第64話【最上田くに】願い
数日前、義春から「アパートを引き払って実家に帰る」と電話があった。
急なことに驚き、あんなに真面目に勤めていた仕事はどうしたのかと胸がざわざわとしたが、電話越しに聞こえる孫の声はどこか力なく沈んでいた。
(まあ、世の中いろんなことがある。真面目で優しいあの子のことだ。なんとかなるがね)
そう自分に言い聞かせ、義春が車を停めて引っ越しの荷物を降ろしやすいよう、玄関前の軽トラを少し離れた場所へ移動させることにした。
運転席のドアを開け、よっこいしょとわずかな力を振り絞ってステップに足を引っ掛ける。だが、膝が笑って思うように脚が上がらない。
ここ数年、軽トラに乗り込むだけでも大仕事だ。車を少し下げてキーを捻り、エンジンを切ると、思わず深いため息が漏れた。
「はぁ……情けないねぇ。……いかんいかん、洗濯、洗濯」
沈みがちな気分を振り払うように独りごちて、すり足で家の中へ戻った。
◇◆
翌朝、カサカサと床を滑る軽い機械音と「ウィーン」という静かな吸引音で目を覚ました。
義春が贈ってくれた二台のロボット掃除機――「そうじ」と「ルン」は、毎朝七時きっかりに動きだす。その音が襖越しに聞こえてくる。
数年前生までは、この子たちが動き出すずっと前に起き上がって、清々しく朝の空気を吸っていたというのに、最近は起き上がれない朝が増えてきた。
昨日は義春が帰ってきたらすぐに荷物を置けるよう、二階の部屋を久しぶりに拭き掃除したから疲れが出たのだろう。そう自分に言い訳をして、敷布団の上でゆっくりと身を起こす。
布団から出た途端、薄い肌着越しにすうっと肌寒さが襲ってきた。身体が鉛のように重く、節々が痛んで思うように動かない。
心配性の義春は、熱中症対策にと寝室と南の居間にエアコンをつけてくれたのだが。
『寝る時は居間のエアコンを、居間にいる時は寝室のエアコンをつけて、風が直接当たって身体が冷えすぎんようにしんといかんよ』
義春にそう言われた通り、直接風が当たらないよう工夫して使っているはずなのだが、最近は朝起きると寒くてかなわない。
壁にかかったデジタル温度計を見れば『26.5℃』。決して冷えすぎているわけではない。……室内が寒くなったのではなく、自分の身体の中から温かさが失われているのだと、薄々気づいてはいた。
ため息を噛み殺し、南向きの縁側のある部屋へ向かう。襖を開けると、むっとした夏の熱気が顔に当たった。外の酷暑には遠く及ばないが、冷え切った身体にはこの熱気が心地よかった。
「ペアガラス」の嵌った、何とかというプラスチックの内窓と、昔からのアルミサッシの外窓を開ける。義春が防音と断熱のために取り付けてくれたものだ。おかげで二回窓を開け閉めしなければならず少し手間が増えたが、効果は素晴らしく、外の虫の音も夏の熱気もすっかり遮断してくれる。
リフォーム代金の半額は国の補助金が出るらしく、残りの半分は「わしが年金から出す」と言ったのに、義春が頑固として受け取らなかった。結局互いに一歩も譲らず、代金は折半することになった。
(誰に似たんだか、本当に頑固な孫だねぇ……)
◇◆
縁側に立ち、外の風を取り入れる。しばらくすると血が巡ったのか、身体が少し動きやすくなった。湯呑みに冷めた昨日のお茶を注ぎ、高座椅子に腰掛けてチビリとお茶を啜っていると、静寂の奥からかすかな車のエンジン音が聞こえてきた。窓を開けておいて正解だった。孫の義春の車の音だろう。
直ぐに土間の方からガラガラと勢いよく引き戸の開く音が響く。
「婆ちゃん! ただいまぁ! どこにおるのぉ!?」
慌ただしい足音と、昔から変わらない義春の大声だ。
「義春。こっちじゃ。こっち」
間もなく襖が滑り、涼しい風と一緒に義春が飛び込んできた。わしの姿を見るなり、義春の顔がさっと青ざめる。
