第43話 微睡みと目覚め、新たな試み
夢を見ていた。
柔らかい光が差し込む和室で、幼い優翔が小さな手で赤ん坊の頬をつついている。
「みーちゃん、みーちゃん」
と繰り返す声。
赤ん坊――瑞葉を抱っこしている沙織が「優翔、優しくね」と目を細める。
その周りでは俺と沙織、お互いの両親が孫の可愛さに目を細めながら、誰かの言った冗談に楽しそうに声をあげて笑っている。
温かくて、何の不安もなく、世界で一番幸せだった時間。
――プシュー。
無骨な機械音が、心地よい微睡みを引き裂いた。
我が家の(レンタルだが)ワンボックスカーの電動スライドドアが開く音だ。
バッテリー節約のため電動機能はオフにしてあるが、噛み合わせの最後の部分だけはアシスト機構が円滑に作動する。
草と砂利を踏みしめるかすかな足音が近付いてくる。足音は俺の背後、少しの距離をあけて立ち止まった。
振り返らずともわかる。何十年と聞き続けてきた妻、沙織の足音だ。
「……おはよう」
背を向けたまま声をかけると、わずかな沈黙のあと、今一歩踏み込んで、ため息混じりの声が降ってきた。
「はぁ〜……おはよう。こんなことだろうと思ったわ。風邪引くわよ」
あきれと、諦めと、心配と、そして確かな感謝。それらが複雑に交ざり合った視線が、背中に刺さるを感じた。
俺は竈の前に設置した折りたたみチェア2つとベンチを上手く組み合わせ、その上で横になっていた。
車内で寝るよう沙織には言われていたのだが、結局は外で周辺の警戒をしながら考え事をしているうちに、うたた寝をして朝を迎えてしまったのだ。
気まずさを誤魔化すように、俺は勢いよく起き上がり早口で言い訳を並べ始める。
「いや、炭が思いのほか温かくてさ。それに見てくれよ、このブランケット。レンタル品だけど、旧世代のキャンプ用品とは比べ物にならない進化をしてるんだ。風を通さない上に自発熱するんだ。その上暑い時は涼しくなるらしい。本当に凄いぞ。あと蚊取り線香も焚いてたし……それにほら、昨日レベルが上がったおかげか、体がすごく軽くて丈夫になった気がするんだ。たまにアウトドアで寝るのもリフレッシュになって――」
言えば言うほど墓穴を掘っている気がして、俺は強引に話題を切り替えた。
「そ、それより沙織、君はよく眠れたのか? 優翔は……歯ぎしりをしてなかったか? 瑞葉は悪夢を見なかったか?」
強引すぎる話題転換に、沙織はもう一度小さくため息をついたが、その表情は柔らかかった。
「……大丈夫よ。二人とも、驚くほど静かに眠っていたわ」
優翔は昔から弱音を吐かない子だったが、ストレスが限界に達すると酷い歯ぎしりをした。高校受験の時期など恐ろしいほどの音がしていて、慌てて歯医者でマウスピースを作らせたほどだ。
瑞葉もまた、年頃になって悩みやストレスを表に出さなくなった分、それが『悪夢』となって現れるのだと沙織から聞いたことがある。
過酷な異世界転移の初日を終え、心身ともに限界のはずの二人が穏やかに眠れていたという報告は、俺にとって意外だった。
それほどに疲れ果てて熟睡したのかと考えていると。
「二人にとってはね」
沙織が車の方を振り返りながら、静かに語りかけてきた。
「この異世界の状況そのものより……今まで私たちが忙しさに感けて、自分たちを正面から見てくれていなかったことや、親である私たちが仕事や生活に疲れ切っていたことの方が、ずっとストレスだったのかもしれないわね」
その言葉に胸の奥がチクリと痛む。
仕事に追われ、生活に追われ、家族という形を維持しながらも、どこかすれ違っていた日々。俺は改めて、反省の思いを強く噛みしめた。
「……そうだな。家族全員で生き残るには、家族みんな、正面から向き合うことが必要だな。だが……一体何から始めればいいんだろうか」
「そうね。まずは……」
「先ずは?」
「美味しいご飯の準備をしましょう」
沙織の言葉に、俺は思わず吹き出してしまった。
「……ふふっ」
「……はは、そうだな。飯にしよう」
二人で顔を見合わせ、静かに笑い合った。長年連れ添った夫婦ならではの、言葉のいらない空気がそこにあった。
何気なく視線を周囲に向けた俺は、その光景に息をのんだ。沙織も辺りの情景に息を呑んでいる。
地球のそれとはどこか違う、青みがかった透明すぎる朝靄が、どこまでも広がる高原を包んでいる。
地平線の向こうから差し込む光は、空を紫紺から透き通った琥珀色へと染め上げていた。見たこともない奇怪だが美しい植物の葉からは朝露が滑り落ち、キラリと光を弾く。
異様なまでの美しさを感じると同時に、ここが自分たちの知る世界ではないという圧倒的な現実が突きつけられる。
不安が静かに頭をもたげようとするが、美しい世界の中で立ち昇る炭火の小さな煙と、目の前にいる沙織の微笑みだけ、子供たちが眠るこのキャンプサイトだけが、俺にとって確固たる現実だった。
今日の予定や大切な話は、子供たちが揃ってから話すべきだ。だからこそ、二人で朝食の準備を進める間、口から突いて出るのは懐かしい昔話や、他愛もない世間話ばかりだった。不思議と、元の世界にいた頃よりも会話が弾む。
