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012.第4話 姉の幽霊(4)一日目の夜


「起きろ、狐里(このり)(あおい)が動いた。行くぞ」

「む……?」


 潜めた声とともに揺り起こされて、狐は眠い目を擦った。

 狐里、とは誰のことだろうか。

 ──ああ、そうだ。狐が自分自身に付けた名前だった。

 それに思い至ると同時、日中話したことを思い出して、狐里はばっと夜具を撥ね退けた。


「すまぬ、」


 呑気に寝こけていた謝罪をしようとした狐里の唇に、鴉代(あしろ)が立てた人差し指を押し付ける。

 慌てて自身の口を塞いだ狐里に小さく頷いてから、鴉代は戸口近くからこちらを見守っていた沙苗(さなえ)を振り仰ぐ。


「こっちよ」


 囁いた沙苗が踵を返す。

 鴉代と狐里は目を見交わすと、潜めた早足で彼女の後を追った。



 家の裏手から、二人分の話し声が聞こえてくる。

 壁に背を付けた沙苗の顔がひどく蒼白に見えるのは、月明りの下だからというだけではないだろう。

 無理をするな、と沙苗に手で示し、鴉代が息を殺して壁の向こうの様子を覗き見る。

「…………」

 しばらくの後、鴉代は何もしないまま静かに身を引いて眉を寄せた。



「どうだった?」


 葵と幽霊をその場に残して、部屋に戻った後。

 掠れた声で沙苗が問えば、鴉代は迷うように睫毛を伏せた。

 窓から差し込む月光が、鴉代の頬に長い影を落とす。


(たちばな)とやらは、本当に死んだのだな?」

「え? ええ。間違いないわ」


 今更すぎる確認に、沙苗が不審を露わに語気を強める。


「……あれが、幽霊?」

「何か、おかしなことでも?」

「……幽霊にしては、気配が強すぎる」


 戸惑いがちに落とされた呟きに、聞き捨てならないとばかりに沙苗が身を乗り出す。

 鴉代は藁座の上で片膝を立て、考え込むように腕を組んだ。


「おかしなことと言えば、最初からだ。沙苗、お前はあの娘……橘とやらの幽霊が見えたと言ったな。生者と見紛うほどはっきりと見えた、ということで相違ないか」

「ええ、その通りよ」

「だろうな。あの葵という子供もそんな風情だった。だが、死者の霊魂というのは、基本的に、普通の人間には見えないものだ」

「そうなのか?」


 狐里はきょとりと首を傾げた。

 春先には呼子鳥の幽霊を見かけたし、それ以前にも何度か山に迷い込んだ幽霊に遭遇したことはある。

 狐里の疑問を見透かしたように、鴉代が呆れ交じりの溜息を吐く。


「『普通の人間には』と言っただろう」


 お前はあやかしだろう、という指摘を言外に感じ取って、狐里は首を竦めた。


「例外はいる。巫女や法師、あるいは術者のような、素質のある者、霊力が強い者や修行を積んだ者だ。逆に言えば、だから彼らのような──我々のような者は重宝されるんだ。常人には見えないものを見て、聞こえない声を聞き、更には干渉することもできるのだからな。稀に、死んだ側に素質があった場合や、死に際に余程強い想いを残した場合は、そうした者でなくとも見える場合はあるが」


 旅の巫女、という設定に沿いつつ、鴉代がてきぱきと説明を進める。

 沙苗はやや思うところがありそうな表情をしつつも、ひとまず傾聴の姿勢で口を噤んでいる。


「人間や動物は、肉体と魂から成っている。死とは、魂が肉体から離れ、そのまま戻らなくなることだ。肉体から離れた魂は、あるべき場所──一般に『あの世』と呼ばれる場所へと向かう。それが黄泉(よみ)常世(とこよ)彼岸(ひがん)か、あるいは他のどこかなのかは知らぬがな。しかし稀に、あるべき場所に行かず、この世に留まる魂がある」

「それが幽霊か?」

「ああ、そうだ。……そのはずだ」


 狐里の問いに、鴉代が頷いてから、迷うように床へ視線を落とした。


「しかし、あれは……肉体を持っている」

「どういうことなの」


 沙苗の声が固くなる。

 肩に力が籠り、床についた指が白くなっている。半ば睨むように鴉代を見据える瞳が異様な輝きを帯びている。

 気持ちは分かる。

 だって、肉体があって、魂があるなら、それは生者と変わりないではないか。


 鴉代も困惑しているのだろう。立てた膝を引き寄せて、思考の中から拾い上げるように、ぽつりぽつりと言葉を落とす。


「生者ではない。少なくとも、生きた人間の気配ではなかった。だが、魂だけでない以上、いわゆる幽霊とは違う。そこらのあやかしが悪戯のつもりで化かしているのかとも思ったが──それにしては、葵にひどく近しい気配がする。……家族の、気配だ」

「家族……」

「すまない。それ以上は分からなかった。何も分からぬまま突撃するのも危険かと思い、今夜は一旦退いたが、明日には決着を付けたい」


 鴉代の堅苦しい申し出に、沙苗はしばらく睫毛を伏せて考え込んでいたが、やがて顔を上げるとにっこりと笑った。


「ちょっと見ただけでそこまで分かるなんて、すごいわ。さすが巫女さんね」


 明るい声はどことなく空虚で、無理しているのは透けて見えたが、狐も鴉も気付かないふりをした。


「もちろん良いわよ。何日だっていてちょうだい。家族にも話を通しておくわね」

「ああ。助かる」


 鴉が安堵したように眉を開いて、小さく息を吐いた時。


 不意に、ばたりと部屋の戸が開いた。

 薄緋色(うすあけいろ)の光が、室内へと長く差し込む。


 振り仰ぐ。

 朝焼けの空を背景に、幼さを残す少女が立っていた。


「沙苗ちゃんたち、起きてたんだ」


 おはよう、と呑気に挨拶する声は明るいが、逆光を受けて表情は良く見えない。 

 いつからそこにいたのだろう。

 膝を突き合わせた沙苗と客人たちを不審に思う様子もなく、彼女──葵は部屋の中へと踏み入った。


「葵」

「なあに? ええっと……鴉代ちゃん」


 鴉代が静かに呼びかけ、座る位置を少しずらす。

 葵は素直に歩み寄り、沙苗と鴉代の間にぽすんと腰を下ろした。

 鴉代が少し首を傾げて、葵と視線の高さを合わせる。


「君がお姉さんと会っているというのは本当?」


 単刀直入な踏み込みに、沙苗がピクリと肩を揺らす。

 葵はそんな沙苗の様子には気付かなかったように、無邪気な笑みを閃かせた。


「うん、そうだよ! 今もお喋りしてきたところなの。沙苗ちゃんから聞いたの?」 

「ああ。私もお姉さんと話してみたいのだが、構わないかな」

「えっと。沙苗ちゃんのお友達なんだよね。じゃあ、いいけど……」

「そう。じゃあ、夜に」


 葵の戸惑いに気付かないように、鴉代が簡潔に話を切り上げる。

 それがやや強引に思えて、狐里は沙苗と葵の目を盗んでこっそり鴉代の方に身を寄せた。


「何か、焦ってはおらぬか? 沙苗はああ言ってくれているのだし、もう少し時間をかけても……」

「焦ってなどいない。単に、早く済ませて帰りたいだけだ」

「そうか。ならば良いのだが……」


 潜めた声で返されて、狐里は不安を振り払うように頭を振る。

 こうして、決着は明日の夜に、ということになった。

 

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