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放浪記〜家族水入らずで異世界転移〜  作者: 高梨京司
第三章 異世界キャンプ

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第65話 最上田家の願いと転移

 山に爽やかな初夏の風が吹き抜ける季節が、再び巡ってきた。

 青々と生い茂る山々の緑が朝日に映え、沢沿いでは柔らかな風に揺れるアザミや山菜が青々とした葉を広げている。


「ばあちゃん、今日の採れたてだでね。天ぷらにして食おまい」


「まあ、綺麗で力強い山菜だなも。義春の揚げる天ぷらは衣がサクサクで美味いんだわ」


 揚げたての山菜に軽く塩を振り、苦みと爽やかな風味を噛み締めながら、二人で和やかに笑い合う。


 会社を辞めてこの山奥の実家に帰ってきてから、ちょうど一年が過ぎようとしていた。

 この一年で、義春の料理の手際の良さは格段に上がり、山での生活基盤もすっかり整っていた。


 帰郷した初夏から秋口にかけては、麓の高齢化した集落で農作業の手伝いや屋根の補修、庭木の剪定といった便利屋仕事を請け負い、十分な日銭を稼ぐことができた。

 麓の集落のお年寄りたちは、かつて中学・高校時代にバス停から徒歩で二時間かけて山を登っていた義春のことをよく覚えており、実の孫のように可愛がってくれたのだ。


 冬場、山が深い雪に閉ざされる季節には、前職の繋がりで譲り受けた樹脂の端材と中古の溶接機を使い、居間にこもってコレクションケースや特注の整理棚をコツコツと制作した。春先にネットオークションに出品したそれらは、職人ならではの精密で頑強な仕上がりが評価され、想像以上の高値で飛ぶように売れた。


「義春の手先は、本当に魔法みたいだねぇ」と祖母・くには感心していたが、義春にとっては山での穏やかな暮らしと、祖母の笑顔こそが何よりの報酬だった。


◇◆


 サクサクと鍬を打ちつけ、畑を耕しながら、義春はふと遠い昔の記憶に思いを馳せる。

 義春が幼い頃、父親は理由も告げず突然姿を消した。事件とも事故とも判然としない、まさに青天の霹靂のような出来事だった。義春が当時八歳の時のことだ。

 母親の両親はすでに他界しており、母親の兄である義春の叔父は遠く東京で生活していた。身寄りを失った母子が身を寄せたのが、この山奥に暮らす父の母――『最上田くに』のもとだった。


 祖母は二人を温かく歓迎してくれた。都会育ちの母親のことも実の娘のように可愛がり、山奥の不便な暮らしの中でも、二人がいつも楽しそうに笑い合っていたのを義春は鮮明に覚えている。

 だが、悲劇は重なった。義春が十二歳の時、母が病気でこの世を去ったのだ。

 それ以来、この広い山で、義春と祖母の二人だけの生活が始まった。


 中学、そして高校へと通う義春を祖母は毎朝、古い軽トラのハンドルを握り、狭く険しい私道を下って麓のバス停まで送ってくれた。

 当時はまだ携帯電話も通じず、固定電話すら引き込まれていないポツンと一軒家だ。学校が終わった帰り道、バス停から家までの過酷な山道を、十二歳の義春は二時間かけて一人で歩いて登った。


(あの頃は、本当にきつかったなぁ……。変電所に土地を貸し始めていたから、電話線は頼めば引けたはずなんだけどなぁ)


 汗を拭い、照りつける初夏の日差しを見上げる。

 父と帰省するのではなく、ここに住むことになった初夏の爽やかな風、夏の盛りの青空、秋の紅葉が山を赤く染める静寂、そして冬の凍てつく白銀の世界――。

 少年が青年になるまで、雨の日も風の日も黙々と歩いた過酷な登り坂が、いつしか義春に自然の美しさと力強さを教えてくれたのだ。

 通学の行きがけの軽トラの中で、膝を寄せ合いながら祖母と交わした何気ない雑談の温もり。それが、義春の人生の最も尊い根っこになっていた。


 突然消えた父親に対しては、事件なのか、事故なのか、あるいは自ら捨てたのかすら判らないため、憎しみも怒りも、愛情すらも湧いてはこない。ただただ、自分を命懸けで育て上げてくれた母親への深い感謝と、今こうして目の前にいてくれる祖母への愛おしさだけが胸を満たしていた。


