第28話絶望の淵を越えて
俺は視界に浮かぶ漆黒でありながら、半透明に見えるウィンドウを見つめ、そこに刻まれた『聖域結界』の歴史と追加で開示された履歴を静かに口にし始めた。
【聖域結界・詳細情報】
「四十二年前、当時最盛期を迎えていた赤竜大陸の雄『アイナヤーゴ帝国』は、白竜大陸の北の大国『ロゼーヌ王国』との覇権戦争に備え、富国政策の一環としてエルタニア大森林の開拓計画を立案。エルタニア山において度々発生する魔獣氾濫の抑制と調査を兼ね、聖騎士や神官数十人を含む一万人規模の大調査軍を派遣した。
犠牲を払いながらも人跡未踏の地を踏破し、調査軍によって発見されたのがこの『エルタニア高原』である」
俺の声だけが、静まり返った辺りに響く。家族は一言一句聞き漏らすまいと、息を殺して耳を傾けていた。
「……高原に駐屯地が置かれた理由はふたつ。ひとつは、大森林に生息する魔物に比べ、高原の魔物が圧倒的に弱かったこと。もうひとつは、食料の現地調達が可能だったこと。帝国軍は高原に数十箇所の『聖域結界』を展開し、一年にわたる詳細な調査を開始した。……だが」
俺は一度言葉を切り、ぎゅっと拳を握りしめた。これから口にする言葉が、家族の心を打ち砕いてしまうと恐れたからだ。だが、逃げるわけにはいかない。
「……その日は突然訪れた。いや、前兆は有ったが、前例が無いことから前兆と認識出来ないまま、その日が訪れたのだ。エルタニア山の頂から大振動と稲光、赤紫の煙が立ち込めてから10日後、大森林の魔物すら遥かに上回る強靭な魔獣の群によるスタンピードが発生した。魔物討伐に特化した一万の精鋭部隊が、簡易結界としては最高レベルの『聖域結界』数十箇所を巧みに利用して迎撃戦を敢行。死闘の末に撃退には成功した。……だが、高レベルの魔物による気配感知で結界内の人間は捕捉され、結界への物理攻撃と魔力攻撃により徐々に結界は破壊された。その結果、『聖域結界』は数箇所を残して消失。軍の過半数を失う大惨事となった。そのため軍は撤退。以降、エルタニア大森林の調査は行われていない」
——静寂。
風の音すら途絶えたかのような、冷酷な沈黙がその場を支配した。
「い……一万人……?」
瑞葉の唇から、かすかな裏返った声が漏れた。
「訓練された兵士が、一万人もいて……半分以上死んだの……? この結界がいくつもあったのに……?」
沙織が震える瑞葉を強く抱きしめる。
「大遠征レベルの軍隊が派遣されて、命からがら情報を持ち帰るのが精一杯の死地……か」
優翔がポケットの中で拳を固く握りしめ、ガチガチと歯を鳴らしている。
今まで「レベル」や「スキル」というゲームのような言葉に少し薄められていた現実感が、一気に「大量の死」という血生臭い残酷さをもって押し寄せてきたのだ。
そして、張り詰めた糸が切れたように、家族の間に溜め込まれていた負の感情が弾けた。
「……なんでよ」
瑞葉が、力なく首を横に振った。その瞳には涙が溜まり、責めるような視線が俺へと向けられる。
「なんで……なんでこんなことにならなきゃいけないの!? お父さん……お父さんが無理にキャンプなんかに誘わなければ、私たちは今頃、家で普通に過ごせていたはずでしょう!?なんで私たちが、こんな恐ろしい場所に放り出されなきゃいけないのよ!」
「瑞葉、……落ち着いて!」
「お母さんは怖くないの!? 私は怖いよ! なんでこんな……こんなところで、死ぬのを待たなきゃいけないのよ!?」
「瑞葉、落ち着いて——」
沙織が繰り返す言葉に優翔が反発する。
「落ち着けるわけないだろ!!キャンプなんて来なければ、こんなことに……師団規模の軍隊が逃げ帰ったような死地から、たった4人でどうやって脱出するんだよ!!」
優翔の悲鳴のような叫びが、狭い空間に突き刺さる。
ギリギリの精神状態で保たれていた家族の絆。その隙間から、これまで溜め込んできた不満、恐怖、そして俺に対する「拒絶」の感情が濁流となって溢れ出していた。
俺が悪いのだ。もう何年も向き合ってこなかった俺が、家族を強引に連れ出したから、こんな惨状に巻き込んでしまった。
俺の責任だ。胸を抉られるような激痛と申し訳なさで、俺は言葉を失い、ただ唇を噛みしめることしかできなかった。
「……いい加減にしなさい!!」
怒号が飛んだ。俺でも、優翔でも、ましてや瑞葉でもない。声の主は沙織だった。
