第58話 最上田義春の帰郷
古いがよく整備された軽四駆のオフロード車が、唸りを上げて山道を登っていく。
地方都市の市街地を抜けてから一時間。片側一車線だった県道は、すっかり対面通行すら怪しいほど道幅が狭まり、両脇から迫る茂みが車体をかすめていた。
若者の車離れが言われて久しいが、義春の住むこの地域の田舎では、車のない生活など考えられない。特に頻繁に山へ向かう義春にとって、軽四駆でありながら世界トップクラスの悪路走破性を持つこの愛車は、命の次に大切な相棒だった。
リアシートを倒した狭い車内には、義春の引っ越しの荷物がぎっしりと詰め込まれている。
軽自動車に積むにはやや多い量だが、十年間一人暮らしをした男の荷物としては異例の少なさだろう。元々義春には物欲がなく、愛車以外にこだわるものといえばスマートフォンくらいのものだった。
その大切なスマホは、助手席のシートの上で今朝からずっと途切れなく震え続けている。あまりにうるさいのでマナーモードにしてあるが、画面が明滅するたびにバッテリーの消耗が気になった。本当は電源を切りたいところだが、大切な連絡が入るかもしれないと思うと切るに切れない。
指定の電話番号の通知音だけが音がするように設定するのが精々だった。
「……しつこいなぁ、本当に」
平日の早朝から切れ目なく電話をかけてくる非常識な人間など、義春には一人しか思い当たらなかった。十年間勤めた会社の現社長だ。
着信拒否にしたところで同僚のスマホや、よく分からない番号で電話をしてくることは目に見えているので、そのまま放置してある。
『特技も特徴もないお前のかわりなんて、どこにでもいるんだよ!』
十年間真面目に勤め上げた人間の退職届をゴミを扱うように投げ捨てた男が、今更何の用で電話をしてくるのか、義春には一向に理解できなかった。
おそらく、ベテラン作業員が辞め、自分まで辞めたことで製品の品質と、現場の納期管理が完全に破綻したのだろう。そんなことは疾うの昔に分かっていたことで、自業自得としか言いようがなかった。
「このスマホも大分くたびれてきたし……キャリア変更でもしてスマホを安く変えるついでに、電話番号も新しく変えようかな」
ハンドルを握り直し、ひとりごちる。人付き合いが極端に希薄な義春にとって、番号変更を知らせる相手など数人の知人と関係者くらいだ。几帳面な性格の義春は、ネットや各種手続きの登録情報をすべてファイルに整理してあるため、電話番号の切り替えにも、さして手間はかからない。
『綺麗で丁寧な仕事をしろ。それが一番手っ取り早くて、楽なんだよ。……まあ、儲かるかどうかは俺にもわからんがな! ガハハハ!』
不意に、尊敬してやまなかった先代社長の豪快な笑顔と声が脳裏をよぎり、胸の奥が少し痛んだ。
県道から脇道へ逸れた途端、路面はさらに狭く険しくなった。それでも道路はアスファルトで舗装されている。日本の過剰な道路網に感謝しながら更に進むと、新たな分岐が現れる。
その分岐を更に寂れた方へと登って行く。ここからは舗装すらされていないジャリ道だ。義春は慎重にハンドルを切り、スピードを調整する。それでも知らない人間が見れば、かなりの速度に見えるだろう。
この道は、義春の祖父や曽祖父が切り開いた私道だ。かつては徒歩で二時間かけて登った通い慣れた道でもあった。
「……ホント、車で行けるようになって便利になったもんだな」
世間一般の感覚からすれば大きくズレている自覚はあるが、幼い頃に歩いた記憶がある義春には、どうしてもそう思わずにはいられなかった。頭上を覆う鬱蒼とした木々が日差しを遮り、苔むして湿った路面で時折タイヤが空転する。
薄暗い緑のトンネルのような山道をさらに進むと、前方が突然パッと開けた。
速度を落とし、砕石が敷き詰められた敷地へ車を進めると、見慣れた一台の軽トラックが停まっているのが目に入った。その奥に、大きな屋根が特徴的な古い日本家屋が佇んでいる。
かつての茅葺き屋根にガルバリウム鋼板をかぶせた、いわゆる「カバー工法」の被せ屋根だ。
軽トラの停まっている位置を見て、義春はホッと胸を撫で下ろした。玄関前の駐車スペースを空けるため、あえて少し離れた場所に停めてくれたのだろう。
建物の目の前に車を停めた義春は、エンジンを切り、ガラガラと木の引き戸を開けて家の中へ入っていった。この家にインターホンなどという気の利いたものが付いていないことを知っているからだ。
「婆ちゃん! ただいまぁ! どこにおるのぉ!?」
大声をあげながら、土間でスニーカーを脱ぎ、式台に足をかける。夏の盛りだというのに、ひんやりとした土間の空気は長時間の運転で蒸れた足に心地よかった。
式台から上がり、広縁の板の間を横切って襖に手をかける。
「婆ちゃん! ただいま! どこにおるの?」
襖を開けた先の囲炉裏部屋には、人の気配がなかった。首をかしげ、もう一度声を張ろうとした瞬間、奥の部屋からかすかな声が届いた。
「……義春か。こっちじゃ、こっち」
声の聞こえた奥の和室へ向かい、襖を滑らせる。薄暗かった室内へ、眩しい夏の太陽光が差し込んできた。
南向きの縁側に面したその部屋で、高座椅子にちょこんと腰掛けた小さな背中があった。
義春の祖母――最上田くに(79歳)だ。
茅葺き屋根をガルバニウム鋼板で覆った。日本家屋は断熱性が高い。とはいえ、日当たりの良いこの部屋は夏の熱気がこもりやすい。そのため数年前、義春自身が手配をしてこの部屋と祖母の寝室にエアコンを設置したのだが――今は窓が大きく開け放たれ、アルミサッシの網戸越しに外の熱風が入ってきていた。
「婆ちゃん! 熱中症になるとダメだで、クーラーかけないかんて、いっつも言っとるでしょう!」
義春は慌てて部屋に入り、ガラス窓を閉めてリモコンを探そうとした。すると、くには細い目を目尻にシワを寄せて笑った。
「あぁ……わかっとるよ。昨日の夜は寝室でクーラーかけて寝とったんだけどねぇ。朝、目が覚めたら寒くてかなわんで、この部屋であったまっとったんだわ」
「あったまってたって……! 熱中症になってたらどうするの! ちょっと待っとって、すぐ経口補水液持ってきてあげるでね!」
「大丈夫だで、慌てんときゃあ。お茶も水も、いっぱい飲んどるでねぇ」
そう言って湯呑みを指さす祖母の細い手首を見て、義春は胸がギュッと締め付けられるような感覚に襲われた。
骨と皮ばかりになったその手。
――老衰。
つい先週、市内の総合病院で医師から告げられた厳しい現実が、義春の脳裏に蘇る。
外で鳴り響くツクツクボウシの蝉時雨が、やけに遠く、儚く聞こえた。




