彼女が言った。
ひゅ、と沙苗の喉の奥で息が鳴った。
身構えていた姿勢を起こした彼女──白が、思い出をなぞるような手つきで自らの髪を梳く。
「わたしはあの子たち──橘と葵が生まれる前から、あの家にいた。あの子たちが生まれた時からずっと、あの子たちの傍にいたの。あの子たちはわたしの娘のようなものだわ」
口調こそ淡々としているが、その芯には確かな熱がある。
大切な人を想う感情は、人間でも、そうでなくても、同じなのだろう。
だからこそ。
「橘を亡くして、悲しむ葵を見ていられなかったの。あんなに泣いて、あのままでは葵まで死んでしまうのではないかと思ったわ」
「それで橘に化けたの? 葵を慰めるために?」
だからこそ──許せなかった。
声を荒らげた勢いのまま大きく踏み込んで、沙苗は白の衿元を掴み上げた。
「そんなことをして何になるの。あなたは葵を騙しているのよ」
鴉代が身体を強張らせたのが視界の端に映る。
白が沙苗を攻撃するのを危惧し、割って入るか迷っているのだろう。
しかし彼女は抵抗せず、沙苗の手を振り解こうとすらしないまま、ただ冷えた瞳で沙苗を見つめていた。
「時は薬だわ。どんなに悲しくても、時間がそれを癒してくれる。悲しみを忘れて、私たちはまた前を向くことができる。あなたは葵からその薬を奪っているのよ!」
激昂に、声が震える。
沙苗は呼吸を整え、眦に力を込めて白を睨めつけた。
「あなたのせいで、葵は橘を忘れることができない。葵の悲しみは、永遠に癒えないのよ。本当に、こんなことが葵のためになると思っているの?!」
庭を渡る風が木々の枝を揺らして、雪のように白い花びらが、二人の間をひらひらと舞う。
空気は水を含んで重く、じっとりと湿り気を帯びている。
「沙苗ちゃんは強いね」
長い睫毛を伏せて、白がぽつりと呟いた。
「強くて、正しい。ええ、あなたの言うことは、きっと正しいのでしょうね」
衿を掴んだ沙苗の手にそっと自身の手を被せて、白が薄く笑む。
正体を見顕される前と同じ表情だが、全く違って見えるのはなぜだろう。
「でもね、皆が沙苗ちゃんみたいに強いわけじゃないの。その正しさに、追い詰められる人もいるのよ」
「何を言って……」
「ねえ、沙苗ちゃん」
問い返そうとした沙苗の言葉を封じ、彼女がゆっくりと瞼を持ち上げる。
底光りする瞳に、笑みはなかった。
「知っていたかしら。わたしが初めて葵の前にこの姿で現れたのより、葵が橘を見た方が先なのよ」
「……え?」
聞き返した沙苗に、白は乾いた笑い声を上げた。
「わたしは幻を現実にしてあげただけ。葵はとっくに壊れかけていたのよ」
くすくす、くすくすと、白が笑う。感情のない、昏く、空虚な声で。
まるで、彼女の方が壊れてしまったみたいに。
──そうなのかもしれない、と沙苗は思った。
橘と葵は娘のようなものだと、白は言った。彼女もまた、大切な者を亡くした一人なのだ。
「知っているでしょう。最近、葵は明るくなった。昔みたいに、よく笑うようになった。わたしがこの姿で葵の前に現れるようになってからよ。それでもあなたは、わたしがいない方が良いと言うのかしら」
「それは……」
白の衿元から手を離して、沙苗はよろよろと後退った。
おかしい。沙苗が彼女を追い詰めていたはずなのに、いつの間にか、沙苗の方が追い詰められている。
「ねえ、沙苗ちゃん。知っているわよ」
乱れた衿元を整えながら、歌うように、白が言う。
何を言うつもりだろう。何を知っているというのだろう。聞きたくない。
せっかく空けた距離を一歩で埋めて、白が沙苗の顔を覗き込んだ。
「あなたは結局、葵のことはどうだって良いの。だって、あなたが大切だったのは橘だけだもの」
「違う。違うわ。私は、葵のことだって……」
「『橘の大切な妹だから』『橘の代わりに』大切にしたかった。それだけでしょう?」
「……っ」
心臓を突かれたような、心地がした。
目を瞠った沙苗に、やっぱりね、と面白くもなさそうに彼女が言う。
「さっきの、『時が悲しみを癒してくれる』っていうの、沙苗ちゃんのことでしょう。沙苗ちゃんは早く橘のことを忘れたかった。なのに、葵が泣いていると、橘のことを思い出してしまう。橘の不在を思い出してしまう。だから沙苗ちゃんは、早く橘のことを忘れるようにって葵に迫った。違う?」
「違……、」
違わない。
