第42話一人思考の海に沈む
カクンと大きく頭を揺らした瑞葉を見て、俺は優しく声をかけた。
「瑞葉、疲れただろう。車の中で眠りなさい」
「……ん……うん……」
「優翔、瑞葉を車まで連れていってくれる?」
「いいけど。母さんは?」
「食材と食器を片付けをしたら休むわよ」
「父さんは?」
「周りの観察をして、問題が無ければ休むよ」
「ふ〜ん……そう。おやすみなさい」
「おやすみ、優翔」
「おやすみ」
フラフラと足取りの覚束ない妹を支えるようにして車へ向かう息子の背中を見送り、俺と沙織は焚き火の前に残った。
「あの子。あなたがすぐに休むとは、思ってないわね」
食器を片付けながら、沙織がポツリと言った。俺は苦笑する。
「そうかな? さすがに俺も寝ずの番をするほど、自分の体力を過信してはいないよ。そんなことをしたら明日がもたない」
「そうね。でも……何かやりたい事があるんでしょう? 昼間に『鑑定』の話をしてから、ずっと何かを探していたわよね?」
自分の行動をすべて見抜かれていたことに、俺は素直に驚いていた。
「……沙織には敵わないなぁ。俺が探していたのはね、蚊だよ」
「蚊?」
「ああ。地球で最も人間を殺している生物は蚊だからね。こちらの蚊が変な病原菌を保有していないか心配だったんだ。見かけた蚊には片っ端から『鑑定』をかけたんだが……今のところは有害な菌も持っていないし、大丈夫そうだよ」
「だから、あなた……蚊取り線香をテントの周りに3箇所も置いたのね。テントから離れる時もノーマットを身につけていたし。……でも、この世界の蚊に地球の殺虫剤や防虫剤って効くのかしら?」
「それは大丈夫みたいだ。さっきもこちらに向かって飛んできた蚊が、落ちていたからね」
俺は炭が爆ぜる光の向こう――沙織の背後2メートルほど先にある、暗闇を指差した。
「……そこから、あんな暗がりいる小さな蚊が見えるのね」
暗がりを見つめていた沙織が静かに息を吐きながら、こちらに振り返る。
「本当に有るのね……レベルアップって」
子どもたちの派手な魔法や剣技を見ても、どこか現実感が薄かったのだろう。
だが、つい昨日まで老眼や四十肩、慢性的な腰痛に悩まされていた夫が、重い荷物を持って軽やかに動きまわる姿。眼鏡もかけずに闇夜を飛ぶ一匹の蚊の動きを捉えている。
それは頼もしくもあり――どこか恐ろしいほどの変化として、沙織の胸に響いたようだった。
沙織の内に潜むかすかな不安を感じ取り、俺は静かに語りかけた。
「……俺がキャンプなんかにみんなを連れ出したばかりに、すまない」
「さっきも話したでしょ。こんな現象、誰にも予想できるわけないわよ。……あ、でも、小説を読む人や書く人は予想できているのかしら?」
「誰も現実になるなんて思いもしないさ」
「でも、色々なことが瑞葉の言っていた『異世界転移もの』と一致してるじゃない? もしかしたら……その作品を書いている人の中に『帰還者』がいて、体験談を描いているんじゃないかしらって思ったりしたのよ」
「まさか……!? いや、こうなると、その可能性すら否定できないのか……」
「ふふ、また考え込んでる」
「あぁ……すまん」
「ふふふ。今日は謝ってばかりね」
沙織はくすりと笑い、炭火の赤白い光と発電式のLEDランタンの青白い灯りの中で、俺の目を真っ直ぐに見つめた。
「私はね、あなたが『キャンプに行こう』って言ってくれて本当に嬉しかったのよ。今回のことだって、家族みんなが一緒で本当に良かったと思ってるの」
「沙織……」
「私一人だったら、もうとっくにパニックになって死んでいたわ。逆に、子どもたちやあなたが『神隠し』に遭って、私一人だけがあっちに残されていたとしたら……やっぱり、生きていける気がしないもの」
「……沙織は強いから、俺がいなくても子どもたちを立派に育て上げると思うけどな」
「強くなんて……私、強くなんてないわよ」
沙織は小さく首を振った。
