025.第6話 白露の約束(1)夕立と幽霊
「あの世へと渡る前に、会いにいかねばならぬ人がいるのだ」
山に迷い込んだ幽霊の青年は、そう明るく告げた。彼をふもとまで案内する道すがら、狐里と鴉代は彼の身の上話を聞いていく。
「いつだって、置いていく方は、置いていかれる方の気持ちなど考えやしない」
第6話「白露の約束」、全4~7節くらいの予定です。
日中の陽射しはまだ強いが、吹く風は徐々に秋の気配を纏い始めている。
秋の果実が少しずつ色づき始め、栗やクルミもぽつぽつと落ち始める。
この時期の山は、変化が多くて楽しい。
木に巻き付いたサルナシのつるに、黄緑色の実が生っているのを見つけて、狐里はぱっと顔を輝かせた。
いそいそと摘み取って籠に入れていると、隣にしゃがみ込んで木の根元に生えたキノコを見比べていた鴉代が、ふと空を見上げた。
「降りそうだな」
その声を合図にしたように、不意に空が翳る。
風は水の気配を含み、草木の匂いが濃くなる。遠くで雷鳴の音が聞こえた。
「今日はここまでにしよう。引き上げるぞ」
鴉代が短く告げて、集めた食べ物を入れた籠に覆いをかける。狐里も真似して籠を背負い、足早に社を目指した。
間もなく、雨が降り出した。
ばたばたと降る大粒の雨に、鴉代がちらと籠を気にして顔を顰める。
社まではまだ少々距離がある。ふたりは顔を見合わせて、近くの木陰に滑り込んだ。
「この降りならば、すぐに止むとは思うが」
鴉代が濡れた前髪を摘まんで嘆息する。
夏から秋の初め頃、夕刻に降る雨は、激しく短い。
そうじゃな、と応えようとした狐里の口から、返事の代わりに小さなくしゃみが出た。
木陰にはいるものの、雨を完全に防げているわけではない。葉の間から落ちる雨が髪を濡らし、風に乗って吹き付ける細かい飛沫が衣を湿らせる。
くしゅん、とまたくしゃみを漏らした狐里に、鴉代は眉を寄せると、背負っていた籠を地面に下ろし、外衣の胸紐を解いた。
「着ていろ」
ばさり、と彼女がいつも着ている黒い衣を着せかけられる。
春先に着ていたものより薄手の衣は、表面こそ湿っているものの、中までは雨が染みておらず、鴉代の温もりが移ってほんのりと温かい。
狐里は目を瞬いた。
「しかし、それではそなたが寒いのでは……、む?」
見上げれば、鴉代はいつも通り、黒い上衣と赤い袴の上に黒い外衣を纏っている。
予備の衣など、持っていただろうか。
衣の袖を広げて首を傾げる狐里に、鴉代は小さく笑って胸紐を摘まんだ。
「変化の際に衣を作る要領だ。私たちが人の形を取る際に着ている衣は、羽や毛皮を変化させたものだろう」
人型を取るあやかしには、おおむね「なりやすい姿」があり、普段はそれで過ごすことが多い。狐里なら黄金色の髪の子どもの姿、鴉代なら黒髪の少女の姿だ。
しかし、「その姿にしかなれない」というわけではない。狐里だって里に下りる時は髪の色を目立たないように変えているし、鴉代は少し前に沙苗たちに会った際、顔立ちや体格をいつもより三つ四つ年長に見えるように姿を変えていた。
なるほど、と納得する狐里に、種族の性質や個々の得手不得手によって違いはあるがな、と補足して、鴉代はふと口の端を持ち上げた。
「ちょうどいい。お前も何か作ってみろ。変化は狐の本領だろう」
「うむ!」
促され、狐里は頷いて目を閉じた。
人型に変化する時のように、額辺りに意識を集中させる。
少しの後。ぽす、と頭上に微かな重みを感じた。
「ほう。笠か。上手いじゃないか」
目を開ける。
鴉代がしげしげと狐里の頭上を見分してから、褒める笑みでこちらを見下ろした。
どうやら、うまくいったらしい。
成功した嬉しさと、褒められた嬉しさで、思わずくるくるとその場で回る。
その時だった。眼下に人影があるのに気付いたのは。
「誰かおるぞ」
指さすと、ああ、と鴉代は頷いた。
「気付いていなかったのか。山に入る者の気配の見分け方は教えたろう」
「むむ……」
教わったが、まだ覚えていない。
どうやら、鴉代は気付いていたらしい。気付いて放置していたということは、あれは山への害意がある者ではないのだろう。
ひとつ安心して、狐里は斜面の下に目を凝らした。
見たところ、二十歳過ぎの青年のようだ。
雨にも構わず、急いだ様子で獣道を進んでいる。山を歩くのには慣れているらしく、足取りに不安はないが、道を知らないのか、たまに立ち止まってきょろきょろと辺りを見渡す。笠の類いは持っていないようで、ひどく濡れそぼり、哀れな様子だ。
「……」
狐里は鴉代と青年を見比べた。
軽々と人間の前に姿を現すな、と普段から鴉代に忠告されている。
そわそわとする狐里の迷いを察したのだろう。鴉代がふっと口元を緩めた。
「気になるなら、声をかけてきたらどうだ」
「良いのか?」
ぴょん、と居ずまいを正した狐里に、鴉代はこだわりなく頷く。
「別に、私が止める筋合いはないな」
「行ってくる!」