そこまで直接的には言わなかった、はずだ。
だが、気晴らしを提案して、思い出話を退けた。
橘との思い出が染みついた家から引き離して、新しい家族の中に迎え入れて、前の家族のことを忘れさせようとした。
葵が橘の幽霊を見ていると知れば、祓って、二度と会わせないようにしようとした。
それが、葵のためだと信じて。
けれど──それらは本当に、葵のためだったのだろうか。
「沙苗ちゃんのそういうところが、葵を追い詰めたのよ」
冷ややかに、淡々と、彼女は沙苗を弾劾する。
形ばかりの笑みの中で、見開かれた目だけがギラギラと輝いている。
「沙苗ちゃんは葵を救えない。だからわたしが葵を守るの。沙苗ちゃんと違って、わたしは葵と橘、どっちも大事だから」
「……私は、」
「これ以上、口出ししないでくれるかしら。今夜のことを葵に言わないで、放っておいてくれればそれでいいから」
そう言われてしまえば、沙苗はもう何も言えなかった。
話は終わりね、と白が冷徹に切り上げる。
がくり、と膝から力が抜ける。
慌てて踏み止まろうとした足が縺れて、崩れるように倒れ込みかけた沙苗を、誰かが抱き留めた。
「言わせておけば……」
低く、声が唸った。
沙苗をそっと庭木の影に座らせた鴉代が、濡れた草を踏んで前へ出る。
ざわり、と風が吹いて、黒い衣が翻った。
白が剣呑な目つきで鴉代を睨みつける。
「何よあなた」
「いくら理屈を捏ねようと、偽物は偽物だ。死者を冒涜していることに変わりはない」
白に負けないくらい冷え切った視線で、鴉代が白を睨み返す。
ばちり、と火花が散った。
「部外者が、知ったような口を利かないでくれるかしら!」
いつ動いたのか、見えなかった。
一瞬で距離を詰めた白の攻撃を、鴉代が杖を構えて受け流す。
人間離れした身軽さで跳躍した白が、鴉代の脳天に踵を振り下ろす。それを跳ね上げた鴉代が、白の胴に杖を叩き込む。空中で器用に身を捻って避けた白が、地面に手をついて軽やかに回り、鴉代との距離を測り直す。
「…………」
一瞬の睨み合いの後、再び互いの攻撃が交錯する。
振り下ろされた爪を、鴉代の杖が受け止める。白が薄く笑って指を開き、杖の中程をがしりと掴んだ。
ハッとした鴉代が自らの武器を引こうとするが、遅い。
「離せ」
「そう言われて、素直に離すわけがないでしょう?」
白がぐいと腕を引けば、離すまいと両手で杖を握りしめた鴉代が僅かに引きずられる。
空いた胴に、白が蹴りを繰り出した。
「──っ」
「あら、あなたの方が離しちゃったわねえ」
咄嗟に飛び退った鴉代に、彼女が手の中に残った杖をくるくると弄びながら、嘲るように笑う。それから急に飽きたように、杖を後方へと投げ捨てた。
どさ、と鈍い音を立てて杖が地面に転がる。鴉代がちらとそちらに目を向けるが、拾いに行くには遠い。
「さあ、どうするのかしら?」
武器を失った鴉代に、白が飛びかかった。
首筋を狙った蹴りを、鴉代が最小限の動きで躱す。
身軽さも俊敏さも人間離れした白だが、鴉代も負けてはいない。
しかし、好戦的に攻撃を仕掛ける白に対し、鴉代の動きが防戦に寄っているのは、戦闘に詳しくない沙苗から見ても明らかだった。
「……ッ」
徐々に、鴉代の表情に焦りが生まれ始める。
ちらと逸れた視線がこちらを向く。沙苗を庇うために立ち位置が制限されているのだと、沙苗は初めて気付いた。
ならば、足手纏いにならないようにこの場を離れた方が良い。頭では理解しているのに、根が生えたようにその場を動けない。
「よそ見している余裕があるの?」
「!」
白の蹴りが鴉代を捉える。鴉代が大きく後ろへ吹っ飛んだ。
いや、自分から跳んで衝撃を逃がしたのだろうか。地面に片膝をついて身を低くした鴉代が、乱れた髪の間から油断なく彼女を睨め上げた。
その腰元で、チャキ、と微かな金属音が鳴った。
沙苗は目を疑った。
鴉代が剣を手にしている。
剣舞に使うような細身の直刀で、刀身はやや短い。黒漆で塗った鞘と柄は、赤い紐が巻かれている以外は一切の装飾がない。
飾り気のない、どこか神秘的な空気すら漂わせるそれは、彼女の一部であるかのように馴染んでいるが、先程までは確かに持っていなかったはずだ。
いつの間に、どこから。混乱する沙苗をよそに、鴉代が剣の柄に手をかけた。
すらりとした白銀の刃が鞘から覗く。
「やめて!」
考える間もなく声を上げてから、ハッと口を噤む。