「あなたや子どもたち、家族3人が側にいてくれるから頑張れるの。もし誰か一人でも欠けたら……正直、生きていく自信がないわ」
妻の本音に、胸の奥が熱くなる。俺は沙織の手を優しく握りしめた。
「……俺も、まったく同じだ。沙織……何があっても、絶対に家族4人で生き抜こう」
「もちろんよ。……ふふふ、そろそろ私も寝るわね。明日は私のレベル上げなんだから、体調を万全にしておかないとね。レベルが上がったら、私のこの膝の痛みも治るのかしら?」
「絶対に治るさ。もしかしたら、肌のツヤまで若返るかもしれないぞ」
「あら、女性に肌の話をするなんて。……ふふ、話半分に期待しておくわね。おやすみなさい、あなた」
「あぁ、おやすみ」
車へ向かう沙織の後姿を見送る。
ワンボックスカーのスライドドアの電源は落としてある。警告音が鳴る事や、バッテリー上がりのリスク回避のためだ。
やがて、扉を閉める音が聴こえてきた。
――ブシュー。
それでも扉を閉める切るための電動のアシスト音だけが辺りに響いた。
その機械的な遮断音が、家族との穏やかな温もりと、過酷な現実との境界線を鮮明に引き直す。
静寂が舞い戻ってきた。
耳に届くのは、パチパチと炭がはぜる音と、草むらから聴こえる虫の羽音。そして、はるか遠くの原生林から時折響いてくる、正体不明の獣の咆哮だけだ。
俺はひとり、炭火の前に腰を下ろした。
(さて……)
沙織との会話中も、視界の隅にずっと展開させていた半透明の『鑑定ウィンドウ』へ意識を向ける。
Lv.9――
老眼も四十肩も消え去った肉体は、信じられないほどの活力に満ち溢れていた。
この世界の人間からしたら俺の成長など微々たる力なのかも知れない。だがレベルなど存在しない世界で生きてきた人間からすれば、この困難な状況に生き抜くための希望をそこに見出すのも仕方のないことだろう。
ステータスの上昇と『鑑定』スキルがもたらした知覚拡張は、俺に「夜視」に近い視界と、恐ろしいほどの情報処理能力を与えていた。
暗闇を見渡す。
結界の外――昼間、俺と子供たちで討伐しまくり若干、数を減していたスライムたちだが、今は元通りで何事もなかったかのように暗闇に蠢いている。
【グリーンスライム Lv.1】
【グリーンスライム Lv.2】
【ナイトホーンラビット Lv.3】
【シャドウバット Lv.2】
暗闇の中に浮かび上がる幾つもの鑑定の表示。その名前に意識を持っていくと、更にその詳細が表示される。
昼間には見かけなかった夜行性の魔物や、木々の隙間に潜む未知の個体が、俺の拡張された視覚と鑑定によって一瞬で網羅されていく。
【ナイトホーンラビット Lv.3】
無属性。夜行性。月の満ち欠けによって強さが変化する。頭の角による突進攻撃を主とする。レベルが高い個体は『隠密』のスキルを持つことがある。
視界を満たす膨大な情報。暗闇を完璧に把握できているという圧倒的な優位性。
まるで世界のルールを自分だけが解読しているかのような、静かな全能感が胸を満たす。
(なるほど……夜間の魔物のエンカウント率は昼間の比じゃないな。だが、結界の強度は万全。敵のステータスも全て見えている)
俺は暗闇に蠢くおびただしい数の魔物たち。その光景を目にしても錯乱せずにいられるのはレベルアップによって精神耐性が上昇したのだろうか。何にせよステータスでは見ることのできないものがあることは間違いないだろう。
それでも今は、魔物たちの数値を冷静に分析し、明日の沙織のレベル上げの最短ルートと、安全な狩りの配置を脳内で完璧にシミュレートしていく。
【アインホルンハーゼ:Lv.1】
さらに意識を集中させ、詳しい情報を『鑑定』で引き出していく。
(お!こいつは昼も見かけたな。……なるほど、これはありがたい)
鑑定の詳細を確認する。暗闇を恐れる必要はない。この力があれば、俺は家族を絶対に守り抜ける。
確固たる決意を胸に抱きながら、俺は静かに思考の海へと深く沈んでいった。