「婆ちゃん! 熱中症になるとダメだで、クーラーかけないかんて、いっつも言っとるでしょう!」
義春は慌てて部屋に入り、ガラス窓をバタンと閉めてエアコンのリモコンを探そうとする。
「あぁ……わかっとるよ。寝室でクーラーかけて寝とったんだけどねぇ。朝目が覚めたら寒くてかなわんで、この部屋であったまっとったんだわ」
冷や汗をかいて「経口補水液持ってきてあげるでね!」と慌てふためく孫の姿に、胸の奥がキュッと締め付けられる。
(ああ、この子は本当に私のことばかり心配して……)
手渡されたぬるい経口補水液をゴクゴクと飲む。本当はそんなに喉が渇いていたわけではないのだが、飲まないと義春が不安そうな顔をするからだ。
「ほれ見ぃ、婆ちゃんが経口補水液をそんなに飲むなんて身体が乾いとったんだわ。今日からは俺が毎日チェックするでね」
安堵して胸を撫で下ろす孫に、「大袈裟だわ」と微笑んでみせる。
車から荷物を降ろす義春の後ろ姿を、縁側から眺める。
義春お気に入りの軽四駆の狭い後部シートから降ろされたのは、小さな家電が幾つかと数箱の段ボール、そして服の詰まったバッグが三つ。十年間も一人暮らしをしていた大人の男の荷物としては、あまりにも少なすぎる。
物欲がなく、昔から道具を大切にする子だったが……手ぶらに近い格好で帰ってきた姿に、胸が痛んだ。
◇◆
あっという間に引っ越し作業が終わり、座卓でお茶を飲み、ひと息ついた所で柱時計を見ると11時をとうに過ぎていた。
「あれ。そろそろ昼の時間かね。それじゃぁ、冷やし素麺でも茹でようかねぇ。キュウリとミョウガも採ってあるでね」
高座椅子から立とうとすると、義春がそれを優しく制して口を開く。
「俺が作るで、ばあちゃんは座っとりゃあ」
「何言っとるの。自分ひとりのご飯作るのと、孫のご飯作るのとじゃ訳が違うんだわ。孫にご飯を食べさせるのは、年寄りの一番の楽しみだでよ」
結局、二人で並んで昼食を作ることになった。
義春は手慣れた動き竈に薪に火をつけ、大きな鍋でお湯を沸かす。その間に他の準備もして、出汁の取り方も堂に入ったものだ。
小さい頃、踏み台に乗って料理を手伝ってくれたあの幼い背中が、いつの間にかこんなに大きくなった。
包丁を握り、素麺用の薬味を切る。トントンと心地よい音が響く中、器を用意しながら義春が「……会社、辞めてきたんだわ」と口にした。
新社長の身勝手さや、先輩社員から教えてもらった会社の崩壊のこと……義春が話し終わるまで、黙って包丁を動かしながら聞き入る。先代の社長さんが亡くなったとは聞いていたが、この時代にもそんな酷い事があるのかと正直驚いた。
「そうかね。……先代さんのお話を聞いた時は、ええ会社に入れたと安心しとったんだけどねぇ。二代目は難しいわな。本当の意味での苦労を知らんで、『人は宝』っちゅう言葉の重みが分からんのだて」
残された社員さんやその家族の苦労を思い、随分としんみりとした言葉になってしまった。
「これからはずっとこの山におるでね。麓の町で仕事探しつつ、畑も広げようと思っとるんだわ」
ボソボソ話していた義春が、まっすぐな瞳でこちらを見つめている。……ああ、この子は会社を追われたから帰ってきたのではない。老いさらばえていくわしのために、人生の貴重な時間を投げ打って帰ってきてくれたのだ。
「そうかねぇ……。まぁ無理せんでもええでね。義春がいてくれるだけで、十分だわ」
本心だった。わしの命はもう何年も持ちはしないだろう。先月、大きな病院で診察を受けた。特定の病気はないそうだ。事務的なお医者様の言葉の裏には、はっきり口にはしなかったが『老衰』のはじまりが含まれていた。自分でも身体のあちこちが悲鳴を上げているのが解る。いつ動かなくなってもおかしくないこの身体を抱え、最期の時をこの大好きな孫と一緒に過ごせるのだとしたら、これ以上の幸せがどこにあるだろう。
◇◆
