第3話 正体不明の生物
近年、野生動物の出没が多発している為、キャンプ場の管理事務所からは食べ物は頑丈な金属製の食料保管庫の中へ収納するようにと言われていた。
テント内での飲食も原則厳禁とされていて、数年前に、このキャンプ場を訪れた時とのルールの違いに驚いたが……。
(そのおかげで助かっているのか……?)
少しほっとしたのもつかの間。
――ガッキン!! ドカン、ドカン、ズズズー!!
けたたましい音が辺り一面に鳴り響く。
更衣室のロッカーなんかよりは、よっぽど頑丈そうな鉄の食糧庫、その鉄塊に身体をぶつけたり、引きずったりしているようだ。無理矢理、鉄製の食料保管庫を破壊しようとしているのだ。大音量が発生するのは当然だろう。
「ひっ!」
「なんだよ!」
「きゃぁ!」
あまりの轟音に三人が声をあげる。
「皆静かに……」
皆がパニックに陥らないよう、俺はできるだけ落ち着いた声で小さく囁く。
偉そうに言ってはいるが、俺が声を上げなかったのはたまたま他のことを考えていたからで、三人と同じように外の様子を窺っていたら今頃は、俺も無様に声を上げていただろう。
「ガギュウ……グロッホ……」
――ザッ、ザッッ
突然、足音がこちらに近づいてきた。
(まずい。気付かれたな)
「沙織、俺のリュックを取ってくれ」
「え?」
戸惑い固まる妻。
その横に座る息子の優翔が俺の意図に気づき、静かにリュックを引き寄せて差し出してきた。
その手は小刻みに震えており、すがるような真っ直ぐな瞳が俺に向けられていた。
その眼差しを受け止めた時、俺の胸の奥で何かがカチリとはまった。
ここ数年の俺は親としては情けなく、夫としては頼りなく、転職失敗の事をグジグジ悩んでばかりいた。
最近は失った家族との時間を悔やんでばかりいたが、事ここに至っては迷いはない。
俺が腹を括らなければ、家族に害が及ぶかも知れない。そうなれば壊れかけていた家庭の修復どころではない。
俺の命に代えても、家族を無事に家に連れて帰るんだ。そう考えると、これから取るべき行動が自然と頭に浮かんだ。
息子から静かにリュックを受け取ると、俺はできるだけ音を立てないよう慎重にファスナーを開けた。
目的のものは元がかなりの大きさだったため、バッグ内の暗闇でもすぐに見つかった。
(万が一の備えにと奮発して買っておいたんだが、まさか本当に使う事になるとはな。パッケージごとリュックの奥に放置していたのが悔やまれる。買ったなら、直ぐ使えるように準備をしておくべきだった)
悔やんだところで後の祭りだ。手が震え、足も震える。立っていたなら膝もガクガクと笑って止まらず、さぞ見苦しかったことだろう。
それでも今は、震える体を気力で押さえつけて、何とか動けている。
こいつだけが唯一の希望だ。頼むから効いてくれ――自分にそう言い聞かせながら、固く封じられているパッケージを破ろうとする。
だが、恐怖で指先に力が入らない。指が震えて爪がかからず、ビニールが破れない。焦れば焦るほど手が滑る。
(クソッ……破れろ……! 開いてくれ……っ!!)
歯を食いしばり、震える両手で強引にバリッとパッケージを破り捨てた。
暗闇に荒い呼吸音が響いた。もうコチラの音を気にしている時間はない。デカい生き物の気配は、目と鼻の先まで来ている。
生々しい緊張感の中、俺はしっかりと重さを感じる缶を握りしめ、震える指先をなんとか安全ピンの環に引っ掛け、それを勢いよく引き抜いた。
――カチャッ!
小さな金属音がテント内に響く。これで準備完了だ。
外の気配は探るまでもなく、すぐ近くまで何かが迫っている。大きくて荒々しい、まるでダンプカーの排気音のような呼吸音だ。
生き物の吐息が、これほどまでに大きく、恐ろしいものだとは知らなかった。
幸運なことに、そいつはテントの正面にやってきて動きを止めている。
見慣れない物体を警戒して観察しているのか?多少の知能はあるようだ。
だからこそ、俺たちに脅威がないと分かれば、鉄製の食糧保管庫と同様に突進を受けるだろうことは明らかだ。
これは今すぐ、行動するしかない。
「優翔。テントの縦のファスナーを開けてくれ、横のファスナーは俺が開ける。こいつが通るだけのサイズでいい。静かに、刺激をしないようにゆっくりと、できるか?」
「わ、……わかったよ」
一年ぶりぐらいの、息子との正面切っての会話だった。そんな詮無き考えが頭をよぎる。
わずか一言の会話だたが、優翔の声に混ざる確かな信頼の響きが、俺の背中を強く押してくれた。おかげで緊張が少しほぐれ、俺は優翔の隣へ静かに近づく。
「俺がこいつを差し出した瞬間、お前は俺の後ろに飛び退け」
互いに一瞬見つめ合い、小さく頷く。
――シャ…
――シャ…
二つのファスナーが小さな音を立てる。
その音に反応したのか、外の気配が一瞬立ち止まる。生臭い吐息がテントを揺らしながら流れ込んでくる。躊躇する暇はない!!
