第63話 最上田家の日常
経口補水液を少しずつ飲ませ、祖母の様子に特段の変化がないことを確認すると、俺はようやく胸を撫で下ろした。
「ほれ見ぃ、婆ちゃんが経口補水液をそんなに飲むなんて身体が乾いとったんだわ。今日からは俺が毎日チェックするでね」
「大袈裟だわ。お茶も水もしっかり飲んどるで大丈夫だと言っとるのに……。でも、義春が帰ってきてくれて本当に嬉しいわ」
ひとしきり話が終わると引っ越しの荷物を車から降ろした。冷蔵庫は嵩張るのでリサイクルショップに引き取ってもらった。
後は電子レンジと炊飯器、布団と服が入ったバッグが3つ目。雑貨屋 小さな小物家電がダンボールで1箱。軽四駆のリアシートを倒したスペースをぎっしり 占有してきた荷物はそれだけだ。10年間の一人暮らしの荷物としては少ないのかもしれないが これ以上必要なかったんだからしょうがない。
引っ越しの荷物を降ろし終わると、ばあちゃんがお茶を差し出してきた。
ありがたく座卓の座りお茶をいただく。
ひと心地 ついていると
「あれ。そろそろ昼の時間かね。それじゃぁ、冷やし素麺でも茹でようかねぇ。キュウリとミョウガも採ってあるでね」
骨ばった膝を押して立ち上がろうとする祖母の肩を、俺はやさしく押さえつけた。
「俺が作るで、ばあちゃんは座っとりゃあ」
「何言っとるの。自分ひとりのご飯作るのと、孫のご飯作るのとじゃ訳が違うんだで。孫に飯を食わせるのは、年寄りの一番の楽しみなんだよ」
困り顔で微笑む祖母の細い手を見て、俺は小さく苦笑した。
「……じゃあ、一緒に作ろう。俺が湯を沸かして出汁の準備するで、ばあちゃんは薬味の準備をしてくれん?」
「はいはい、そうしようかねぇ。昔、義春がちっちゃい頃も、椅子に上に立ってお手伝いしてくれたっけねぇ」
台所に並んで立つと、包丁がトントンと心地よい音を奏で始める。夏の盛りの風が、網戸越しに裏山の青く生い茂る木々の匂いを運んでくる。
「……会社、辞めてきたんだわ」
器の準備をしながら、ボソボソと呟くように切り出した。新社長のこと、先輩社員から教えてもらった会社の顛末のこと、俺が話終わるまで、ばあちゃんは静かにただ頷くだけだった。
「そうかね。……先代さんのお話を聞いた時は、ええ会社に入れたと安心しとったんだけどねぇ。二代目は難しいわねぇ。本当の意味での苦労を知らんで、『人は宝』っちゅう言葉の重みが分からんのは不憫だて」
祖母は責める風でもなく、切り終わった きゅうりと薬味で刻んだみょうがの残りを味噌汁に入れて軽くかき混ぜると、ため息交じりにつぶやいた。
「最近、忙しくてあんまり顔を出せんくてごめんね」
「何を言っとるの。病院にも付き添ってもらったし、忙しくない時は月に二回も帰ってきて草刈りやら薪割りやら手伝ってくれて。こんな孝行孫に文句言ったらバチが当たるわ」
「これからはずっとこの山におるでね。麓の町で作業の手伝いの仕事でも探しつつ、うちの畑ももうちょっと広げようと思っとるんだわ」
「そうかねぇ……。まぁ無理せんでもええでね。義春がいてくれるだけで、十分だわ」
会社で新社長の暴言やすり減るような日常に晒されていた心が、祖母の温かい一言で、じんわりと解けていくのが分かった。
◇◆
準備が整い、二人で囲炉裏の前に座って昼食をとる。
夏の盛りのこの時期は、さすがに囲炉裏にも炭は入っていないが、ここで向かい合って食事をとるのが最上田家の昔からの決まり事だった。
「今年のキュウリは初物が美味くできたでね。暑さは厳しいけれど、この辺りの標高だときゅうりにはちょうどええのかもしれんね」
「ナスのほうは葉っぱを虫に食われて大変だったんだわ」
「ズッキーニも試してみたけど、ありゃあ味噌汁に入れても美味いねぇ」
「冬に備えて玉ねぎとジャガイモの準備もしておかんとな」
他愛もない祖母の野菜の話を聞き、冷えた素麺を啜る。
毎月何回か帰省している俺だが、この変わり映えのしない穏やかな時間こそが、何よりも大切で愛おしかった。
(この時間が、ずっと続けばいいのに――)
そう願う一方で、胸の奥にずっしりと重い塊が居座る。老衰という、抗えない現実の足音が聞こえていたからだ。
◇◆
昼食後、祖母が食器等の洗い物をしている間に、俺は外へ出て薪割りの準備に取りかかった。
薪の材料となる間伐材は、年に数回、軽トラで近所の製材所から分けてもらったり、俺が祖母の持ち山に入って倒した樹木を乾燥させて積んである。積まれた木材の山を見ながら、(これからは自分も定住するんだから、冬が来る前にもう少し間伐材を補充しておかないとな)と思考を巡らせる。
