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010.第4話 姉の幽霊(2)いないはずのひと


 三月(みつき)前、幼馴染が死んだ。


 突然のことだった。

 ほんの半月前までは元気にしていたのに、病をこじらせてみるみる瘦せ細り、呆気なく世を去った。


 涙は出なかった。

 筵の上に横たわる彼女を、沙苗(さなえ)は呆然と見下ろした。

 血の気のない頬。艶を失った髪。閉ざされた瞼。


(たちばな)……」


 橘。橘。たちばな。

 名前を呼んだ。何度も、何度も。

 何度呼んでも、彼女は帰ってはこない。沙苗の声に応えてはくれない。沙苗に微笑みかけてくれることも、沙苗の名を呼んでくれることも、二度とない。


「──……」


 どこかで子供が泣いていた。

 のろのろとそちらに視線を向けて、沙苗はぼんやりと瞬いた。


(……(あおい)


 橘に取り縋って泣いていたのは、橘の妹、葵だった。

 早くに父親を亡くし、二年前に母も亡くした橘の、たったひとりの家族。


 手を伸ばして、そっと髪を撫でた。

 意識しての動作ではなかった。橘が、いつもそうしていたから。それだけだった。

 葵がびくりと肩を震わせて、泣き腫らした目で沙苗を振り仰ぐ。そして、くしゃりと顔を歪めた。


「沙苗ちゃん」

「葵」


 橘はもう、沙苗の声に答えてはくれない。

 けれどまだ、沙苗の名を呼んでくれる人がいる。

 小さな身体を抱きしめて、沙苗は葵の肩に顔を埋めた。


「葵。私が、橘の代わりにあなたを守るからね」


 囁けば、葵が戸惑ったように沙苗の背を抱き返した。

 悲しんでばかりはいられない。橘の分も、背負って前に進まなくては。

 沙苗はそう決意したのだった。



 葵は沙苗の家で引き取ることになった。

 沙苗の両親も以前から橘たち姉妹を気にかけていたし、沙苗の家は周りに比べて少し余裕があったから。

 唯一の家族を亡くして塞ぎ込んでいた葵だったが、徐々に昔のような明るさを取り戻してきた。

 葵も橘の死を乗り越えて進もうとしているのだ。そんなふうに安堵していた矢先だった。


 ある夜のことだった。

 ふと目を覚ました沙苗は、隣に寝ていた葵の姿がないことに気付いた。

 日中は気丈に振舞っている葵だが、もしかしたら夜、ひとりでこっそり泣いているのかもしれない。そんな不安に駆られ、沙苗は起き上がって部屋を抜け出した。


 探し始めて程なくして、家の裏手から話し声が聞こえた。

 葵の声だ。

 草木はまだ微睡みの中にあるが、東の空は微かに白み始めている。

 早起きな使用人の誰かと一緒にいるのだろうか。ほっと息を吐いて、沙苗は足早にそちらへ近付いた。


「葵」

「沙苗ちゃん」


 声をかけると、葵がぱっと振り返った。

 一緒に話していたはずの相手の姿はない。

 あれ、と首を傾げて、沙苗はきょろきょろと辺りを見渡した。


「今、誰かと話していなかった?」

「えっとね」


 沙苗の問いに、葵が迷うように目を泳がせる。

 躊躇いがちに俯いてから、うん、と頷いて顔を上げる。

 あどけなさの残る顔には、満面の笑みが浮かんでいた。


「本当は秘密だって言われてたんだけど、沙苗ちゃんならいいかな。特別に教えてあげるね」

「……何を?」


 何故だろう。ひどく、嫌な予感がした。

 落ち着かない沙苗をよそに、とっておきの秘密を告げるみたいなきらきらした笑顔で、葵は告げた。


「葵ね、いま、お姉ちゃんと話してたんだよ」


 全身の血が、足元へ落ちていくような感覚がした。


「何を言っているの、葵」


 自分でも驚くくらい、乾いた声が出た。

 葵が目を真ん丸にして沙苗を見上げる。

 姉の帰りを沙苗も一緒に喜んでくれると、信じて疑っていなかった顔だった。


「橘は死んだのよ。もういないの」


 葵の前に膝をつき、細い肩を掴んで揺さぶる。

 葵は一瞬きょとんとした後、むっと頬を膨らませて沙苗の手を振り払った。


「違うよ。お姉ちゃんは帰ってきたんだから!」


 一歩後退った葵が、キッと沙苗を睨め上げる。

 夜明けの白々とした光に照らされた葵の顔を、沙苗は凍りついた思いで見下ろした。



 それから数日が過ぎた夜。

 また葵が寝床を抜け出したのに気付き、沙苗はこっそり葵の後を追った。

 先日と同じ、家の裏手で、葵に見つからないように息を潜める。


 少しすると、楽しげな話し声が聞こえてきた。


「あのね、今日ね……」


 他愛ない出来事を報告する声は明るく弾んでいて、こんな状況でなければ微笑ましく思っただろう。

 けれど、それを聞く相手はもういないのだ。

 何もない空間に向かってひとりで喋っている葵の姿を思い浮かべて、心が痛くなった。


(幻を見ているんだったら、はっきりさせてあげるのが葵のためだわ)


