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放浪記〜家族水入らずで異世界転移〜  作者: 高梨京司
第三章 異世界キャンプ

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第57話 最上田義春

 油と金属の混ざり合った匂いが、放課後の体育館のように熱気と湿気をはらんで工場内に立ち込めている。


 使い古されたフライス盤の駆動音と、ツナギを着た男たちの荒い息遣い。

 最上田(もがみだ) 義春(よしはる)二十八歳は、ノギスで削り出した部品の寸法を測りながら、小さく息を吐き出した。


 地方の町工場に勤めて今年で十年。高卒で入社してから、さして特徴も特技もないまま愚直に鉄を削り続けてきた。

 中学校や高校の同級生の多くが大都市圏へと出て行く中で、地元に残る数少ない同世代の一人が義春だった。実家の跡継ぎや家業の継承者、農家の子供……地元に残る者にはそれぞれそれなりの理由があった。そして勿論、義春にも「どうしてもこの町を離れられない理由」があった。


「……よし、寸法はピッタリだな」


 指先の油をウエスで拭いながら呟く。

小さな町工場での仕事は労働時間が長く、いわゆる『きつい・汚い・危険』の3K職場だった。だが、先代の社長は職人気質だが気さくな人柄で、非常に面倒見が良かった。多忙で厳しい業績の中でも時間を作っては社員を飲みに連れて行ってくれたり、年に一度の慰安旅行を社員全員が楽しみにしていたものだ。


 そんな忙しくも穏やかな生活に陰りが差し始めたのは、三年前。先代社長が突然の心臓発作で急逝してからだった。

 会社の跡継ぎは先代の長男で、すでに実質的な経営を任されていたため、引き継ぎ自体は何の問題もなく行われた。当初は先代を偲びつつも、変わらぬ職場に誰もが安堵していたのだが――。


「おい義春、社長からまた『休日はゴルフで立ち会えないから出勤は控えるように』って通達が出たぞ」


 隣のラインで作業していたベテランの職人が、苦笑いを浮かべながら煙草の箱を弄っていた。


「こんなに仕事が押してるのに、出勤控えろって言われても困りますよね……」


「だろ? 『休日に仕事をさせて悪いな』なんて口では言うが、自分は『ゴルフも仕事のうちだから』って一度も工場に顔を出しやがらねぇ。先代は休日に俺たちが出たら、必ず定食屋で昼飯奢ってくれたもんだがな」


 新社長は最初のうちこそ休日出勤の昼食代を出していたが、いつの間にかその慣習も立ち消えになっていた。

元々先代の好意だったのだからと不満を口にする者はいなかったが、空気の変化は確実に始まっていた。


 先代が亡くなって一年が過ぎた頃。取引先からも普通に「社長」と呼ばれるようになった現社長から社員全員に話がされた。


「今季は非常に忙しく、今後の会社にとって大事な時期だ。申し訳ないが今年の慰安旅行は延期としたい。もちろん、積立金は全額返金する」


 積立金が戻るならと皆納得したが、この頃から社内では些細なことで争う声や怒号、溜め息が頻繁に聞かれるようになった。

 それでも義春は、「給料と残業代はちゃんと払われているし」と深刻には考えていなかった。

 ――異変が決定的となったのは、昨年の冬だった。


「現在、主力製品のコストダウン要請と材料費の高騰が続いており、業績が悪化している。申し訳ないが、冬の賞与は最低限しか支払えない」


 社員食堂に集まった男たちが、互いに首を捻り合わせた。


「おかしいな……現場は例年以上に忙しいぞ? 取引先の担当者からも値上げを突っぱねてきたなんて話は聞かないが……」


 社員の囁き声に対し、社長は「業績が回復すれば、決算賞与で必ず還元する!」と力強く宣言した。

その言葉を信じ、皆が現場で汗を流した。

 しかし春になり、返ってきた言葉は「業績不振のため決算賞与は見送る」という冷淡な一言だった。

 この頃になると、社員の誰もが現社長に強い猜疑心を抱いていた。


 そして六月頭。創業当時から会社を支えてきたベテラン作業員が、月末で退職すると言い出した。社長が雇用延長しなかったのかと熱(いき)り立つ中堅作業員だったが、再雇用を断ったのはベテラン作業員だった。

