第35話『裏の補正』と『物資確認』
異世界の風が、結界などお構いなしにテントのフライシートの上を滑るように吹き抜けていく。紫や淡いオレンジに彩られた不気味な異色の草むらが、ざわざわと波打っていた。
そのざわめきに、見えない魔物の影を見て怯えていた俺たちだったが、不可視の『聖域結界』に護られていることを知った今。キャンプ地は、そのまま、前の世界を封じ込めたようにも思える。まるでガラス容器の中に守られた箱庭のように穏やかな雰囲気で満ちている。
俺は一息つくと、お茶の入った湯呑みを手にしていた沙織に向かって声をかけた。
「沙織、少し頼みたいことがあるんだけど、いいかな?」
「なに? あなた」
「いま俺たちが自由に使える物資がどれくらいあるか、全体像を把握しておきたいんだ。テントの中や車の中の荷物、それに食糧保管庫に残っている食材をもう一度全部チェックして、整理・リストアップしてくれないか?」
「ああ、確かにそうね。今のうちに在庫を把握しておかないと、献立も立てられないものね」
沙織はすぐに納得して頷いたが、ふと何かを思い出したように首を傾げた。
「でも……私だけ荷物の整理でいいの? 私もみんなと一緒にスライムを倒して、レベルを上げた方がいいんじゃないかしら?」
「それなんだけどさ、母さん」
俺が答えるより早く、傍らに立っていた優翔が落ち着いた声音で口を開いた。
「さっき父さんと話したんだけど……この世界にはステータス画面に表示されない『裏の補正』みたいなものがあるっぽいんだ」
「裏の補正……?」
「瑞葉の『魔導の極み』が分かりやすい例かな。僕は正直、瑞葉がスライムにあんなに手こずるなんて夢にも思っていなかったよ。母さんもそうなんじゃない?」
「確かにそうね。意外だったわ」
俺は優翔の言葉を引き継ぎ、丁寧に説明を重ねた。
「瑞葉は手先も器用で運動神経だって悪くない。それなのに、スライム相手に物理攻撃を当てようとした時、信じられないくらい攻撃を外していただろ? おそらく『魔法特化』の職種やスキルを持っている人間には、物理攻撃に対して目に見えないマイナス補正がかかるんだと思う。……だとすれば『前衛職』の優翔は物理攻撃によるレベルアップは簡単だと思う。瑞葉も、ここまでは苦労したが、魔法攻撃ができるようになった今。これからのレベル上げは容易だと思うんだが……」
「母さんのユニークスキル『天恵の癒やし』は後衛職どごろか『治癒職』だから、見えないマイナス補正がかなり強く掛かっているんじゃないかって父さんと話していたんだよ」
「なるほど……。私個人の運動能力があったとしても、私が直接攻撃でスライムと戦おうとしたら、瑞葉以上に足をもつれさせたり、狙いを外したりする可能性があるってことね」
「そういうことだ。だから、まずは俺と優翔、それから魔法攻撃ができる瑞葉のレベルをしっかり上げる。沙織のレベル上げは、俺たちが完璧にフォローできる体制が整ってから安全に行うのが一番なんだ」
「子供たちやお父さんだけに大変な思いをさせるけど、私がいることで余計な負担が増えるなら、しょうがないわね。私は私が今できる役割をしっかり果たすわね。任せて」
沙織は頼もしく微笑むと、さっそく袖を捲り上げてステンレス製の食糧保管庫へと歩き出した。
「あ! お母さん、私も手伝う! お手伝いするー!」
それまでお茶をすすっていた瑞葉が、退屈しのぎとばかりにピョンと跳ね起きて沙織の後を追おうとする。最近スマホばかり見ていたのが嘘のようで微笑ましい。
だが、俺はすかさずその襟元を軽く掴んで引き留めた。
「瑞葉、待ちなさい。お前はダメだ」
「えぇーっ!? なんでよお父さん! 私だけ仲間外れ!? ひどい!」
「仲間外れじゃないさ。瑞葉には『MPの自然回復速度を調べる』という重大な任務があるんだから。体を動かしてカロリーや体力を無駄に消費したら、MPの回復速度に影響が出ちゃうかもしれないだろ? だから瑞葉は大人しく休憩してなさい」
「むぅぅぅ……っ!」
瑞葉は露骨に頬を膨らませ、カピバラのような顔で俺を睨みつけた。
「ぶー、ぶー! お父さんのケチ! 意地悪! 私は皆の役に立ちたいのに〜!」
皆の役に立ちたいかぁ。本当に俺には過ぎた子供たちだ。
「ありがとう。MPの検証が終わったらお願いするよ。それまでは大魔法使い様は、お気に入りの折りたたみ椅子に座って、優雅にお茶でも飲んでいなさい」
「うぐぐ……そこまで言われたら動けないじゃないのよぉ……。だいたい花も恥じらう女子中学生の襟元を掴むなんて……むむむむ」
不承不承といった様子で、瑞葉はどすんと折りたたみ椅子に深く腰掛けた。肘掛けに両肘を突き、両頬をムニッと手で押し潰しながら、不機嫌そうに足をブラブラと揺らしている。文句を言いながらもお茶をちびちびと飲む姿は、まるで小さな小動物のようで実に可愛らしかった。
不満げながらも素直に椅子に収まった瑞葉の姿に笑みをこぼしつつ、俺は隣に立つ息子へ視線を送った。
いよいよ、優翔の戦闘力の検証——そしてレベル上げの開始だ。




