3.絶望と後悔
その日、私はいつものように彼女が住む邸宅を訪れた。
彼女の両親に来訪の挨拶を行い、案内を申し出た使用人に断りを入れ、一人で彼女の部屋へ向かう。
すれ違う使用人に軽く声をかけながら廊下を歩いていると、通りがかった彼女専属の使用人が、
「お嬢様は、本日はまだお部屋からお出になっておりません。いつもの事ですが少し心配です。」
と教えてくれた。
「そうか。ありがとう」
と返事をしながら、以前聞いた話を思い出す。
彼女は何かに熱中したり、落ち込む事があると自分の部屋に引き篭もる癖がある。彼女の可愛いところの一つとして、彼女のご両親からこっそり、教えてもらった。
では、今日の彼女の籠城の理由は何だろう。
それでも、私はその時、深刻には考えてはいなかった。
そんな気分の日もあるよなと。
彼女の部屋の大きな扉をいつものようにノックする。
返事はない。
許可がないまま扉を開くのはマナー違反だ。まあ、そこは婚約者なのだから、少しおおめにみてもらおう。
そう思いながら彼女の部屋の扉を静かに開いた。
「入るよ」
やはり返事はない。
もしかして寝てるのか?
私は思わず笑った。
眠っている彼女を起こして、彼女をからかい、仲直りをして、一緒に過ごす。そして、いつものように彼女と次の約束をしよう。
そう思った。
彼女の部屋は外からの光で明るかった。
窓も開け放たれている。
白い繊細なレースのカーテンが、風をはらんで大きく揺れた。
彼女の部屋の窓から見える空は、彼女の瞳のような美しい青だった。
しかし。
「……?」
おかしい。
彼女なら、この時期、風邪をひくからと窓を閉めているはずだ。
部屋の中に視線を巡らせるが、こちらの部屋に、彼女の姿はない。
奥の部屋が彼女の寝室だ。
やはりまだ寝ているのか?
ふと、机の上に二通の手紙が置かれていることに気づいた。
一通は彼女の両親宛て。
もう一通は、私宛て。
どちらにも封蝋はされていなかった。
「……何だ?」
私の中の違和感が膨らんでいく。
不思議に思い、私に宛てられた手紙を手に取り、開く。
何故か嫌な予感がした。
震えそうになる指で封筒の中の手紙を取り出し開く。
見慣れた彼女の文字だった。
「今までありがとうございました。
どうか私のことは忘れてください。
婚約を破棄してください」
「……え?」
手に持った手紙が震える。
「……何だ、これは」
声が震えた。
冗談だ、そう思った。
何かの間違いだ。彼女が、こんな手紙を書くはずがない。
「……どこにいる?」
返事はない。
私は奥の部屋へ急いで歩を進めた。
彼女の寝室。
そこに、彼女はいた。
白いシーツの上に、彼女が横たわっている。
あまりにも静かだった。
彼女は美しかった。
眠っているようだった。
「……?」
近づく。
「具合でも悪いの……?」
返事がない、何かおかしい。
「……おい!」
肩に触れる。
冷たい。
彼女は息をしているか?
「――っ!」
頭の中が真っ白になった。
「しっかりしろ!」
華奢な身体を抱き起こすと、白い腕が、力なく垂れ下がった。
「おい!頼む……!」
何度呼んでも、彼女は目を開けない。
その瞬間、ようやく恐怖が全身を支配した。
失う。
このままでは、彼女を失う。
「誰か……!」
叫んだつもりだったけれど、声になっていたのかは分からない。
ほどなくして使用人たちが駆け込んできた。
医師が呼ばれ、邸宅中が騒然となる。
私はその場から動けなかった。
人が集まった部屋で、慌しく医師からの指示が飛び交い、人が走り回る。
私は、邪魔だと部屋の隅においやられ、処置を施される、彼女をただ茫然とみつめる。
触れた彼女は冷たかった。
どうして。
なぜ。なぜこんなことに。
彼女に何があった?