「二人とも! お父さんを責めたって何ひとつ変わらないでしょ! 今ここで叫んだって、元の世界に戻れるわけじゃないでしょ!?」
「母さんは……怖くないのかよ……」
「私だって怖いわよ! 足が震えて止まらないわよ! だけど……だけどね!」
沙織は涙で目を真っ赤に濡らしながら、優翔と瑞葉を真っ直ぐに見据えた。
「お父さんは、どんなことが起きても、どんなに失敗をしても、私たちを守るために戦ってきたわ。私たちを見捨てることなんて一度もなかったわ。キャンプに連れてきたお父さんが悪いの?違うでしょ!それは八つ当たりだわ。ここで立ち止まって争ってたら、私たちは真夜中に現れたような魔物に喰われて死ぬだけよ!?お父さんは今も生き残るために考えてくれてるじゃない。必死に、必死に考えてくれているじゃない。 私は……私は絶対、みんなで生きて帰りたいわ!私は裕翔さんと生きていきたいわ!!」
倦怠期で、いつも疲れていて、俺と目を合わせようともしなかった沙織。
でもそれは間違っていた。俺が転職失敗の引け目で目を合わせずにいただけだ。
日々の生活に疲れて正面から向き合わなかったのは俺だけだ。
いつも沙織は俺と一緒に戦ってくれていたんだ。
沙織の言葉には、誰よりも家族を守りたいという不器用で必死な愛が宿っていた。
優翔は、はっと息を呑み、荒い息を吐きながら空を見上げた。瑞葉もまた、沙織の背中にしがみついて声をあげて泣き出した。
俺は泣きじゃくる娘と肩を震わせる妻を抱き寄せた。そして優翔の方へと向き直り声をかけた。
「……すまない。俺が頼りないばかりに、みんなに恐ろしい思いをさせた。今までだって寂しい思いをさせた。……だが、沙織の言う通りだ」
俺は深く息を吸い込み、腹の底から声を絞り出した。
「どれだけ絶望的な環境でも、ここで怯えて立ち止まっていたら、待っているのは死だけだ。……だが、俺たちにはスキルが、そして知識がある。この安全な結界の内側から、コツコツと経験値を稼いで強くなるという手段が残されている。それに『博識』は教えてくれた。この高原で1万人の食料を調達できる何かがあると」
その言葉に含まれた希望に、皆がこちらを見た。俺は妻と子供たちの顔を順番に見つめた。
「俺たちが生き残る道は、ひとつしかない。全員で強くなるんだ。命を賭けて俺が家族を絶対に守り抜く」
俺の言葉に、沙織は涙を拭い、微笑みながら小さく首を振った。
「みんなで強くなって、みんなで生き残るのよ。あなただけが戦うなんて、おかしいわ」
瑞葉もシャツの袖で顔を擦りながら、鼻を鳴らして沙織の言葉に頷き返す。
優翔は「当たり前だろ」呟き、気まずそうに横を向いたが、その背中の強張りは消えていた。
負の感情を吐き出し、一度壊れかけたからこそ、俺たちの「絆」はより強固なものへと鍛え直されたのだ。
「よし……それじゃあ、最初の目標を決めよう」
俺はパンと手のひらで顔を叩き、雰囲気をガラリと切り替えた。
「まずは、瑞葉のレベルアップだな」
「えっ……私!?」
不意をつかれた瑞葉が、涙目のまま目を丸くした。
「そうだ。瑞葉は『大魔導士』に至るであろうレアスキル『魔導の極み』を持っている。……だが、今のレベル1の状態じゃ魔法のひとつも使えないし、腕力も素早さもごく普通の運動不足の中学生だ」
「う……うぐっ、否定できない……」
「前衛にして物理攻撃の最高峰『剣聖』に至るであろう『剣の極み』を持つ優翔が安全に戦うためにも、後方からの魔法支援は絶対に必要になる。瑞葉がレベルを上げて魔法を覚えれば、俺たちの生存率は跳ね上がるんだ」
「私……魔法、使えるようになるのかな……?」
不安そうに小首を傾げる瑞葉。その無邪気な瞳に、先ほどまでの絶望の影は少しずつ薄れていた。
「使えるようになるさ。お前は『大魔導士』になる器なんだからな」
「むふーっ! そこまで言われたら、頑張るしかないじゃん!」
俺の分かりやすい激励に瑞葉が涙を拭い、えっへんと胸を張る。その愛らしい姿に、沙織の口元からもかすかな笑い声がこぼれた。正直、瑞葉の『魔導の極み』が大魔導士に、優翔の『剣の極み』が剣聖に至るかなんて分からない。俺が大風呂敷を広げただけだ。それでも希望を持って前に進まなくてはならない。
絶望の淵から、俺たちは這い上がった。
レベル1の家族が挑む、異世界サバイバル。その本当の第一歩が、今ここから始まろうとしていた。




