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013.第4話 姉の幽霊(5)会いたかったわ

沙苗視点です。

 下弦の月が、ぼんやりと空に浮かんでいる。

 昼前から降り始めた雨は夜半には止んだが、空気はまだひんやりと水気を帯びている。


 濡れた外壁に身体をつけないよう気を付けながら、沙苗(さなえ)は息を殺して角の向こうの様子を窺った。

 昨夜と同じように、楽しげに喋る姉妹の声が聞こえてくる。無邪気な妹の声だけでなく、穏やかな姉の声までが、はっきりと。


「──っ」


 沙苗は唇を噛み、少し離れた庭木の方へ、縋るような気持ちで視線を遣った。

 正確にいえば、そこに身を隠した鴉代(あしろ)の方へ。

 夜に溶け込む黒衣を纏った鴉代の、白い顔だけがぽかりと闇に浮かんで見える。それが沙苗を促すようにこくりと上下したのを見て、沙苗は諦めとともに決意を固めた。


 短く息を吸う。

 踏み出せば、小枝か何かを踏んだのか、足元でぱきりと軽い音がした。


「橘」


 名前を呼ぶ。

 彼女が振り返る。

 目が、合った。


「沙苗ちゃん?」


 優しげな目元に浮かんだ少しの驚きは、瞬きの後に喜色に塗り替わった。

 声を弾ませて、ぱたぱたと沙苗のもとに駆け寄ってくる彼女を、沙苗は茫然と眺めた。


「久しぶりね、沙苗ちゃん。会えて嬉しいわ」

「……橘」


 橘が沙苗を見上げてにっこりと笑う。

 沙苗より拳ひとつ分だけ低い身長。

 ほっそりした身体はしかし女性的な曲線を描いて、えくぼの浮かんだ頬の線はふっくらとしている。

 ふわふわと軽い髪は丁寧に梳られ、柔らかに肩にかかっている。

 病を得る前の、元気だった頃の橘の姿が、そこにあった。


「あ……、え……っと、」


 予想していたとはいえ、いざ生前と何も変わらない彼女の姿を目の当たりにすると、頭が真っ白になる。

 落ち着いて。事前の打ち合わせ通りに。

 そう自身に言い聞かせ、必死で呼吸を落ち着かせて、口を開く。


「少し、話がしたいの。場所を変えても良いかしら」


 やっとのことで、それだけ告げた。

 葵をちらりと見た沙苗の視線に気付いたのだろう。橘が微かに表情を曇らせる。


「葵には、聞かせたくないこと?」

「ええ」

「……分かったわ」


 橘は静かに了承すると、膝を屈めて葵に視線を合わせた。


「葵、そういうことだから、少しだけ待っていてくれるかしら。わたし、沙苗ちゃんとお話してくるわ」


 大人しく成り行きを見守っていた葵が、姉を見上げて素直に頷く。


「うん。葵、待ってるね」

「ありがとう。いい子ね」


 橘が微笑んで、葵の頭を優しく撫でる。

 そして、すっと背筋を伸ばし、沙苗に向き直った。


「どこに行けば良いかしら」

「こちらへ」


 短く告げて踵を返した沙苗の後ろを、橘は静かに付いてきた。




 まずは橘と二人で話がしたい、と頼んだのは沙苗だった。


「いきなり私たちが姿を現せば、橘とやらに警戒されよう。万が一にも、葵を巻き込むことになれば、こちらもやりにくい。だから、葵に騒がれぬよう、事前に話を通しておいた方が良いと思った」


 今朝方。どうして葵に話したのか、と尋ねた沙苗に、鴉代はそう説明した。


「沙苗。悪いが、お前が橘を連れ出してくれないか。葵と引き離してさえくれれば、後は私が引き受ける。正体を見極め、祓うなり、鎮める成り、あるべき場所へ導くなり、状況に応じて対処しよう。狐里、お前はその間、葵がこちらに近づかぬよう相手をしてくれ」