俺はテント内に成分が逆流しないように注意して、念のために顔を背け、わずかに開いた出入口の隙間から腕だけを外へ突き出し、缶のトリガーを思いっきり引いた!
――ブシャー!シュッ!シュッ!シュッ!
夜の山の中には不似合いな、人工的な射出音が辺りに響き渡る。
「ガッ!? グオー!! ギルルル!!」
一瞬の間を置いて大音量の咆哮にあたりが包まれる。
そのあまりの迫力に家族全員が頭を抱える。俺はもう一歩前進して腕を限界までテント外に突き出し、声のした方向に、もう一度トリガーを引いた。
――ブシャー!シュッ!シュッ!シュッ!
その瞬間、こちらの体が跳ねるような地響きと共に、4本足の生き物の足音が聞こえた。
――ガーン!ゴロゴロ……、ドカンッ!
おそらく鉄製の保管庫を蹴散らしたであろう音がした。その直後に巨大なものが猛烈な勢いで遠ざかっていく足音が聞こえる。
しばらく様子を窺うが、新たな気配を感じることは無かった。
「父さん……」
「あぁ」
背中越しに聞こえる息子の声。
そこに籠もるのは安堵だろうか、それとも尊敬の念だろうか。
久しぶりに父親と呼ばれた場違いな感動を抱きながらも、三人を安心させるために声を上げる。
「流石は海外製の『熊撃退スプレー』だけあって強力だな。どんな大型獣でも撃退できるって触れ込みだったが……とりあえず逃げてくれたみたいだ」
「お父さん、助かったの……?」
涙ぐむ娘の瑞葉と目が合う。目を合わせるなんていつ以来だろう。
「ああ、明るくなったら管理事務所まで避難しよう。大丈夫、父さんがついている」
「うん……」
妹の瑞葉が少し落ち着くのを待って、優翔が小声で話し掛けてきた。
「本当に熊だったのかな?」
意外と冷静に妹を気に掛けながら、小声で疑問を口にする息子を頼もしくも思いながら、俺自身の考えを述べる。
「音と気配を感じただけだが、かなりの重量感があったよな。この辺りに生息する熊はツキノワグマのはずだ、あの地響きで正直百キロ以下の生き物には思えない。猪の方が重量としてはありえそうだが、……正直俺にも分からないよ」
「そうだよね……。朝までここで待機するの?」
「本来なら避難したいところだけど。今回はここに待機かな?」
「どうして?」
「下手に避難して、またさっきのヤツにばったり会う危険性もある。あれだけの轟音が鳴ったんだ、管理事務所や警察が直ぐに駆けつけて来るだろうから、下手に動かない方がいい。もしかしたら他でも同じような被害があって、猟友会でも出てきていれば、誤射の危険もあるからな。それにもうすぐ夜が明ける。明るくなってからの避難でも遅くはないと思うんだ」
「……分かった」
俺の言葉に息子は頷いた。その横で娘がスマホを見る。
「今は四時十七分だよ。あれ?」
娘が首を傾げる。
「どうした?」
「スマホが圏外になってる。眠る前でさえ4 G だったのに…圏外なんて最悪」
「はははは。やっと瑞葉も平常運転になってきたな。まあ圏外なのは仕方がない。四時過ぎなら、あと一時間もしたら夜が明ける。そうしたらとりあえず管理事務所のところまで避難しよう」
静かにこちらを見つめていた妻にも声をかける。
「ええ、分かったわ。ありがとう、……あなた」
それから夜が明けるまでの小一時間、俺たちはテントの中で肩を寄せ合い、とりとめのない話をした。
急激な恐怖のピークが過ぎ去り、少しずつ頭の緊張がほぐれていくにつれて、家族それぞれに日常の思考が戻ってくるのが分かった。
「……あーあ、マジで命拾いした。帰ったら絶対イタリアン食べたい。駅前に美味しいレストランができたって友達に聞いたから…たまには外食しようよぅ」
「瑞葉、さっきまで泣いてたくせに……。でも僕も腹減ったな。そのレストランって、駅のどの辺り?外食、たまにはよくない?」
「あなたたちねぇ、こんな目に遭ったのに食い気なの? ……でも、本当にみんなが無事でよかったわ」
恐怖を押し殺すような、少し弾んだ会話。軽口を叩き合えるくらいには、みんなの頭も冷え、精神的な余裕を取り戻していた。
最悪のアクシデントだったが……家族関係の修復としては、上々の結果かもしれない。
そんな安堵感が室内を包み込み、薄暗かったテントの外が白み始めた、まさにその時だった。
――ピコン。
まるでスマホの通知音のような、軽やかな電子音が響いた。




