第47話『英雄召喚』と『漂流者』
叩きつけるような長雨が、辺境伯領、領都ハイデルベルグの夜を深く塗り潰していた。
三日目となる雨音は重く、執務室のアーチ窓を幾重にも伝い落ちる水滴が、燭台と魔導ランプの橙色の光を妖しく歪ませている。黒檀の重厚な机に向かい、ケイン・エレ・ハイデルは羽ペンを走らせ、もたらされた重要情報を書き留めていたが、その手を止め、小さく息を吐き出した。
部屋の隅では聖火教の巡検使であるヒーラ・シモンズが、静かにその様子を見つめていた。
濡れた衣服を拭くためにケイン自ら手渡したパイル地の平織りの布は役割りを果たし、綺麗に畳まれ、部屋の片隅に配されたクレデンザの上に置かれている。
服の裾は締め切られた室内であるにも関わらず、微かにはためいていた。
彼女は穏やかな笑みを浮かべており、そのことがケインの疲れ果てた心を大いに慰撫した。
ほんの半時前。ヒーラから語られた一報――『英雄召喚』成功の報に、ケインの胸の奥で激しい動揺の波が跳ねた。
「昨年よりシャーナ王国では『英雄召喚』の気配があり、教会は警戒と監視を強めておりました。七日前にシャーナ王国で儀式の発動を確認。主教様をはじめ神官四名にて、そちらの召喚阻止には成功いたしました。ですが時をほぼ同じくして、ロゼーヌ王国でも『英雄召喚』が行われたようなのです」
世界を揺るがしかねない衝撃的な事実を、ヒーラは氷のように冷静な声で伝える。その静寂さに引きずられるように、ケインもまた溢れ出そうになる動揺を抑え込み、じっとヒーラを見つめた。
「……タイミングが良過ぎるね。狙っていたと考えるべきか」
「はい。おそらくは。シャーナ王国の『英雄召喚』の儀式を察知したのは、我々『聖火教』とケイン様だけではなく、ロゼーヌ王国もだったのでしょう。政情が不安定なシャーナ王国とは違い、衰退したとはいえロゼーヌは白竜大陸の北の大国。我々に気付かれることなく『英雄召喚』の儀式の準備を整えることもできるはずです」
「なるほどね。儀式のタイミングを測ることも出来ずに暴発するシャーナ王国を隠れ蓑に利用したのか。……してやられたね」
ケインは苦々しく吐き捨て、肘掛けに置いた手に力を込めた。ヒーラは淡々と、しかし深刻な眼差しで言葉を重ねる。
「はい。その上、シャーナ王国の儀式で異世界との門は一度開いておりました、そこに重ねるようにロゼーヌの術式が発動いたしましたので結果として、かなり大規模な門ができたようです」
「……大規模。どれ位?」
「おそらく転移者は――6人」
「6人!」
思わず声が上ずった。
「伝承に残る最多人数は一度に3人だ。その倍とは……とんでもないことになったね」
「はい。白竜大陸どころか、全世界の勢力図が塗り替わる可能性すらもございます」
ケインは椅子の背もたれに深く体を預け、こめかみを指で押さえた。思考を巡らせるにつれ、いくつもの不自然な点が浮上してくる。
「それと……ヒーラは『おそらくは6人』と言ったね。人数の特定が出来ていないの? 僕への報告に七日も掛かったことといい、今回の教会はかなり後手に回っているね。それだけロゼーヌ王国の隠蔽が巧妙なのかな? 教会を欺くだけの力が、まだロゼーヌ王国に残っているということか……」
「それにつきましては、人数の特定ができないことと、ご報告が遅れたことには理由がございます」
ヒーラは静かに両手を胸の前で組み、一瞬だけ痛みに耐えるように目を伏せた。
「ロゼーヌ王国の『英雄召喚』の発動に気付かれた総大主教猊下は御自らが――シャーナ王国の『英雄召喚』を阻むべく、主教様が展開した防壁の残滓を利用して――防壁の再構築をなされました」
「なっ――!?」
ケインは思わず執務机を叩くようにして、勢いよく立ち上がっていた。書類の山が揺れ、燭台の炎が大きく揺らぐ。
「そんな事が可能なのかい!? 可能だとしても、何の事前準備もなしにそんな事をすれば……総大主教猊下は――先生はご無事なのか!?」
「三日間意識を失われましたが、なんとか持ちこたえられました」
ヒーラはほっと胸を撫で下ろすような仕草を見せ、ケインは椅子に座り直した。
「総大主教猊下が展開された防壁は『英雄召喚』の発動に間に合い、ロゼーヌ王国の魔法陣に異世界人を召喚することを防ぐことが出来ました。ですが、元いた場所にその者達を返還することまでは出来ませんでした」
「座標を見失った異世界人……『漂流者』か。この世界の何処かに転移したということか」
――『漂流者』。
魔法陣の不備や術者の技量不足、あるいは天変地異の影響や外部からの術式介入によって、本来召喚されるはずだった魔法陣に到達できず、世界の歪みに弾き飛ばされた異世界人を指す言葉だ。彼らは座標の補正を受けぬまま、ランダムな場所に放り出されることになる。