「待って」


 てきぱきと役割分担を進める鴉代に、沙苗は慌てて声を上げた。


「お願い。祓ってしまう前に……少しだけ、橘と二人で話をさせてくれないかしら」

「幽霊が怖いのではなかったのか?」

「怖いわ。でも……、あの子が去ってしまう前に、一度、話してみたいと思ったの」


 怖がって、祓ってほしいと言ったのに、いざ祓えると思ったら未練が生まれる。我ながら、自分勝手なことだ。

 しかし、鴉代はそんな沙苗の我儘にあっさりと頷いた。


「そうか。ならば、気が済むようにすると良い」

「……いいの?」

「お前の友人のことだ。私が良い悪いを論ずることではない。……ああ、ただし、危ないと判断したら、即座に割って入るからな」


 淡々と述べた後、ふと思い出したように釘を刺す鴉代に、沙苗は小さく礼を告げたのだった。




 幽霊は闇の中に死かいられないのかと思っていたが、灯火の下でも姿を保てるらしい。

 自室に移動し、沙苗は改めて橘と向かい合った。


「橘。あなた……どうして、この世に留まっているの」


 生きているようにしか見えない橘を前にこんなことを言うのは奇妙な心地だ。

 まるで、橘が死んだことの方が夢だったのではないか。そんな気さえしてくる。


 橘はきょとんと首を傾げて、おっとりと頬に手を当てた。


「葵のことが心配だったからよ」


 穏やかな表情を崩さないまま、橘が平然と答える。


「橘は死んだのよ。三月も前に。なのに、どうして成仏しないの」

「沙苗ちゃんは、わたしがいなくなった方が良いの?」


 橘が傷ついたように目を伏せる。

 その様子があまりに悲しげで、沙苗は狼狽えた。


「違うの。私は──」

「分かったわ」


 つい弁解しかけた沙苗の言葉を遮って、橘が不意に笑みを閃かせた。

 成仏に了承した、というわけではなさそうだ。

 弾んだ声と微笑ましげな視線に違和感を覚えて、沙苗は一歩後退った。


「分かったって、何が」

「沙苗ちゃん、わたしが葵のことしか言わないから拗ねちゃったのね」


 ふふ、と密やかな笑い声を落として、橘が軽やかに一歩、沙苗の方に近づく。

 反射的に引いた踵が、壁にぶつかる。扉は開けたままだが、戸口は橘の肩の向こうだ。


 どうして、部屋の中を話し合いの場に設定してしまったのだろう。

 追い詰められたら、逃げ場がないのに。


「もちろん、沙苗ちゃんにも会いたかったわ」


 とん、と背中が壁に当たる。

 しなやかな指先が優しく沙苗の髪を撫でて、そっと頬に添えられる。

 触れた手には、確かな体温があった。


「ねえ、沙苗ちゃん。わたしが帰ってきて嬉しいでしょう?」


 甘く、柔く、橘が囁く。

 吐息が耳朶に触れて、蜜のような声が脳を侵食する。

 見開いた目に、淡く笑んだ橘の顔が映っている。

 目が、逸らせない。


「たち、ばな」

「なあに、沙苗ちゃん?」


 意味のない呼びかけに、付き合い良く応えて、橘が笑う。


 これが、本当に幽霊なのだろうか。

 幽霊だったら、何だと言うのだろうか。

 温かくて。息をしていて。沙苗の声に応えてくれて。微笑みかけてくれて。名を呼んでくれて。

 それ以外、いったい何が必要だというのか。


「橘。私は、……私も、」


 あなたが帰ってきてくれて、嬉しい。

 熱に浮かされたように、そう口走りかけた時だった。 


「そこまでだ」


 氷のように冷え切った声が、二人の間に割り込んだ。

 声だけではない。その少女は足音も立てずに沙苗の前に滑り込み、橘から沙苗を庇うように立ち塞がった。

 夜の闇と同じ長い黒髪と黒衣。夜中にも関わらず、昼と変わらず身支度を整え、灯明かりに瞳を赤く揺らめかせた鴉代の姿に、沙苗ははっと我に返った。


 目が覚めたような心地だった。

 明け方、朝陽が差し込んだのに気付かないふりをして、あと少しだけ、と目を瞑った微睡みのような時間から。


 橘が鴉代と沙苗を見比べ、微かな不快に表情を歪めた。


「沙苗ちゃん、このひとはだあれ? どうしてわたしと沙苗ちゃんの邪魔をするの?」

「この人は……、巫女さんよ。相談に乗ってもらってたの。……橘のこと」

「巫女さん? わたしのことを相談、って……」


 何かに気付いたように、橘がハッと息を呑む。


「沙苗ちゃん、もしかして、わたしを祓おうとしているの?」


 悲痛な声が上がる。

 制止しようとする鴉代を振り切って、橘が沙苗の腕に抱き着いた。

 腕から肩にかけて感じる柔らかさと温かさ。頬を掠める髪の感触。陽だまりのような香り。


「嫌よ。わたし、葵とも、沙苗ちゃんとも、もっと一緒にいたいの」

「おい、離れろ」


 鴉代が橘の肩を掴んで沙苗から引き剝がそうとするが、橘はぎゅっと沙苗にしがみついたまま離れようとしない。


「だから……ねえ、沙苗ちゃん」


 不意に、橘の声音が変わった。

 哀切に訴えかける響きから、甘やかに誘いかける響きへ。


 再び、頬に手が触れる。

 薄い笑みを浮かべた橘が、軽く伸び上がって沙苗の顔を覗き込んだ。


「お願いよ。そのひとを追い払って?」


 ひゅ、と喉の奥で息が喘いだ。

 衿首から冷水を流し込まれたように背筋が凍えて、唇から血の気が引く。


(──知らない)


 知らない。

 こんな笑みは知らない。


(橘じゃ、ない?)


 これは、誰だ。

 硬直したままの沙苗に、橘がすっと目を細めた。

 

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