第62話閑話 崩壊の足音③〜その先にあるもの
豪邸の売却手続きを終え、誰もいなくなった静まり返る事務所へとトボトボと足を進める。
その頃、遠方の加工業者でなんとか仕事を繋ぎ止めていた取引先は皆、近隣で「樹脂と金属を一括で請け負える会社」を必死で探していた。そして、退職したおやっさんが立ち上げた小さな加工会社へと辿り着いていた。
『おやっさん! 退職した社員さんを全員引き取ったって本当ですか!?』
『ははは、まあね。路頭に迷わせるわけにはいかんからね』
『これで最上田さんが入ってくれれば、まさに鬼に金棒ですね!』
『義春が入ってくれりゃあ、ありがたいが、あいつの人生はあいつのものだでね。あいつの腕ならどこでも通用するよ。……まあ、怪我の功名で見付かった、センスのある若い奴らをひとまず俺が仕込んで原石を磨くわ。「人は宝」原石を輝かせるのが会社の使命だからね』
『先代社長の言葉ですね……。今回の件で、あの若社長も目が覚めてくれればいいんですがね。今頃うちの社長が、最後の手を差し伸べている頃です』
『そうかね……。あなた方も、若社長に立ち直ってほしいんですか?』
『まあ、今回の欠陥品には心底頭に来てますけどね。それでも先代には大きな恩がありますから。……今回の件で破産にならなかったのは、奇跡でもなんでもなく、先代が遺してくれた「人との縁」ですよ。結局は「人は宝」ですかね』
◇◆
夕闇が迫る無人の社長室。
一本の電話も鳴らない固定電話機を前に、俺は一人、静まり返る空間でぽつんと座り込んでいた。
「どうして……。親父……俺は、間違っていたのか……?」
その時――。
もう何日も沈黙を守り、鳴き方を忘れたようになっていた電話機が、プルルルル!とけたたましく鳴り響いた。
俺はビクッと肩を揺らし、恐る恐る受話器を取った。
「……はい」
『ああ、会社にいたか。よかった』
その太い声を聞いた瞬間、全身の血の気が引いた。今回の件で最も多大な迷惑をかけた、大手取引先の社長の声だったからだ。
「し、社長……! 今回の件、本当に……本当に申し訳ありませんでした! 会社のことも、経営のことも、人のことも……俺は何も分かっていませんでした……っ!」
ボロボロと涙が溢れ、受話器を握りしめながら頭をすり寄せるように謝罪する俺に、電話の向こうの社長はフッと息を漏らした。
『……ほぅ。一番最初に言い訳ではなく、謝罪の言葉が出るようになったか』
俺が現状の会社の惨状と、社員が全員去ったことを正直に打ち明けると、取引先の社長は静かに言った。
『あー……それなんだがね。ひとつ、他社に振り忘れていた仕事があってね。今更新たな業者に頼むのも手間だから、君のところでやれそうならやってもらえないだろうか』
「えっ……? で、ですが……うちにはもう、社員が一人もいません……」
『だが、会社も機械も残っているんだろう? ……君が会社を売って家を残していたなら、この仕事は頼まなかった。だが君は、家を売って会社を残したんだろう? それなら、やってみる価値はあるんじゃないのかね』
取り引き先の社長が、ウチの詳細な内情を知っている事にも驚いたが、それ以上に提示された仕事内容を聞いて、俺は絶句した。昔、俺が大学を卒業して会社に入ったばかりの頃、親父に頭を小突かれながら必死で覚えた、基礎的な機械加工の仕事だった。これなら……俺一人と、いやあともう一人いればなんとかこなせる。
だが、今の俺にはその「あと一人」すら存在しないのだ。
「……申し訳ありません、社長。俺にはもう、支えてくれる人が誰もいません。その仕事の話は――」
『本当にそうかな? 何日か待つから、もういっぺんよく考えてごらんなさい』
そう言い残し、取引先社長は自分の携帯電話の番号を告げて電話を切った。
受話器を握りしめたまま、夕闇の事務所で立ち尽くす俺。
その時、事務所のドアがガラリと開き、ヒールを鳴らす足音が響いた。
「あら? 電話?」
振り向くと、そこには妻が立っていた。社長になってプレゼントした高級ブランドのバッグは今回のことで、総て売ってしまい。一つだけ残したブランドのバッグを固く抱え、どこか吹っ切れたような顔をしている。
(かなり昔に結婚記念日に贈ったやつか、なんであんな型の古いバッグ大事にするんだか……)
「……取引先の社長さんからの電話だ。こんなうちに、もう一度仕事を頼みたいと言ってくれたんだが……あと一人、手伝いがいないとどうにもならなくてな」
仕事内容が自分にもできる基礎的な加工であること、そしてそれが取引先社長の温情であることを打ち明けると、妻はあきれたように溜め息をつき、俺の背中をバシィン!と力いっぱい叩いた。
「痛っ……!? 何をするんだ!」
「何をメソメソ考え込んでるのよ! 受けなさいよ、その仕事!」
「だが……あの仕事は最低二人いないと継続して受注できないんだ! 安請け合いをして、これ以上ご迷惑をかけるわけにはいかない!」
「だから、私が手伝うって言ってるのよ! なーんだ、ずっと続けてたパートのシフトを増やしてもらうかと思って出掛ける準備をしていたのに。夫の手伝いのほうが気楽でいいわよ」
「お前……」
「家が売れれば少しはお金が残るでしょ? この事務所を含め社屋二階の更衣室と休憩室を潰して、自宅に改装しましょうよ。一階に小さな事務所を作って、二人で一から出直せばいいじゃない。今のパート先は気に入ってたけど、家から遠かったのよね。ここなら自宅から徒歩30秒、最高の環境じゃない」
「すまないな。苦労をかけて」
俺の言葉に妻は悪戯っぽく笑った。
「『しがない町工場の倅の俺だが、一生懸命働いてお前を幸せにするから結婚してくれ』……あなたがプロポーズで言った言葉よ? 今の状況に何の不満もないわ。そんなことより、早く社長さんに電話しなさいよ! グズグズしてたら他の会社に取られちゃうわよ!」
「……っ、ははは! そうだな!」
俺は目元を拭い、急いで取引先社長の携帯へ電話をかけた。
仕事を受けたいこと、そして妻が現場を手伝ってくれることを伝えると、電話の向こうで社長が感心したように声をあげた。
『……ハハハ!やっぱり先代の言った通りだな。「息子は人を見る目はからっきしだが、嫁さんだけはピカイチのを連れてきた」と自慢していたよ』
「え……? 親父が……ですか?」
『ああ。数十年の付き合いでね。私がまだ新入社員だった頃、先代には随分叱られたが、自分のところの社員のように育てられたんだよ。……数年前、先代が会社に来た時に私に頭を下げてね。「息子は頑固で、いつか痛い目に遭うかもしれない。自分が死んでいたら、厳しく叱って、最後の手を差し伸べてやってくれ」と頼まれていたんだ』
胸の奥が、熱いもので溢れかえった。
『先代は「人は宝」とよく言っていたがね。……息子である君は、それ以上の「宝」だったということだよ』
白亜の豪邸を建てた時、俺は人生の絶頂にいると思い込んでいた。
だが、全てを失ったこの小さな工場で、親父の遺してくれた本当の愛を知った今。――俺は、人生で一番の幸せを知った。
「えぇ。「人は宝」でした」