「その異世界人の漂流先を特定するのに時間が掛かり、ご報告が遅れました。『この件は総て老骨が至らぬ故、お詫び申し上げる』との、総大主教猊下のお言葉です」
「いや……シャーナ王国の暴発を防ぎ、ロゼーヌ王国への英雄出現を阻止されたのだから、先生が謝ることは何もないよ。野望高い両国の手に英雄が落ちていれば、下手をすれば世界は『英雄戦争』の頃に逆戻りだ。典礼司として、帝国貴族として最悪の事態を回避して頂いたこと、感謝申し上げる。……それで、『漂流者』はどの辺りに流されたのかな?」
「それが……エルタニア大霊山の裾野、おそらくはエルタニア高原だそうです」
「なんだって……」
ケインは絶句した。絶望的な地名に、胸が締め付けられる。
「それはロゼーヌからは遥か遠くに……それも、とてつもない辺境に飛ばされたものだね。さすがにロゼーヌ王国も海を渡り、大陸を横断してまで手出しはできないだろう。我がアイナヤーゴ帝国の母なる山、エルタニア大霊山にはね。……だが、あちらの世界から突然、無人の魔境に飛ばされたとなれば、もう生きてはいないだろうね……」
重苦しい沈黙が部屋を満たす。ケインの拳にぎゅっと力がこもった。
「可哀想な事をしたが、そのままロゼーヌ王国に召喚されていれば、精神を支配されて人間兵器として使い潰されるだけだ。それよりはマシな死が、その方たちに訪れていることを祈るしかないのか……。どうしてこの世界のアホな為政者は『英雄』頼みなんだ! 金と時間と神官と……終いには生贄まで捧げるど阿呆まで居る! そんなことに人命を賭けるなら、他に努力をすればいいものを! 巻き込まれる異界人の身にもなって欲しいな!!」
怒りを爆発させ、吐き捨てるように言い捨てるケイン。
しかしふと視線を上げると、ヒーラがまるで全てを見透かしているかのような、どこか穏やかで慈愛に満ちた眼差しで自分を見つめていることに気づいた。
「っ……ゴホン!」
ハッと正気に戻ったケインは慌てて咳払いをし、乱れてもいない襟元を整えながら着席した。
「……失礼。先ずは被害に遭われた哀れな同郷の者たちの冥福を祈ろう。祈祷の準備をしなければならないな」
「お待ち下さい。その事なのですが」
ヒーラはすっと目を細め、静かなトーンで言った。
「5人の生存が確認出来ました。もう1人は衰弱が激しく、長くは無さそうですが……」
「え……? あんな人外魔境で、生きのびていると?」
「はい。ケイン様もおっしゃられる通り、ほぼ人跡未踏の辺境のため、直接人を派遣することもできず……エルタニア大霊山に近い街から、精霊の加護付きの方に確認をお願いしたため、生存確認に時間がかかってしまいました」
「どれ位?」
「飛ばされた地域の特定に二日。精霊に生死の確認をしてもらうのに三日です」
「なるほど、僕への報告が七日もかかるわけだ。だが……それにしても異世界に転移してから五日だよ? あちらの世界から来た人間は、全員レベル1からのスタートのはずだ。魔境と呼ばれるエルタニアの地で生き残るなんて不可能だろう。それが……どうして……まさか!? 『救済措置』か」
「おそらくは」
「おとぎ話の中のだけの話だと思っていたけし、破格のスキルを得ることもあると聞くけど、……それよりも」
ケインの呟きに、ヒーラは深く静かに頷いた。
「ええ。スキルの凄さなど、些細なことです。この状況は間違いなく、見ておられるのでしょう……――【神】が」
二人は互いに視線を交わし、それ以上を言葉にしなかった。窓を打つ雨音だけが、室内を満たしていた。
その後は重大な報告を終えたヒーラに、雨に濡れて身体が冷えただろうと、ケインは自ら湯を沸かし、温かい紅茶を淹れ、焼き菓子を振る舞った。
多忙を極めるケインの立場を慮り、すぐに辞去しようとしていたヒーラだったが、幼馴染であるケインの「ナッツとドライフルーツのクッキーがあるよ」という一言に、ついに折れて首を縦に振ったのだった。
雨に濡れた服もすっかり乾き、彼女は応接スペースのソファにゆったりと身体を預けながら、束の間の穏やかな時間の中で互いの近況を語り合った。
(ヒーラは相変わらずのお菓子好きだね)
心の手帳に、そのことをそっと書き留めながら、ケインは扉の前で衛士に先導され静かに退室するヒーラを見送った。
静寂を常とする執務室に一人残り、ついぞ感じたことのない孤独感に苛まれる、ケイン。
(俺にもまだ人間らしい感情が残っていたということか)
ケインは一人ほくそ笑み、執務に戻った。




