第66話巨山と水と
開け放たれた土間の南向きの扉から見える「ふたつの太陽」と「見たこともない紫の森」を前に、俺とばあちゃんは言葉を失ったまま呆然と立ち尽くしていた。
この非現実すぎる光景に、先に我に返ったのは人生経験の差か――ばあちゃんのほうだった。
「……まずは、水の確認だて。水道から水は出るんかね?」
「えっ……? ばあちゃん、こんな時に水の確認なんて必要かね!?」
「こんな時もあんな時も関係ないがね。いつでも人間には水が必要なんだで。水がなければ生きていけんでな」
言うが早いか、ばあちゃんはアルミ製の土間扉をガチャンと引き戻し、鍵をしっかりとカチリと掛けた。外の常識外れな光景を、物理的にシャットアウトするように。
「あれもこれもと気を取られとると、結局何一つちゃんとできんのだて。……義春、水質検査の紙はまだあるかね?」
扉を閉められたことに戸惑う俺に、ばあちゃんは落ち着き払った声で問いかけてくる。
「ま、まだ買ったばかりだで、ようさんあるよ」
「ならよし」
ばあちゃんは台所へ回ると、山からの湧き水をそのまま引き込んである水道の蛇口を捻った。
ジャーッと勢いよく噴き出す水を透明なガラス瓶に受けながら、出る勢い、にごりや気泡の有無、匂いがないかを職人のような眼差しで丁寧に確かめていく。
「とりあえず、見た目と匂いは大丈夫そうだなも」
そう呟くと、ばあちゃんは湯船と家中にあるバケツというバケツに水を溜めておくよう俺に指示を出し、「わしは着替えてくるでね」と言い残して寝室へと戻っていった。
(朝から、あんなにシャキシャキ動くばあちゃんは久しぶりに見たな……。無理のし過ぎで倒れなきゃいいけど、身体のほうは大丈夫だろうか)
明らかな異常事態の中にあっても、俺の頭の中はばあちゃんの体調のことばかりが気にかかっていた。
「裏の貯水槽も見に行かんとね。あんたもダニ避けの網網のズボン、履いときゃあよ。あと水質検査のも持ってこやぁ」
屋外用の強力な蚊取り線香を二セット取り出し、ネット通販で買ったメッシュパンツをズボンの上に履いたばあちゃんが部屋から戻ってきた。
その圧倒的な頼もしさに気圧され、俺も急いでトレッキングパンツを履き、その上からメッシュパンツを装着。小型ポーチに水質検査キットを詰め込んで肩から斜め掛けにした。
「ほんなら、行くかね」
ばあちゃんが土間の北側――山肌に面した扉の鍵へ手を伸ばす。俺は慌てて声を張った。
「外には何がおるか分からんで、俺が扉を開けて先に出るわ!」
腰に蚊取り線香をぶら下げ、右手にずっしりと重い金属製の金剛杖(鍛錬棒)を握りしめ、左手でアルミ製の引き戸を滑らせる。秋にDIYで取り付けたサッシは、静かにスムーズに開いた。
引き戸の隙間から、金剛杖をいつでも突き出せる姿勢で外の気配を探る。ひんやりとした山の空気が流れてくるが、怪しい気配や生き物の気配はなさそうだ。
「……よし、安全そうだ。行くでね」
「気をつけやぁよ」
腰に蚊取り線香をぶら下げ、右手にトレッキングポール、左手に赤マジックで『熊撃退』と書かれたスプレー缶を握りしめたばあちゃんが、俺の背後についてくる。
我が家の貯水槽は、母屋から北側に二十メートルほど離れた山肌に設置されている。
茅葺き屋根をガルバリウム鋼板で覆った我が家が立つのは、全標高五百メートルほどの山の中腹、標高三百メートル前後の場所だ。貯水槽からさらに二百メートルほど斜面を進んだ岩肌から冷たい水が湧き出ており、それが沢となって集まる場所に手作りの取水槽が設置してある。そこで一度濾過された水が塩ビ管を通って貯水槽へ送られ、そこでもう一度濾過されたものを家へと引き込んでいるのだ。
余った水は、作物の散水用タンクへ回る仕組みになっている。失踪した親父が手作りしたシステムだと誇らしげに語っていたばあちゃんの顔を、俺は今でもよく覚えている。