昨日まで、いつも通りだったはずなのに。
ついには、処置の邪魔になるといわれ、私は彼女の部屋から廊下に出された。
しかし私はここを離れる気にはなれなかった。やがて、彼女専属の使用人達が事情を聞かれている声が耳に入ってきた。
「お嬢様が使いで街へ出られた日の帰りから…ご様子が変だったんです…」
その言葉に、私は顔を上げた。
その使用人は彼女が街に両親の使いに行った時、一緒に出かけた使用人らしい。
「お嬢様は旦那様と奥様の使いを済まされた後、少し散歩へ行くと言われ、大通りに向かわれました。」
両親の使い….?
「中々帰ってこられなかったので、心配で探しに行くと、お嬢様は大通りの端で、ぼんやりと立ち尽くしておられました。」
……大通り?
「何か、とてもショックを受けられたようなご様子でした。」
嫌な予感がした。
「邸宅に帰られてからは、部屋に閉じ籠り泣いておられたようです。夜中に目を冷やすものをと希望されたので、よく覚えております。」
顔見知りのメイドもおろおろと話しはじめる。
「翌日には、いつも通りに戻られたように見えましたけれど」
メイドは俯き涙ぐみながら、
「ただ……その後から度々、塞ぎ込んでおられる事がありました」
と続けた。
「なぜか、ここ数日は何かが吹っ切れたように以前のお嬢様に戻ったご様子で、明るい笑顔が見られるようになっていたのですが。なぜこんな事に….」
聞くともなしに聞いていた私に、その証言の何かがひっかかった。
彼女が両親の使いで街に行った日?
あの日自分はどこで何をしていた?
その瞬間、彼の頭の中に、あり得ない推測が浮かんだ。
街。
彼女が街へ行った日はいつだ?
確か、その日私は、彼女の誘いを断った。
街へ両親のお使いに行くから、一緒に行きませんかと言われたのに。
私は彼女の誘いを断り、別の女との約束を選んだ。
茶色い髪、青い瞳。
彼女と同じ色の女と会った。
触れた。
胸の奥が、凍りついた。
「……まさか」
ふらついて背後の壁にぶつかった。
周囲の視線が私に集まる。
もし、もし彼女が。
あの日、私を見ていたのだとしたら?
私が別の女と一緒にいるところを。
私が、遊びであっても愛を囁き、彼女以外の女に触れているところを。彼女が見てしまったのだとしたら。
そんなこと。
その使用人に彼女がいた場所と時間を確認する。
間違いない。
あの日、あの時、彼女はそこに居たのだ。
そして、知ってしまった。
私の裏切りを。
「……私のせいだ」
唇が震えた。
「私が……」
足から力が抜け、廊下にくず折れそうになる。
「……あ。」
たかが、欲の処理。
婚約者がいる身で、多少の罪悪感はあった。
だが、それだけだった。
少し前までは、私の日常だった、適当な女との付き合い。
問題もない、些細なことだと思った。
彼女を大切にするためでもあると、いい訳までして。
彼女を愛した時点で、その行為は彼女への裏切りに、間違いなかったのに。
自分が取り返しのつかないことをしたのだ、と理解した。
彼女は、ずっと私を信じていた。
私は、それを知っていた、知っていたくせに。
己の欲に負けた。
彼女は私の裏切りを知っていた。
それなのに、私は何も知らず、いつも通り彼女に笑いかけていた。
今日も綺麗だね。と。
あの日の彼女はどんな表情をしていた?
どんな思いで私に笑いかけた?
どんな思いで私が彼女の頬に触れるのを受け入れた?
自分が、ひどく残酷なものに思えた。
血の気が引いていく。
「私が……」
足元が崩れる感覚に、もう立ってはいられなかった。
彼女の部屋の扉の前でうずくまるように這いつくばった。
「ごめん……」
繰り返しつぶやきながら。
自分が何を失おうとしているのか。
自分が何を壊したのか。
そのすべてを理解した。
彼女との未来が、ずっと続くものだと思っていた。
何の疑いもなく、明日も、その先も続くものだと思っていた。
そんな未来を、よりにもよって私自信が壊した。
「死なないでくれ……」
堪えきれず涙がこぼれる。
「頼むから……、私を置いていかないでくれ……」
けれど、彼女は答えない。
彼女が私のそばにいてくれること。
それが決して、当たり前ではなかったのに。