◇◆


 去年、実家に戻ってすぐに開墾した畑では、ニンジンやダイコンが豊かに実った。小松菜や白菜も収穫でき、秋から冬にかけての美味しい鍋の具材となった。


 秋には、八月に種から育てたソバの実を二人で収穫し、石臼で注意深く挽いて手打ちの「自家製そば」を作った。ソバの実が実るのが先か、初霜が降りるのが先かと気を揉んだのも良い思い出だ。


「うん! コシがあって、風味も最高だわ。ばあちゃん、これ、お店出せるレベルだでね!」


「ははは、義春が打ち粉で顔を真っ白にして作ってくれたで、余計に美味いんだわ」


 囲炉裏を挟んで笑い合う二人。

 夜になると、吸い込まれそうな満天の星空が山奥の夜空を覆い尽くす。

 街の灯りが一切届かないこの山頂近くでは、天の川がまるで白銀の帯のように鮮やかに夜空を流れていた。縁側に並んで座り、温かいお茶を啜りながら星を見上げる時間が、義春と祖母の何よりの楽しみだった。


 だが――平和で色鮮やかな四季の移ろいの裏で、抗えない現実が静かに二人に忍び寄っていた。

 くにの体力が、この一年で確実に削り取られていたのだ。

 畑に立つ時間は日に日に短くなり、居間で長座布団に横になる時間が増えていく。顔色は青白くなり、手足のむくみも目立つようになっていた。


(ばあちゃん……)


 星空を見上げる祖母の小さく痩せた横顔を見つめながら、義春の胸がキュッと締め付けられる。

 医師が飲み込んだ『老衰』という言葉。

 遠からず訪れるであろう「祖母を失う日」の恐怖に、義春の心は暗い深淵へと引きずり込まれそうになる。この温かい時間が終わってしまうのが、たまらなく怖かった。 


 そして、くに自身もまた、その身体の変調を誰より静かに悟っていた。


(神様、どうか……私が逝った後も、この優しい子が一人で寂しくないようにしておくれ……)


 一人残される孫の将来を案じ、くには心の中で静かに祈り続けていた。

 お互い、相手を不安にさせまいとその話題には一切触れなかったが、二人を包む穏やかな空気の奥底には、切なくも温かい絆と、密かな恐れが常に漂っていた。


◇◆


 歳月は一年が巡り、再び青葉が目に眩しい初夏へと入っていた。その日は夕暮れが特段に綺麗だった。

 

 標高三百メートルほどの山肌を涼しい風が吹き抜ける深夜、心地よかったひんやりとした空気がすっと消え去った。ぬるっと暑気とも湿気ともつかない異様な空気が、肌にまとわりつくように満ちてくる。あまりの寝苦しさに義春は一度目を覚ましたが、初夏の畑仕事の疲れに抗えず、再び深い眠りへと沈んでいった。


 翌朝、いつも通りスマホのアラームで目を覚ます。時刻は午前五時三十分。カーテンを開けて朝日を取り込むと、襖を開けて囲炉裏部屋へ出る。

 実家に戻った当初は高校生まで使っていた二階の部屋を使っていたが、最近は祖母の体調が心配で、寝室の隣の居間を自室として使っているのだ。


 囲炉裏部屋は昼間でも光が届かず薄暗いため、義春が戻って数ヶ月の間に人感センサーライトと、非常点灯用のLED電球を設置してあった。

 だが、襖を開けて足を踏み入れても、センサーライトが反応しない。その代わりに停電時に内蔵のバッテリーで点灯するLED電球が、非常灯として青白く灯っていた。


(停電か……?)