俺は火吹き棒で炭火を仰ぎ、火力を上げながら新しい炭を追加する。
沙織は手際よく卵を割り、スキレットでふんわりとしたオムレツを作っていく。ジュウという快い音と、バターの香ばしい匂いが漂う。
昨日の残りのレタスとサラダを器に盛り付け、クーラーボックスに残っていた豚肉の切り身を炭火の網の上に並べた。じわじわと脂が落ち、煙とともに芳しい香りが立ち上る。
網の端には、少し固くなりかけたロールパンを置き、遠火で温める。
「おはよう……」
香ばしい匂いに引き寄せられるように、ワンボックスカーのドアが開き、優翔が降りてきた。いつも通りの低い声だが、目覚めは悪くないようだ。
「……はよぅ。ふぁ〜あ……」
そのすぐ後ろから、目をこすりながら兄の服の裾を掴むようにして瑞葉が続いて出てくる。寝起き感満載の無防備な姿だ。
少し前から優翔は目を覚まし、瑞葉を起こしたものの、一向に目覚めない瑞葉を置いてコチラに来ようとして、勘の冴える妹に捕まって、目が覚めるのを待っていただろう情景が思い浮かぶ。
沙織と子供たちの朝の会話が終わった頃合いを見計らって俺は声をかける。
「瑞葉、起き抜けに申し訳ないが、今のMPの量を教えてくれるか?」
「ふぁ〜……わかったよ。う〜ん……うん、MPは満タンだよ」
「そうか、ありがとう」
(9時間の睡眠でMPが8から46まで全回復か……瑞葉の目がキチンと醒めたら、スケッチブックにメモして貰おう)
瑞葉の答えを聞きながら、俺の頭は自然と今日の行動シミュレーションへと向かっていく。スライムの分布場所、結界の位置、昨晩得た新たな情報。効率的なレベル上げをするには――。
「あなた。今日の予定を考えてるんでしょうけど、まずは朝ごはんよ。子供たちとも色々話して、しっかり食べましょう」
「……あ、ああ。そうだな」
またしても思考を見抜かれた。沙織には頭が上がらないなと思いながらも、胸の奥にこそばゆいような嬉しさが広がる。
焼き立てのパンに、香ばしく炙った豚肉とオムレツ。シャキッとしたレタス。
家族4人で車座になり、温かい朝食用スープを啜る。何年も前に失われていたはずの『家族団欒』が、そこにはあった。
昨日今日と目にするこの風景こそ、異世界転移という最悪の絶望の中で、俺たちが手に入れた数少ない、けれど何より尊い幸福なのだと思う。
食後は全員で後片付けを行った。
この世界では、食材の一かけら、水の一滴すら無駄にはできない。全員で丁寧に、皿を拭き、ゴミを分別する。
「瑞葉、そこ拭いといて」「はーい」そんなやり取りをしながら、俺はふと、子供たちがまだ幼稚園児だった頃、バスの送迎を待つ間にこうして家族で朝の片付けをしていた記憶を思い出していた。
片付けがすべて終わり、水の入ったマグカップを片手に一息ついたところで、俺たちは折りたたみチェアを寄せ合い、車座になって座った。
「さて、今日の行動について話し合おう」
俺は地面に簡単な配置図を描きながら切り出した。
「まず、優翔と瑞葉はコンビを組む。昨日俺がやったように、アルミ缶の釣り具でスライムを引き上げ、交互に攻撃を仕掛けてくれ。二人とも昨日、近くで見ていたから要領はわかると思うが……スライムに缶やワイヤーを近づけすぎると、溶かされて道具ごと消える危険がある。間合いだけは絶対に詰め過ぎるなよ」
「了解。焦らず確実に行くよ」と優翔が頷き、瑞葉も「まかせて」と拳を握る。
「昨日より討伐のペースは上がるはずだ。納得のいく結果に繋がると思う。……で、俺は沙織とコンビを組んでレベル上げだ。夜のうちに追加で作ったアルミ缶の仕掛けを使えば、沙織の安全を確保したまま安全に倒せる。ただ……」
俺は沙織を見る。
「沙織が持っている『天恵の癒やし』というスキルが、戦闘や経験値獲得にどう作用するかが唯一の懸念材料だな」
その後、夫婦と兄妹、それぞれの役割を確認し合い、雰囲気が落ち着いたところで、感覚派である瑞葉がふと首を傾げた。
「ねえ……今日はスライム討伐でレベル上げするだけで、みんなで1日過ごしちゃって大丈夫なのかな?」
鋭い問いだった。俺は深く頷き、言葉を選ぶように口を開いた。
「瑞葉の疑問はもっともだ。だが基本方針として、優翔と瑞葉は今日1日をレベル上げに費やしてほしい。そして沙織もそれは同じだ。ただ状況次第で予定を一つ追加しようと思っている。状況がはっきりしてから話そうと思っていたんだが、沙織のレベルが上がって治療系の魔法が発現し、負傷のリスクが低下して、優翔と瑞葉がレベルアップしてスライムの討伐――戦闘に慣れたと確認できたら――」
俺は一度言葉を切り、家族全員の顔を見回した。
「俺は少しだけ、この結界の外に出ようと思っている」
「……え!?」
瑞葉が立ち上がりかけ、優翔は俺をキッと見据えた。沙織の手からマグカップがカトンと音を立ててテーブルに置かれ、動きが止まる。
穏やかだった朝の空気が、一瞬にして張り詰めたものへと変貌した。