その貯水槽の無事を確認しに向かった二人だったが、土間を出て数歩進んだところで、完全に足が止まってしまった。
貯水槽のさらに遥か彼方――雲を突き抜けて聳え立つ、あり得ない山塊の威容に圧倒されたためだ。
本来、義春たちが住む地域にも二千メートルを超える山々や、少し離れた場所に一千メートル級の独立峰は存在していた。だが、自宅の真裏に、こんな天を突くような巨山など存在するはずがない。
「……これはまた、どえらい山だなも」
「うん……でら高い山だね。富士山どころか……下手したらエベレストくらいあるんじゃないかね……」
その山は、まるで世界そのものを支える柱のように圧倒的な存在感でそこに鎮座していた。
世界のどこにもこんな巨大な独立峰があるなど聞いたことがないし、そんな画像を見たこともない。
非現実すぎる絶景に言葉を失っていた二人だったが、ここでも先に現実へ足を戻したのは、ばあちゃんだった。
「何にせよ、まずは貯水槽を見に行こまいか」
「そ、……そうだね。とりあえず水の確認だわ」
皮肉なことに、この現実離れした巨大な山の姿を目にしたことで、「ここはもう日本ではない」という冷酷な現実を、俺は嫌というほど思い知らされたのだった。
金剛杖を構えて周りを警戒しながら斜面を登り、間もなく貯水槽へと辿り着く。
「こりゃあ、いつもの水より勢いがあるねぇ。えらい透明度だし……水温も冷たぁて、ええわ」
貯水槽の蓋を開け、塩ビ管から勢いよく湧き出す水を見て呟く。
「ほうだな。問題は、飲めるかどうかだわ。水質検査、やってちょう」
「わかった」
俺はポーチからプラスチック製の試験管や検査紙を取り出した。手先は迷いなく、手慣れたものだ。
この検査キットは、鉛や水銀、フッ化物など十八種類の有害物質を簡易検出できる優れものである。行政の水質検査は年に一回しか行われないため、ばあちゃんの体調を気にした俺がネット通販で買い揃えておいたものだった。
薬品の反応とカラーチャートを照らし合わせ、慎重に確認する。
「……重金属も化学物質も反応なし。酸性度も問題ない。数値の上では完璧だわ」
「そうか。とりあえず水質は大丈夫そうだで……最後はワシが飲んで確かめてみようかね」
そう言って、貯水槽に置かれたステンレス製のコップに手を伸ばそうとするばあちゃんに、俺は思わず大声をあげた。
「何バカなこと言っとるの! それで体調崩したらどうするのぅ! 試すなら俺だて!」
「あんたが体調崩してまったら、誰がワシの面倒見るのぉ」
「……むうっ!」
正論で返され、ぐうの音も出ない。だが、ばあちゃんに毒味をさせるわけには絶対にいかない。俺が必死に知恵を絞り巡らせていると――ハッとあるものの存在を思い出した。
「そうだ!! 岩魚がおるがね!」
「ああ……小木曽んところの……」
ばあちゃんも膝を打った。
数日前、麓の集落の用水路清掃を手伝った際、俺を孫のように可愛がってくれる小木曽の爺様から、釣ったばかりの立派な岩魚を五匹分けてもらったのだ。すぐには食べきれず、そのうちの三匹を、昔使っていた沢沿いの生け簀に放してあったのだった。
「今日あたり食べようと思って、昨日様子を見に行ったら元気に泳いどったんだわ。確認してみよまい!」
急いで沢沿いの生け簀へと向かう。
害獣除けの頑丈な鉄格子が嵌められた小さな生け簀を覗き込むと――冷たい水の中を、三匹の岩魚が元気にヒレを動かして泳ぎ回っていた。
「……ピンピンしとるね」
「ほうだな。水に即効性の毒はなさそうだわ」
もちろん、これで危険が完全ゼロと担保されたわけではない。だが、水質検査の数値と川魚の生存、そしてこれから行う徹底した煮沸消毒を組み合わせれば、命を繋ぐ水として十分使用可能だと、俺たちは判断したのだった。