昼食後、台所で食器や鍋を洗っていると、義春が外で電動薪割り機を動かす『ガチョン、ガチョン』という重低音が響いてきた。
働き者の孫だ。昔ならわしが大きな斧を振り上げて腰を痛めていた仕事を、あの子は社会人になってすぐ電動薪割り機を買って楽にしてくれた。
『ばあちゃん、電気温水器買おうか?』と聞かれた時は、思わず厳しく叱ってしまったものだ。
(そんな大金を自分のために使わせるわけにいかん。あの子は自分のアパートの家電すら買わずに、この田舎の一軒家にばかり金をかけて……)
ふと視線を落とすと、床を「そうじ」と「ルン」が健気に動き回っている。昼からは朝とは別の場所を掃除をしてくれている、賢いものだ。
充電ドックに飾った毛糸の名札を見つめながら、目を細める。
防犯カメラ、散水機、ネット回線、色々な発電機、そして見守りポット……。あの子がコツコツ買い集めた家電たちは、すべて『遠く離れた場所からでも、おばあちゃんを守りたい』という義春の執念と愛の塊だったのだ。
以前、義春がうっかり漏らした発電機の価格は、わしの予想を遥かに超えた金額だった。厳しく貯金額を問い詰めた時、あの子の通帳に残高がほとんどないのを見て涙が出そうになった。自分の趣味や遊びには一銭も使わず、全部この家に注ぎ込んでいたのだから。
食器洗いが終わり、座卓でお茶を飲んでいると、急な眠気に襲われた。この眠気にも慣れ始め、部屋の隅に二つ折りにしてあった長座布団を広げ、横になると間もなく意識が沈んでいった。
◇◆
しばらくして目が覚めると、義春の姿はどこにも無かった。土間に立てかけてあった熊よけの鈴と、獣対策の金剛杖が無くなっている。
おそらくは家の水道に使っている沢の取水口を見に行ってくれたのだろう。
明るいうちに少し、畑の様子を見て回る。念のため、手には『熊撃退スプレー』と義春が赤マジックで書いた、冷たい外国製のスプレー缶を固く握りしめている。
運が良いのか義春の獣対策が良いのか、ここ数年は害獣の被害がない。
水やりにはまだ早い時間だ。ゆっくりと家に戻る。
洗濯物を取り込み、南の和室の縁側で畳んでいく。義春は月に二回ほど顔を出してくれるが仕事が忙しく、基本は日帰りのため、この家に泊まるのはお盆休みと正月休みくらいのものだった。
義春のパジャマを洗って朝から干していた時、寝起きの衰えに沈んでいた気持ちが、じんわりと前向きになるのを感じた。
(もう二十八歳にもなる大の大人に、何でこんなにも甲斐甲斐しく世話を焼いてしまうんかねぇ……。だけど、孫はやっぱり可愛いのだ。……あの子は気づいとるんだろうねぇ。わしがもう長くないことに……)
洗濯物を片付け終わった頃、外から杖の音が聞こえ、義春が帰ってきた。
「水場の確認かね?」
「うん。ついでに森も見てきたよ。すぐ近くに二本ほど間引かないかん木があるで。あんな感じの生え方なら台風の後でも大丈夫そうだから、秋口に切るわ」
「ご苦労さん。そうかねぇ。わしはもう何年も森に入っとらんでねぇ……。それにしても義春、こんな季節に森に入ってダニに喰われんかったかね?」
「大丈夫。このメッシュパンツ、優れものだでね。涼しいし動きやすい。ばあちゃんにも一着買おうか?」
これ以上、孫に無駄なお金を使わせまいと、やんわりと首を振って断る。それにしても――。
「本当にインターネットは便利だねぇ。天野さんは何でも売っとらせるなぁ」
「ははは! ばあちゃん、そのサイトは『天野』じゃなくて『ア◯ゾン』だでね!」
笑いながら、山で採ってきたばかりのアザミやヨモギなどの野草を、誇らしげに手渡してくれる孫の温かい手。
夕闇が静かに最上田家を包み込んでいく。
(神様、どうかもう少しだけ……この温かい時間を、この子と一緒に過ごさせてちょうよ)
深く沈みゆく夕日を見つめながら、わしは心の中で静かに手を合わせた。