勢い良く斜面を駆け降りる狐里の背に、気を付けろよ、と鴉代が苦笑した。
「そなた、こんな雨の中でどうしたのじゃ?」
「ああ、すまない。少々、道に迷ってしまって、……うん?」
狐里が話しかけると、青年は普通に答えかけてから、一拍遅れて、驚いたように身構えた。
どことなく、武人めいた雰囲気のある青年だ。
長身としっかりした体躯、日に焼けた肌を持ち、硬そうな髪を高い位置でひとつに括っている。
濡れていても仕立ての良さが分かる衣は、しかし華美ではなく、実用的で動きやすそうだ。
だが、近くの里に住む人ではなさそうなのに、旅支度はしておらず、荷物や笠すら持ち合わせていない風情なのが奇妙ではあった。
青年は狐里の姿を認めると警戒を緩め、代わりに困惑した様子で目を瞬いた。
「子ども? いや、しかし……」
呟きつつ、身を屈めて狐里と視線の高さを合わせる。
まじまじと見つめられ、狐里はきょとんと首を傾げた。
「貴殿には私が見えるのか?」
「? 見えるが……」
何を言っているのだろう。
ますますきょとんとした狐里の疑念に、答えたのは目の前の青年ではなかった。
「そいつは幽霊だ」
背後から、静かな声がかかる。
青年が弾かれたようにそちらに目を向ける。狐里はぱっと振り返って相好を崩した。
「鴉代!」
先程は狐里を送り出す様子だったが、やはり彼女も青年のことが気にかかったのだろうか。
笑みを浮かべる狐里に、鴉代が小さく溜息をつく。
「雨の中で立ち話もないだろう。木陰にくらい入れ」
「む、そうじゃな……」
気が利かなかった。
悄然とした狐里を、それ以上責めることも宥めることもせず、鴉代は青年を近くの木の下へいざなう。
ある程度雨が遮られてから、狐里はふと鴉代の言葉を反芻して目を瞠った。
「幽霊?!」
「やはり気付いていなかったか」
狐里の驚きを淡々と流しつつ、鴉代が腕を組んで青年を見上げる。
「こいつに姿が見えたのを驚いたということは、お前、自分が幽霊だという自覚はあるんだな。迷ったというのは、あの世への行き方が分からない、ということか?」
鴉代の問いに、否、と青年が首を横に振った。
「あの世へと渡る前に、会いに行かねばならぬ人がいるのだ」
その声音は明るく、狐里が幽霊というものに対して漠然と抱いていた悲壮感はない。
「しかし、この山で身動きが取れなくなってしまってな。魂は一日に千里を天翔けると聞いたのだが……」
「ああ、この山にはさまざまな封じや鎮めがあるからな。その中のどれかに引っかかったのだろう」
苦笑する青年に、鴉代が納得した様子で頷く。
そうか、と肩を落とした青年の髪から、ぽたぽたと滴が垂れる。青年は少し顔を顰めて衣の袖でそれを拭うが、袖もぐっしょりと濡れているため、用をなさない。
「急いでいるにしても、せめて、笠くらい被ると良い」
相手が人間ではないからか、鴉代の対応は普段ほど刺々しくはない。
促されるまま、狐里は自分の被っていた笠を青年に差し出した。
青年が戸惑った様子でそれを辞退する。
「気遣いには感謝するが、それでは貴殿が濡れるだろう」
「我は問題ない。こうすれば良いからのう」
狐里はぱっと笑った。先程覚えたことを復習する良い機会だ。
再度、目を閉じて集中する。
今度は先程より早くできた。達成感を覚えつつ目を開けると、青年がぽかんと口を開けて、狐里の頭上の笠に視線を釘付けにしていた。
人間でない者が相手なら、あやかしの力を見せても構わないかと思ったが、幽霊はもとは人間だ。死して間もないようだし、こういったことには慣れていないのだろうか。
驚かせただろうか。
少し不安になっていると、青年がほう、と息を吐いた。
「見事。狐に化かされたみたいだ」
どうやら大丈夫らしい。楽しげに目を輝かせる青年に、狐里も安堵の息を吐く。
「よく分かったな。我は狐じゃ。そちらが鴉」
「そうか。ただの子どもではないだろうと思ってはいたが……」
感心した様子で唸る青年に、鴉代が小さく笑った。
「私たちはこの山に住まう者だ。封じや鎮めも、私たちと共に行けば抜けられる。良ければ、ふもとまで案内しよう」
「本当か! かたじけない」
鴉代の申し出に、青年が顔を明るくした。
青年は菊彦と名乗った。
都の武門の家系の出で、最近まで地方勤めをしていたらしい。
「勤めが終わり、都に帰る際、世話になった人がいてな。どうしても、今日のうちに彼に会いたいのだ」
快活な声音の中に切実な色を感じて、狐里は首を傾げた。
何やら、事情がありそうだ。
「その相手というのは、どんな人なのじゃ?」
つい気になった狐里の様子を察したのだろう。
そうだな、と考え込むように呟いて、菊彦は空を見上げた。
雨は依然として降り続いているが、雨足は先程に比べてだいぶ弱まっている。
「あの日も、雨が降っていたな」
「あの日?」
「私が彼と初めて会った日だ」
菊彦は懐かしむように目を細めて、道中の暇潰しに、とこれまでの事情を話し始めた。