ちなみに我が家では、某テレビ番組で見かけるような『斧で豪快に薪割り』なんて力仕事は一切やらない。文明の利器――電気を使った『100V電動薪割り機』で手際よく割り進めるのが基本だ。100Vのポータブル機でも、直径30センチほどの丸太なら簡単に真っ二つにできる。俺が社会人になってすぐに買ったものだが、昔の苦労が嘘のように作業が捗る優れものだ。
風呂も調理も薪で賄うこの家では、薪割りは生命線だが、問題は『風呂の湯沸かし』だった。
うちには薪と灯油の兼用の風呂釜がある。灯油を使えばボタン一つで沸かせるし、灯油はポリタンクで俺が購入して持ち込んでいるのだから遠慮はいらないと言っているのだが、祖母は頑なに灯油を使いたがらないのだ。
『灯油で風呂を沸かすなんて贅沢だがね。うちに薪がいっぱいあるんだから、薪で沸かすのが一番だわ。それに、薪のお湯のほうが体の芯まで温まる気がするでねぇ』
灯油で沸かしても一回100円程度だ。祖母の身体の負担や安全を考えれば安いものなのだが、ヘタに灯油を使えと言うと『そんな贅沢するなら風呂には入らん』と言い出しかねない頑固さがある。
数年前、電気温水器をプレゼントしようとした時には、珍しく本気で叱られた。
『そんな贅沢品を孫に買ってもらうなんて出来んわ! どうしても必要になったら自分で頼むで、そのお金は自分のために貯金しておきゃあ!』
それ以来、風呂の改修話は封印している。まあ、俺が同居するのだから、当分の間は俺が薪で風呂を沸かせば済む話だ。
◇◆
我が家は山奥のポツンと一軒家だが、ガスや水道(湧き水を利用している)がない反面、電気と通信ラインだけは完璧に整備されている。
三十年ほど前、祖母の所有する山の一部に変電所が建設され、その借地料と高圧電線用の鉄塔設置料として、年間数十万円の現金が入るようになった。当時の最上田家にとってこの収入は大助かりだったが、それ以上に山の生活を激変させたのは、電気と電話線が引き込まれたことだった。
もっとも、機械に疎い母も祖母も、その恩恵を十分に活用し切れていなかったのだが。
(本当にもったいないよな。昔から電気をフル活用できていれば、俺の学生生活もだいぶ変わってただろうに……。まあ、そのおかげで余計な誘惑もなく、ばあちゃんとの良好な関係が続いたとも言えるか)
今では電柱を使って光回線まで引かれている。
社会人になった俺が最初にやったのは、自分の一人暮らしのアパートを豪華にすることではなく、この山奥の実家の『スマートハウス化』だった。
ネットのタイムセールを毎日チェックし、必要なガジェットが安くなった順番に買い揃えていったのだ。
爆速の光回線を契約してWi-Fiを飛ばし、屋内の要所には見守りカメラを設置した。祖母に嫌がられるかと思ったが、「あんたしか見んのなら、私は別に構わんよ」とすんなり承諾してくれた。
屋外にもソーラーパネル充電式の防犯カメラを複数台設置。配線不要でWi-Fi接続され、スマホからリアルタイムで監視できる。人や動物が近づくと自動で人感センサーライトが点灯する仕組みだ。
昨今は都市部ですらクマの出没が話題になる。敷地周りに異常がないか確認する目的だったが、一番最初に役立ったのは『猛暑の中で農作業をする祖母の監視』だった。
スマホを「邪魔くさい」と言って畑に持っていかない祖母に対し、防犯カメラの双方向通話機能を使って「ばあちゃん! 暑いでお茶飲んで休んで!!」とスピーカーから大音量で声をかけたのだ。最初は腰を抜かすほど驚いていた祖母だが、おかげで軽い脱水症状で済んだことがあった。
その後、スマホと連動させた自動散水機を導入し、水やりも自動化。さらに害獣対策として、センサーと連動してハクビシンや鹿に自動で水を噴射する散水装置やストロボライトも設置した。その効果は覿面だった。
(本当は高圧電気柵を設置したいところだが、ばあちゃんがうっかり触ったら大変だからな……。春先にセンサー散水機にばあちゃんが引っかかって水浸しになった時は笑い話で済んだが、電気柵じゃ笑えん)
その他にも、使用状況が俺のスマホに通知される『見守り機能付き電気ポット』や、スマホからリモート操作できる『スマートエアコン』、そして二台の『ロボット掃除機』も導入した。
体力が落ちて毎日の掃除が辛くなっていた祖母は、このロボット掃除機を大いに気に入り、「そうじ」と「ルン」と名前をつけてペットのように可愛がっている。充電ドックには祖母の手編みの毛糸の名札が飾られているほどだ。
こうして順次スマートハウス化が進むにつれ、課題となったのが『停電対策』だった。台風や大雪による断線で電気が途絶すると我が実家は一気に機能不全に陥るため、俺は敷地の湧き水を利用した『マイクロ水力発電機』、山風を利用した『小型風力発電機』、そして『ソーラーパネルと大容量ポータブル電源』まで完備させた。
