第41話カレーと団欒
「ねぇ、お父さん! スマホ見たら、まだ17時過ぎだよ! このままお母さんのレベル上げもやっちゃおうよ!」
テンションの上がった瑞葉が、画面をこちらに見せながら身を乗り出して提案してくる。
だが、俺は優しく首を振った。
「気持ちは分かるが、今日はここまでだ。慣れない環境と極度の緊張の中で、皆が思っている以上に体力を消耗しているはずだからな」
「え〜、まだ全然元気だよ?」
不満げに口を尖らせる瑞葉に、隣から優翔が冷静に助け舟を出した。
「父さんの言う通りだよ、瑞葉。それに夕方っていうのは思いのほか視界が狭くなるんだよ。そんな時間帯にレベル上げに慣れてない母さんを連れ出したら、予期せぬ危険が増すだろ。母さんが怪我でもしたら大変だろ」
「うぐっ……それは、そうだけど……」
兄の正論にぐうの音も出ず、瑞葉がわかりやすくむくれる。そんな娘の頭を優しく撫でながら、沙織が柔らかく微笑みかけた。
「それに、この時間からはお母さんは忙しいのよ。だって、瑞葉に美味しいご飯を作らなくちゃいけないからね。瑞ちゃん、お手伝いしてくれるかしら?」
「っ……うん!」
幼い頃の懐かしい呼び名とやり取りに、瑞葉の表情が一気に華やぎ、空気がひと波で温かな和みへと変わった。
夕食の準備が始まると、瑞葉は大張り切りだった。覚えたての魔法も使い、調理用の綺麗な水だけでなく、大きめの鍋やバケツに洗い物用の水をたっぷり出していた。さらには竈の火熾しまでこなそうとして、MPの使い過ぎを沙織に優しく諭されていた。
「ふふ、瑞葉のおかげで助かるわ」
「へへーん、まかせてよ!」
微笑ましい母娘の会話。そこだけを切り取れば、どこにでもある平和なファミリーキャンプでの一場面にさえ見えた。
――そんな平和な空間から少し離れた結界との境界線近くで、俺と優翔は「厳しい戦い」に挑んでいた。
トイレの設営である。笑う人間もいるかもしれないがトイレを軽々しく扱うことはできない。衛生環境を整えることは健康を保つことだ。トイレを外して衛生環境を考える事は出来ない。
小便に関しては、結界の外側が緩やかな下り坂になっている場所を選んで、境界線ぎりぎりにビールケース2個を20センチほどの間隔を空けて横に並べ、便座の代わりに利用することで解決した。目隠しは何かアクシデントがあった時に邪魔になるので、カッパを着ることで対処することにした。
問題は「大」の方だ。
「……こんな感じか」
スコップで浅い溝を掘り、溝の両脇には ビールケースを置いた。即席のトレンチトイレの完成だ。可能な限り生活圏から離そうと結界の縁に寄せたが、狭い結界内ではどうしても距離の近さが気になった。
トレンチトイレの横には汚物の上にかける草と土の山。それに瑞葉の水魔法で満たしたバケツがひとつ。そのまた横には、まな板サイズの平たい石が一枚、少し角度を付けて地上に設置した。
その洗濯石を前に、俺と優翔は真剣な面持ちで話込んだ。
「水は瑞葉に用意してもらって、尻は手と水で洗って、最後に雑巾で拭き上げる。使った雑巾は残りの水を使って洗濯石で洗う。一連の流れとしては、こんなところかな」
「……トイレがないのは仕方ないとは思うんだけど。やっぱりトイレットペーパー無しがキツイなあ。トイレットペーパーを使うのは……駄目だよね」
優翔が苦笑いを浮かべながら尋ねてくる。俺は深々と頷いた。
「トイレットペーパーは車の中に4ロールあるが、下水処理がされないこの状況じゃ、土に分解されるまでにかなりの時間がかかる」
「そんなものを放置しといたら、雑菌の繁殖源にもなりかねないもんね……生活範囲で使うのは危険すぎるか」
「そういう事だ。それに、この世界の文明レベルもまだ定かじゃない。もしかしたらトイレットペーパー自体が存在していなければ、超高級品としてこちらの世界での資金調達や交渉の貴重な札になるかもしれないしな」
「なるほどね……。それにしてもトイレ事情が退行し過ぎだね」
「ああ。それでも母さんがビールケースを、瑞葉が水魔法を覚えてくれたから相当マシになったんだぞ。腐っても簡易洋式の水洗トイレだぞ。最悪、和式スタイルにして、周りのオオバコの葉っぱを使って対応しなきゃいけないかと覚悟してたからな」
「マジかよ……。ガチキャンプどころか、原始生活チャレンジレベルだね。危なかったぁ〜、瑞葉に本当に感謝だね」
俺が指差す地面に張り付くように四方に葉を広げる雑草を見つめながら、優翔が肩をすくめた。
「あぁ。全くだな」