 六十歳を過ぎたその顔は、年齢以上に疲れ切っていた。数年前まで若々しく現場を動き回っていた人間と同じ人物には到底見えなかった。

そのベテラン作業員がポツリポツリと真相を語り始めたのだ。


「……なあ義春、お前、最近プレハブの旧工場を見たか?」


「え? 先代の社長の自宅がある場所ですか?先代に呼ばれて何回かは泊まりましたけど、先代が亡くなってからは近くも通ってないですけど……」


「俺もそうだったんだが、先月の休みにたまたま近くを通りかかったんだよ。なんか懐かしくてな…少し遠回をりして工場の前まで車を回したんだ。そしたら……プレハブ工場も社長の古い木造の自宅も全部壊されててな。跡地には白亜の大豪邸が建ってたんだよ」


「えっ……豪邸……?」


「豪邸じゃない、大豪邸だ。それだけじゃねぇ。屋根付きのガレージに、高級SUVと高級ワンボックス、外車の高級セダンが横並びだ。……そしてその前に、社長が「経費削減」とか言って通勤に使っている、使い古しの社用のワゴン車が横付けされてたんだよ……」


 ベテラン作業員は悔しそうに拳を握りしめた。


「『金がない』『業績が悪い』と言って俺たちの給料や賞与をしぶっておきながら、あの坊っちゃんは会社の金で豪邸を建てて高級車を買い漁ってたんだよ!俺にはボロボロの社用車が盗難よけのコンクリートブロックに見えたぜ。何が「先行きが苦しい中、雇用延長してもらえるだけありがたく思えだ」こんなふざけた会社に、もう付き合っていられるか!」


 それを皮切りに、各々が長年溜め込んできた不満が一気に爆発した。

狭い地方都市だ。元々地元の人間が多いため、社長の噂など早い段階で耳に届いていたのだ。


「土日のゴルフ三昧どころか、平日の昼間からゴルフの打ちっぱなしに行ってるらしいぞ」


「5月の連休後の出張、あれだって、家族旅行で沖縄に行ってたんだってよ」


「自分が年金をもらえる年齢になったら、会社をM&Aで売り払う算段を信用金庫の人間を呼んでしてるらしい」


 次々と溢れ出る耳を疑うような情報に、義春は愕然とした。

 それ以来、皆が表面上は淡々と仕事をこなしつつも、工場の歯車は完全に狂い始めた。今までなかったような寸法不良が出始め、納期の遅延が頻発し、些細な不注意による怪我や事故が相次いだ。社長の怒号も日常茶飯事となった。


(……この会社は、もう長くは持たないな)


 義春もそう悟っていた。それでも彼には、この町で働き続けなければならない強い理由があった。だからこそ不満や危機感に蓋をし、耐え続けていたのだ。

 ――だが、決裂の時は突然やってきた。

 ある日の夕方、社長が珍しく義春の作業場へやってきて、威圧的に言い放った。


「最上田。お前今週末の土日、休日出勤をしろ。納期が遅れてて取引先からせっ突かれてるんだ」


 会社命令として、休日出勤を言い渡されたのは初めてだった。ベテランの作業員が退職して、他の人間も残業や休日出勤を渋るようになった。元々が休日出勤や残業をあてにしての経営計画だったため、いよいよ首が回らなくなったのだろう。


「……すみません、社長。今週末は、どうしても外せない用事がありまして……出勤できません」


 これまで一度も命令を断ったことのなかった義春の拒絶に、社長の顔が歪んだ。


「はあ!? お前みたいな高卒のパッとしない社員が、何を偉そうに会社に立てついてるんだ! この会社を辞めたら、お前みたいな奴なんて、行く宛もなく路頭に迷う事になるんだぞ! 馬鹿は馬鹿なりに大人しく俺の言うことを聞いてりゃいいんだよ!」


 あまりの暴言と唾を飛ばす姿に、義春は言葉を失った。

 だが、社長の怒りを買ってでも、その日だけは休まなければならない理由が義春にはあった。それこそが、この町で愚直に働き続けてきた「たった一つの理由」だったからだ。

 数カ月後、より一層殺伐とした朝礼の空気の中で、更に冷ややかに社長から告知がなされた。


「業績悪化につき、夏の賞与の支給予定はな(・)い(・)」


(……まあ、今回の『業績悪化』だけは本当のことだろうな)


 荒れ果てた現場の空気を感じながら、義春は胸のポケットから一通の紙を取り出した。

 あらかじめ準備していた退職届を、彼は静かに社長のデスクへと置いたのだった。

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