鴉代が横目で沙苗を見て、小さく舌打ちした。
再び飛びかかった白の攻撃を、鴉代は鞘に入れたままの剣で受け止める。
追い詰めた獣をいたぶる肉食獣のように、白が嗤った。
「巫女さん、だったかしら」
彼女の呼びかけに、鴉代がぴくりと反応する。
くすくすと、心底楽しそうに、白が笑い声を立てる。もう演技する必要はないと言わんばかりの笑みは、ひどく嗜虐的だった。
「嘘ね。あなたも人間じゃないでしょう?」
「──え?」
沙苗は茫然として、鴉代と白を見比べた。
鴉代は答えない。ただ、踏み止まった足が、ずり、と少しだけ後退した。
「その気配、山の獣? いいえ、鳥かしら」
「……お前には、関係ない」
振り抜いた鞘を避けて、白が跳躍する。
そのまま、人間には有り得ない動きでくるりと回転した白が、鴉代が構えた鞘の先に着地する。
「!」
「いいえ、関係あるわ。鳥ごときに、獣がどうこう言われる筋合いはないもの」
どさり、と鴉代が背中から地面に倒れ込む。濡れ羽色の髪が、ばらばらと草の上に散らばった。
鴉代を押し倒す形で組み伏せた白が、鋭い爪で鴉代の頬をなぞる。
滑らかな肌がぷつりと裂けて、つう、と赤い線が引かれる。鴉代が切れ長の目元を微かに歪めた。
「ねえ、鳥さん。あなた、美味しそうね。食ってやろうかしら」
爪の先についた血をぺろりと舐めとって、白が鮮やかに笑う。
めくれ上がった口腔から、赤く濡れた牙が覗いた。
「……っ」
鴉代が歯を食い縛り、再び剣の柄に手をかけた時だった。
「お姉ちゃん?」
ひどく、この場に不似合いな、幼い声がした。
白が笑みを凍りつかせて、ぴたりと動きを止める。
白だけではない。鴉代も、沙苗も、その場にいた全員が動きを止め、視線だけを巡らせてそちらを見た。
仄白い月光に照らされて、葵が立っていた。
「葵」
掠れた声が、茫然と葵の名を呼んだ。
立ち尽くす葵が、戸惑いを浮かべた瞳で、ゆっくりと辺りを見回す。
争った痕跡のある荒れた庭。
木の影に力なくへたり込んだ沙苗。
傷を負って地面に倒れ込んだ客人。
そして、倒れた客人を押さえ込み、歪んだ笑みを凍りつかせ、口の端を血で濡らした、己の姉の姿をした──姉とは似ても似つかない存在を。
「お姉ちゃん……、じゃ、ない……?」
「……──」
白が強張った笑みを取り繕う。
けれど、誤魔化すには既に遅いと、自分でも分かっていたのだろう。
はくり、と動いた唇から、言葉が落ちることはなかった。
呆然とする葵の後ろには、狐里が手を伸ばしかけた中途半端な姿勢で固まっている。
どうやら、葵を引き留めようとして引き留めきれなかったらしい。
申し訳なさそうな色を浮かべた目が鴉代の姿を探し、驚愕に見開かれる。
そんな狐里の表情を見て我に返ったのだろう。
鴉代が緩んだ拘束を押しのけて白の下から抜け出し、衿元を整えて、葵をひたと見据えた。
「葵」
「な、なあに?」
名を呼ばれて、葵がびくりと鴉代の方を向く。
「これは、君の姉君ではない。君の飼い猫の白だ」
淡々とした言葉が、引き返せない宣告のように聞こえた。
風が凪ぐ。草木までもが囁くのを止めて、沈黙が場を支配する。
葵がぽかりと口を開けて、窺うように白を見つめる。
やがて、恐る恐る、といった調子で、葵はぽつりと呟いた。
「白、なの……?」
あああ、と白が呻いた。
地を這うような、深い嘆きだった。
「葵。あなたにだけは……」
絞り出すように喘いで、白がぐしゃりと自らの髪を掴む。
「あなたにだけは、知れたくなかった。知られてはならなかった」
白が地面に膝をついたまま、身体ごと深く俯き、両手で顔を覆う。
そして、指の間から、ぎろりと鴉代を睨め上げた。
先程までの、獲物をいたぶるような愉しげな笑みはない。
激しい怨嗟と憎しみが、そこにあった。
「よくも……、よくも葵に……!」
悲鳴のような叫びとともに、白が鴉代に飛びかかる。
不意を突かれた鴉代の防御が、一瞬遅れた。
「ッ!」
ぱっと鮮血が散った。
鴉代が剣を取り落とし、腕を押さえて蹲る。
地面に落ちた剣が幻のように消え、黒い羽だけが後に散らばった。
「鴉!」
狐里が何事か叫んで姉に駆け寄る。
そちらを憎々しげに見遣ってから、白が踵を返して駆け去る。
沙苗はどちらに駆け寄ることもできず、ただ茫然と座り込んでいた。
第4話は全8~9節くらいになりそうです。