今後の衛生環境向上のため、シャワーや簡易風呂の設営についてもアイデアを出し合ったが、圧倒的な物資不足のせいですぐには作れない。明日以降、周りの採取可能な資材を確認してから再検討することになった。
その他にも食料、衣類、医療、そして衛生問題……。一つ解決すれば次の課題が山のように湧き出てくる。
だが、あまりにもやることが山積みすぎたおかげで、逆に俺たちの心はフッと落ち着いていた。
「……まあ、焦ってもしょうがないな。今夜できることをひとつずつやろう」
「そうだね。まずは今日の作業を終わらせよう」
互いに肩の力を抜き、俺と優翔はテントの設営場所へと戻った。
テントに近づくにつれ、あたりには香ばしいスパイスの香りが漂っていた。今晩のメニューがカレーであると確信させる、たまらない匂いだ。
「あ、お父さん! お兄ちゃん!」
俺たちに気づいた瑞葉が嬉しそうに駆け寄ってくる。
瑞葉は『報連相』を意識してか、肉はクーラーボックスで傷みやすい豚肉を優先して使ったことや温めたカレールーの中に炊いたご飯を少量投じ、リゾット風にしたことなど、手伝った工程を誇らしげに報告してくれた。
「お母さんがね、すごく手際よくてさ!お父さんよりキャンプ向きかも!」
横で沙織が穏やかに微笑みながら、瑞葉の報告を聞いていたが、正確な報告をする為、言葉を付け足した。
「クーラーボックスの中で冷凍品が溶け始めていたから、一番傷みが早そうな豚肉を使い切ったの。何が起こるか分からないから、お米やパスタは少しでも残しておきたいもの。リゾット風にしてかさ増しをしてみたわ」
パスタや乾物を温存しつつ、今ある生鮮食品を無駄なく使い切る機転。
戦うことだけがサバイバルではない。日常を守り抜いてきた妻の頼もしさに、俺は深く感銘を受けていた。
「素晴らしい判断だね。助かるよ」
その後、俺と優翔は車周辺の整理にとりかかった。
今夜は万が一の魔獣の襲撃に備え、テントよりは堅牢なワンボックスカーの車内で寝泊まりすることに決定した。
ワンボックスカーのリアハッチを空けてラゲッジスペースにテントを収納した。
また、緊急時にいつでも車を動かせるよう車の前後の荷物は片付け、設備を避けるように改めて駐車をした。
普通に車を動かせるのは結界内の整備された轍の部分だけだが、それでもこの質量の鉄の塊が動けば魔物だろうと魔獣だろうと警戒心は抱くはずだ。
「よし、路面の障害物なし。車の発進ルートもOKだ。荷物の乗せ忘れもないな」
「僕の方もチェック完了だよ」
優翔とガッチリとダブルチェックを行い、「こんなところか」と互いに頷き合ったその時。
「ご飯の準備ができたわよー!」
沙織の通る声が響き、家族団欒の時間が再び訪れた。
ふと見上げれば、あたりは薄暗くなり始めている。
夕日を浴びたエルタニア大霊山は、その左半分を鮮やかなオレンジ色に染め上げ、その光景はどこか神々しいものを感じさせた。
「どう? 父さん! 私が火加減を調節したカレー!」
言い方を変えながら、何度となく繰り返される娘の質問に心を込めて答える。
「ん!あぁ 美味しいぞ、瑞葉。コクがあって最高だ」
「えへへ〜! お兄ちゃんはどう!?」
「はいはい、美味しい美味しい。焦がさずに火入れできたのは偉いんじゃない」
優翔は少し辟易とした雰囲気だが、対応している。
「なによその言い方〜!」
「瑞葉は本当に大活躍だったわよ。調理 は勿論、片付けや洗い物もバッチリだったわ」
賑やかなやり取りに心が和む。そんな中、沙織が不意に思いついたように言った。
「そういえば瑞葉、今度は『食洗機の魔法』とか『ロボット掃除機の魔法』とか覚えてくれないかしら?」
「ええっ、私は嫌だよ! そんなの絶対お手伝い確定じゃん!」
「母さん、そこは『掃除の魔法』とか『清潔の魔法』とか、もっとざっくりした範囲のやつを期待した方が使い勝手がいいよ」
「お兄ちゃん! 余計なアイデアを吹き込まないでよ!」
「ふふ、いい考えだわ。さすがね優翔」
「お母さんまでー!」
「「ははは、冗談よ(だよ)」」
目の前で繰り広げられる、昔を思い出す賑やかな夕食の風景。
異世界の真ん中にぽつんと浮いた小さな結界の中で、俺は噛みしめるように幸福を感じていた。
食後、明日のスケジュールやトイレの使用ルール、荷物の配置場所などを家族で共有した。
食後の歯磨きを済ませ、固く絞ったタオルで身体を拭き終える頃には、瑞葉の首がこっくりこっくりと前後揺れ始めていた。
張り詰めていた緊張が解けたのか、限界が近いようだ。
いつの間にか、あたりには本格的な夜の帳が降りてきていた。