 そう自身を奮い立たせて、葵の方に踏み出そうとした時だった。


「そうなの。それで?」


 声がした。

 葵の話に相槌を打ち、先を促す声がある。

 穏やかでおっとりした響きは、ひどく聞き慣れたものだった。


(嘘よ)


 悲鳴が漏れそうになるのを必死で堪え、沙苗は胸元を掴んでその場に蹲った。

 聞き間違いだ。葵と同じ。会いたさが募って、幻を聴いただけ。


(確認しなきゃ。誰もいないって。そうすればこの幻聴も消えるはずよ)


 回らない頭でそう考えて、沙苗は壁の端からそっと向こうを覗き込んだ。


 誰かの後ろ姿が見えた。

 葵ではない。

 長身というほどではないが、葵よりは背が高い。

 柔らかな髪を結わずに肩に流して、着古した衣は丁寧に繕われている。

 葵が何か言う。彼女が口元に手を当てて、さざなみのような笑い声を立てる。

 こちらに背を向けているから、顔は見えないけれど。

 その声も、姿も、仕種も、忘れるはずがない。


「……橘」


 掠れた声が漏れた。

 ひどく小さなその声に、気付いたのは葵だった。


「沙苗ちゃん!」


 無邪気な呼び声に、沙苗ははっと我に返った。

 葵がこちらを見上げている。橘が生きていた頃と同じ、翳りのない表情で笑っている。


「沙苗ちゃんも来たんだ。ねえ、一緒にお話ししようよ。前みたいに、三人で」

「いえ、私は……」


 無意識に、一歩後退る。

 心臓がバクバクと激しい音を立てている。

 見開いた目は瞬きを忘れて、呼吸の仕方も思い出せない。

 逃げなければ。早く、逃げないと、


「──沙苗ちゃん?」


 その声が沙苗の名を呼ぶことは、二度とないはずだった。

 ()()がゆっくりと振り返る。

 柔らかな髪がふわりと揺れて、耳元が見えた。

 続いて、頬の線が。鼻梁が。睫毛が。

 目が、合ってしまう。


「……──っ!!」


 どうやって逃げたのかは、覚えていない。

 橘は──橘らしきものは、追いかけてはこなかった。


「沙苗ちゃん、どうしたのかな」

「どうしたのかしらねえ」


 心配そうな葵の声に、橘らしきものの声がのほほんと答える。

 それを聞きながら、必死に走って、部屋に逃げ込んで、扉を閉めて、沙苗の身体からようやく力が抜けた。


「そんなはず、ないわ」


 声に出して、自らに言い聞かせる。

 彼女の声が、まだ、耳の奥で響いている。

 沙苗は耳を塞いで、床に蹲った。


「そんなはず、ないの。あの子は確かに死んだのよ」


 夜が明け、鳥が鳴き始めるまで、沙苗はそのまま動けずにいた。



 *


「葵は橘の幽霊に取り憑かれているの。このままじゃ、葵まで死んでしまうわ」


 話しているうちに、ぞっとした気持ちが蘇ってきて、沙苗は鳥肌の立った腕で自身を抱きしめた。


「ねえ、巫女さん。あなた、幽霊を祓える? もしもできるなら、お願いよ。どうか、あの子を祓って」


 半ば駄目元で訴えれば、子供は戸惑ったように眉を下げた。


「話を聞くに、橘とやらは妹を心配しているだけに思えるがのう。取り殺すつもりはないのではないか?」

「何を言っているの」


 悠長な子供の様子に苛立って、沙苗は声を尖らせた。

 子供がびくりと肩を震わせる。

 沙苗は立ち上がって、流れる川面を見下ろした。


「あの子は死んだの。早く成仏しなければいけないのよ。いつまでもこの世に留まっているなんて、だれのためにもならないわ」

「……そうか」


 初夏の風に、葦の葉が揺れる。

 きっぱりとした沙苗の物言いに、子供が僅かに瞳を翳らせて睫毛を伏せる。

 それから思い直したように顔を上げて、沙苗を真っ直ぐに見上げた。


「分かった。か……、姉、に相談してみよう」

「本当に?!」


 声が跳ね上がる。

 ぱっと顔を輝かせた沙苗に、子供は複雑な表情で頷いた。


「相談してみるだけじゃ。姉が何と言うかは分からぬぞ」

「それでも充分よ。ありがとう!」


 小さな手を握りしめ、精一杯の感謝を伝える。

 子供が曖昧に微笑んだ。


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