 義春は首を傾げ、手に持ったスマホを確認した。山奥ゆえの「圏外」表示には驚かないが、画面上部にあるはずのWi-Fiアンテナマークが消えている。

 いよいよ停電の線が濃厚だと判断した。

 まずは足音を殺して祖母の寝室の様子を見に行く。規則正しく静かな寝息を立てていることを確認し、ホッと胸を撫で下ろした。

 最近はこの朝の寝息の確認が大切な日課となっている。


(停電の原因は何だろう? ブレーカーが落ちたか、外の電線か……)


 とりあえず風力、水力、ソーラーで蓄電した予備電源に切り替えるべく、制御装置を設置してある土間へと向かう。

 スマホのライト機能だけで電源配線や切替スイッチの確認を行おうとしたが、漆黒の土間では思いのほか作業がやりづらい。


(懐中電灯かランタンを持ってくるべきだったか。……いや、今日はいつも以上に外がやけに明るいな。引き戸を開けて朝日を取り込めば何とかなりそうだ)


そう思い立ち、土間の南側にある引き戸の鍵へ手を伸ばす。去年の秋にDIYで取り付けたアルミ製の引き戸は、スムーズに滑った。


「よし、光量は十分だな」


 呟き、作業に戻ろうとした――その瞬間だった。

 開け放たれた引き戸の向こう、視界に飛び込んできた外の景色に、義春は金縛りに遭ったように動きを止めた。


 ドクン!!

 心臓を直接掴まれたような激しい衝撃。全身の血管が爆発したかのように脈動する。無意識に体が後退り、土壁に立てかけてあった重い金属製の金剛杖を倒してしまった。


ガシャーンッ――!!


 静寂を破って金属杖がけたたましい音を立てる。

 だが義春の思考は一瞬にしてフリーズし、その耳を刺すような轟音すら届いていない。自家発電の切り替え作業のことなど、遥か彼方へ吹き飛んでいた。


「義春……っ!? なんだね、今の音は……!? 怪我はないかね!?」


 音に驚いた祖母が、薄手の上着を羽織って寝室から顔を出し、心配そうに義春を見つめている。

 その声を聞いて、ようやく義春のフリーズしていた思考がズルズルと動き出した。


「あ、あぁ……大丈夫だよ。怪我はしとらんで。驚かせてごめんね。ただ……」


 義春はかすれた声で、外を指さした。


「なんか……外が、どえらいことになっとるんだわ」


「どえらいこと……?」


 訝しがる祖母の細い手を取り、土間に降りるのを優しく手伝う。式台に腰掛け、くにがサンダルに足を入れる間も、義春の視線は固まったまま外へと向けられていた。


 土間に転がった重い金剛杖を拾い上げ、無意識のうちに弁慶のように固く握りしめて前に立つ。そのただならぬ気配に呑まれながらも、くには引き戸の先へとゆっくり足を向けた。


「なんだね……これ……は……」


 祖母の口から、掠れた声が漏れる。義春と同じように、その思考が完全に停止していた。


 呆然と立ち尽くす二人の眼下には、昨日までと変わらず、手塩にかけて育ててきた愛おしい畑が広がっている。

――だが、そこまでだった。

  畑のすぐ先にあるはずの慣れ親しんだ杉の森も、急な山の斜面も、はるか下に広がる日本の町並みも、忽然と姿を消していた。

 その代わりに広の広がっていたのは、見たこともない色鮮やかで雄大な大高原――。

 さらにその遥か彼方には、巨木のような未知の紫色の樹木が立ち並ぶ見知らぬ森が鬱蒼と生い茂っている。

 息をのんで見上げた空には――常識を叩き潰すように、二つの輝く太陽が並んで浮かび、異世界の大地を煌々と照らし出していた。

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