2.初恋と花言葉
私は高位貴族の家に生まれた。
そのため、結婚は義務だった。
家のために相応しい相手を選び、家同士の繋がりを強固にする。それだけのもの。
だから、結婚に夢など見ていなかった。
そこに愛などなくていい、そう、割り切っていた。
そんな私の結婚に対する価値観が、彼女と出会ったことで、跡形もなく粉々になってしまうとは。
年頃になった私は、そろそろ女遊びをやめて、真面目に結婚相手を決めろと両親からせっつかれるようになった。
幸い、私は容姿には恵まれていたし、家柄も良く金もある。貴族が通う学院でも優秀だったし、友人にも恵まれた。
性格は優しそうに見えて腹黒と、よく友人に言われるが、貴族においては褒め言葉だ。
本音を言うなら、結婚相手なんて、見た目がそれなりに好みで、性格もそこそこ良ければ誰でもよかった。
しかし、まだ遊んでいたかったし、一人の女に決めるなんて御免だった。
だが、今回は両親も本気だった。
いつものように軽くあしらって逃げることも、のらりくらりとかわすこともできなかった。
そしてとうとう、母が私のために開いたガーデンパーティーという名の見合いに参加させられた。
ギラギラとした令嬢たちに囲まれ、精神的に疲れ果てた私は、令嬢同士で言い争いが始まった隙を見て抜け出し、友人たちとこっそり庭の隅で管を巻いていた。
「なんだか、みんな同じ顔に見える。もう誰でもいいよ。どうしても選ばないといけないなら、石でも投げるか。…当たった子を嫁にしよう」
冗談半分にそう言って、石の代わりに、そこらに飾られていた花を手に取った。
何の花かなど、見もしなかった。
そして、無造作に放り投げた。
それが、通りかかった令嬢に当たった。
「……っ」
花は桃色のブバルディアだった。
ただの花とはいえ、茎で令嬢に怪我をさせていたら大変だ。
私は慌てて駆け寄った。
「申し訳ない。怪我はないか?」
目で確認した所、令嬢に傷などはなさそうだ。
しかし、私の胸ほどまでしか身長のない小柄なその令嬢は、俯いたまま、手の中に落ちた花をじっと見つめている。
返事がない。
私は内心、眉をひそめた。
機嫌を損ねたか?
面倒なことになったな。さて、どう機嫌を取るべきか。
そう思案していた、その時だった。
目の前の令嬢から、鈴を転がしたような笑い声が聞こえた。
「大丈夫ですよ。びっくりしただけです。」
顔を上げた彼女が、私が投げた花を手に持ち、眺めながら困ったように微笑む。
「綺麗な花ですね。これは……私が頂いても?」
そう言って、彼女は私を見上げた。
そして、笑った。
まるで、花が咲くように。言葉が出なかった。
美人というわけではない。
女性らしい身体つきをしているわけでもない。
つまり、私の好みではなかった。
そのはずだった。
なのに。
柔らかな茶色の髪は、陽の光を受けてさらさらと輝いていた。青い瞳は光を宿してきらきらと揺れる。
一目惚れだった。
生まれて初めての経験だった。
あまりにも突然のことで、私は彼女の名前すら聞けなかった。
私は彼女が去った後も、真っ赤になったまま、その場に固まってしまい、そんな私を見た友人たちに散々からかわれた。
だが、幸いなことに、参加名簿を調べ、彼女の名と家名を知ることができた。
私はその足で父のもとへ走り、告げた。
「結婚したい女性がいる」
父は目を丸くした。
当然だろう。
あれほど結婚を嫌がり、気が向いた女と適当に遊びばかりしていた息子が、初めて自分から結婚を望んだのだから。
彼女を誰かに取られたくない。
自分だけが彼女に触れ、慈しみたい。
そんな感情を、私は生まれて初めて抱いた。
人生で、あれほど一生懸命になったことはなかった。
早く彼女と婚約しなければ。
誰かに見つけられる前に。
誰かに奪われる前に。
そう焦るほど、私は彼女に夢中だった。
婚約の顔合わせの時、私はガーデンパーティーで花を投げつけたことを再度彼女に謝罪した。
そのことをすっかり忘れていた彼女に、そんなに私に興味がなかったのかと少しショックを受けたが。
そうして始まった私たちの婚約と、それからのあゆみは私の人生で最も幸せな時間だった。
彼女と過ごす時間が愛おしかった。
顔を合わせるだけで嬉しく、名前を呼ばれるだけで胸が高鳴った。
彼女が笑えば、それだけで幸せだった。
しかし、ただ、一つだけ。私には不満があった。
自身の、肉体的な欲についてだ。
これまでの私は、適当な女と関係を持つことで、それを簡単に処理してきた。
そういう相手を選び、後腐れなく。
欲を満たすだけなら、それで十分だった。
けれど、今は違う。
私の婚約者は、十六歳になったばかり。
そして何より、私は彼女を大切にしたかった。
愛しくて、慈しみたくて、だからこそ安易に手を出したくなかった。
彼女もまた、そのような素振りを見せることはない。
ただ抱きしめるだけで、耳まで真っ赤にしてしまう。
それがまた、どうしようもなく可愛いのだが。
正直に言えば。
彼女と欲を与え合えるのなら、私は天にも昇るような幸福を得られるだろう。
だが、それは今ではない。
そう、自分に言い聞かせていた。
しかし、一人で悶々としていた私に、隙がみえたのだろう。ある時、過去に度々肉体的な関係を持った女から、誘いがあった。
茶色の髪、青い瞳、成熟した、大人の女。
彼女と同じ色を持っている。
ほんの一瞬。
その姿に、私の婚約者を重ねてしまった。
そして、その時、魔が差した。
深く考えることもなく、私はその女との約束を取り付けてしまった。軽い気持ちだった。
ただ、これまでと同じように欲を処理するだけ。
それだけのことだと、思っていた。
女と会う約束の日の前日。
婚約者の彼女が、明日街へ使いに行くのだと言った。
そして、私を街に誘った。
「一緒に行きませんか?」
その言葉に、私は強く心を揺さぶられた。
彼女のそばにいたい。一緒に出かけたい。
そんな気持ちは、当然のようにあった。
けれど、今の私が悶々としたまま彼女のそばにいたら、彼女に手を出してしまうかもしれない。
いや。きっと、手を出してしまう。
そう思った。
これまで好き勝手に遊んできた私にとって、こんなことで悩むのは初めてだった。
十九歳という若さが持つ欲に、いつまで抗えるのか。
自分でも分からなかった。
だから、彼女を大切にしたいという気持ちを言い訳に、私は泣く泣く彼女の誘いを断った。
決して、彼女を蔑ろにしたつもりはなかった。
けれど。
今思えば、私はいつの間にか、彼女がそばにいることに慣れてしまっていたのだ。
彼女と共に過ごすこと。
彼女が笑ってくれること。
彼女が私の隣にいること。
それらすべてを、当たり前のものだと思ってしまっていた。彼女との未来もまた、当然のように私の目の前にあるのだと。
決して揺らぐことのない、確かなものなのだと。
そう、思い込んでいた。
彼女と過ごせる日々も、彼女が私の名を愛しそうに呼んでくれることも、彼女と共に描く未来も。
決して、当たり前のものではなかったのに。
私はそのことに気づくのが遅すぎた。
まさかこの先、死よりも辛い後悔が、自分を待ち受けているなどとは。
この時の私は、知る由もなかった。