……ただ、日々増えていくデジタル家電に危機感を覚えた祖母から、ある日『ばあちゃん監査』が入った。俺の貯金額がほぼ底をついていることを知った祖母からは、こっぴどく叱られたものだ。
『今後は家電を買う時は、絶対にばあちゃんに相談すること!』
『買う家電の半額はばあちゃんが出すでね!』
これには参った。自分のガジェット趣味で年金と変電所の賃料があるとはいえ、婆ちゃんの生活を圧迫するわけにはいかない。スマート家電の管理用に実家に置いてあったパソコンには、祖母もいつでも閲覧できる共有アカウントを設定させられ、俺の自由気ままなネットショッピング生活は終わりを告げた。
……まあ、そのおかげで祖母自身がタブレット操作を覚え、新しい農業技術や欲しい農具や種を自分で検索・注文できるようになったのは、怪我の功名と言うべきだろうか。
◇◆
薪割りを終えて母屋に戻ると、祖母は居間の長座布団の上で静かに昼寝をしていた。
祖母はここ数年、急激に体力が落ち、昼寝の回数と時間が飛躍的に増えていた。
冬の早朝など、身体が冷え切って起き上がれないこともあった。暖かくなってからも、昔のように朝早くから農作業に出ることはできなくなり、就寝時間も早くなっている。
「義春の設置してくれた散水機のおかげで、楽するのを覚えてまったでいかんわ」
祖母はそう言って笑うが、自身でも身体の変調には気づいているはずだ。筋力の低下、食欲の減退、顔色の青白さ、そして手足のむくみ――。
主治医の勧めで大きな病院で精密検査を受けたが、何かの病名がついたわけではなかった。ただ、医者の淡々とした説明だけが耳に残っている。
『特定疾患ではありません。加齢に伴う臓器機能の低下と、全体的な体力の減少……の段階に入っていますね』
『老衰』。その二文字を思い浮かべるだけで、胸が締め付けられるように痛む。
とにかく、祖母の近くに寄り添っていたい。そう思い詰めていたタイミングで、あの無能な二代目社長の暴走が会社を辞めるきっかけとなったのだから俺にとっては不幸中の幸いだった。
すやすやと寝息を立てる祖母を起こさないよう、足音を忍ばせてそっと外へ出る。
日が沈む前に、山奥の水の取水口に枯れ葉や枝が詰まっていないか確認しに行くためだ。これを怠ると、突然水が止まってしまう。
ついでに沢の近くで夕食用のアザミやヨモギの野草を摘み、敷地周りの森に入って間伐が必要な立ち木や危険な倒木がないかを点検する。クマの爪痕や糞がないかも慎重に見て回る。
手には、ネットで購入した金属製の『金剛杖』を握りしめている。お遍路さんが使う木製の六角杖と同じ形をしているが、金属製でズッシリと重く、極めて頑丈で実は『鍛錬棒』というらしい。森を歩く時に地面を突いてコンコンと音を立て、熊除けと護身用を兼ねて愛用している。
ゴツン、ゴツンと杖の音を響かせながら、俺はこれからの生活に思いを馳せる。
(日銭を稼ぐ手段としては、麓の高齢化した集落で農作業の手伝いや便利屋まがいの仕事を請け負えば、当面の生活費は何とかなるはずだ。冬場になって外仕事が減ったら、家にこもって樹脂加工をやろう)
前職の仕事で知り合った樹脂業者から、「廃棄するのにも金がかかるから」と譲り受けた樹脂の端材を今回持って帰ってきた。ネットで購入した中古の樹脂溶接機もある。これまでも練習がてら作った樹脂製の棚や小物入れやコレクションケースをネットオークションに出品し、いくつか売れた実績があった。これらをコツコツ作って販売すれば、十分な副収入になるはずだ。
◇◆
夕方、家に戻ると、すでに起きていた祖母が縁側で洗濯物を取り込んでいた。
「水場の確認かね?」
「うん。ついでに森も見てきたよ。すぐ近くに二本ほど間引かないかん木があるね。あんな感じの生え方なら台風の後でも大丈夫そうだから、秋口に切るわ」
「ご苦労さん。そうかねぇ。わしはもう何年も森に入っとらんでねぇ……。それにしても義春、こんな季節に森に入ってダニに喰われんかったかね?」
「大丈夫。このメッシュパンツ、優れものだでね。涼しいし動きやすい。ばあちゃんにも一着買おうか?」
「ほんとう? いっぺん義春のを借りて調子が良かったら、自分で買うがね。それもインターネットで買ったんかね?」
「そうだよ」
「そうかね。本当にインターネットは便利だねぇ。天野さんは何でも売っとらせるなぁ」
「ははは! ばあちゃん、そのサイトは『天野』じゃないでね『ア◯ゾン』だでね」
そう言うと俺は、山で取れた野草を婆ちゃんに手渡した。
夕闇が静かに山を包み込んでいく中、最上田家の穏やかな一日は、こうしてゆっくりと暮れていった。




