1.裏切りとエゴ
愛した人と幸せになること、これが小さい頃からの私の夢だった。
貴族の娘である私にとって、それがとても難しい夢であることは分かっていた。
けれど、親が政略のために決めた婚約者は、私のことを心から愛してくれる人だった。
三歳年上の菫色の瞳と金色の髪を持つ、背が高くてかっこいい私の婚約者。
対して私は、16歳になったばかりの、茶色い髪に青い瞳の、よく言えば華奢、悪く言えば貧相なよくいる感じの令嬢だ。
私は彼が大好きだった。
だから、そんな彼に大切にされていくなかで、もしかしたら、私の夢は叶うのかもしれない。
そう思った。
ふたりで時間を重ね、あたたかな思い出を積み重ねていく。
彼は街を歩けば私の歩幅に合わせてくれる。
寒ければ、自分の外套を私の肩に掛けてくれる。
私が好きだと言った花を覚えていて、季節が巡るたびに贈ってくれる。
私は彼が好きだった。
私の唯一の人。彼も、きっと同じ思いでいてくれる。
少なくとも、あの日まではそう信じていた。
だから、あの光景を見たとき。
最初は、自分が見間違えたのだと思った。
ある日、私は両親におつかいを頼まれ、街に出かけることになった。
彼も街へ誘ったけれど、どうしても用事があって一緒には行けないと言われた日。
私は、使用人を連れて街へ出かけた。用事を済ませた帰り際、使用人が車に荷物を積む間、少し待ち時間ができた。
清々しい風に、私は石畳の道を少し歩きたくなった。
遠くには行かないと、荷物を積むのに忙しい使用人に声をかけ、大通りを少し歩く。気分よく歩いていると、賑やかな石畳の大通りから、脇道に入るための通路がなぜか目に入った。
建物と建物の間の暗く細い道を抜けた先の明るい場所に、彼はいた。
「……どうして」
若い男女が腕を組んで建物から出てきた所だった。
一人は私がよく知る彼。私の唯一の人。
もう一人は知らない女だった。
目立たない色で掲げられた看板には貸宿とその宿の名前が書かれていた。
そのまま体を寄せ合い、当たり前のように口付けを交わす二人。女の髪を撫でる彼の手の仕草は、私がよく知っているものだった。
私の頬を撫でるときと同じ、優しい手つき。
けれど、彼がその女に向かって、みせている笑顔は私の知らない笑顔だった。
私に向ける彼の笑顔はいつも柔らかいものだ。
でも、今は違う。気安い、男らしい笑顔。
その笑顔は私の知らない女と、彼との関係性を物語っていた。
今日がはじめてではない。
いつから?
私は声をかけるなんてできなかった。
体が固まって動けない。
頭が現状を理解してくれない。
彼らは私がいる道とは反対側の道に歩いて向かい、腕を組んだまま消えていった。心配した使用人が探しにくるまで、私はそこを動けなかった。
その日、邸宅に帰り、食事も摂らず自室に閉じ籠った私を家族は心配したが、疲れただけだと伝えた。
私は、その場で彼を問い詰めることも、泣いて縋ることもできなかった。
私はただ、その場から逃げることしかできなかった。
ベッドにうつ伏せ、枕に顔をうずめると、ふいに涙が溢れた。何も知らず、馬鹿みたいに彼を信じていた自分がみじめで滑稽すぎて。
このことを彼に話せば、きっと彼なら、謝ってくれる。
もう彼女とは会わない、ぼくには君だけだ。と。
そうしたら私は、彼を許せる。
……きっと許せる。そう思った。
でも、でも。
じゃあ、君とは終わりだと言われたら?
私ではなく、あの女を選ぶといわれたら?
私は彼に選ばれないことが怖かった…。
だから、私は何も言わないことを選択した。
そもそも、私が許す許さないもないのだ。
私が勝手に彼を私の唯一だと思っていただけ。彼も私と同じ思いだと。そう、勝手に。彼は一度も私だけとは言ってはいない。
この先もこのままなのだろうか。
そうならば、私はどうすればいいのだろう。
次の日。
彼は、いつものように柔らかな笑顔で私が家族と暮らしている邸宅へやって来た。
「今日も綺麗だね。昨日はごめん。どうしてもはずせない用事があって。」
そう言って、あの女に触れた手で私の頬を撫でる。そして、いつものように柔らかく笑いかけてくる。
私は、ただ笑い返すしかなかった。
喉が詰まる。
身体が震える。
それでも、
「……ありがとう」
と、何とか返事を返した。
胸が、張り裂けそうだった。
私は、上手に笑えていただろうか。
そんな私の変化に、彼が気づくことはなかった。
そうして、何も無かったかのように日常は過ぎていく。
高位の貴族たるもの、愛妾の一人や二人で動揺するものではない。
幼い頃から、そう教えられてきた。納得はできなかったけれど、そういうものなのだと諦めることはできた。
でも、彼だけは違う。
なぜか、そう信じていた。信じてしまっていた。
けれど、違った。
私は、裏切られたのだ。
そう思ってしまった。
それでも、彼が好きだった。
好きだったから、あの光景を忘れようと思った。
なかったことにしようと思った。
けれど、好きだったからこそ、忘れることができなかった。
客観的に見ると、本当はとても簡単なこと。
彼と別れて別の人と。
私だって友人にはきっとそう言って励ます。
割り切ってしまえばいい。
人は意外と強いから。
それもいいかもしれない。
そう考えたけれど。
でも、それでも、私はそれを選択しなかった。
そして、彼と何も無かったように過ごす日常の中で、私はいつのまにか彼を信じられなくなっている自分に気がついた。
夢は醒めてしまった。と感じた。
ある時、私はとうとう耐えられなくなった。
そして、ある計画を立てた。
机の上に、家族に宛てた手紙と、彼に宛てた手紙を置いた。
彼への手紙は、なかなか上手くは書けなかった。
何度も書き直した。
恨み言を書いては消した。
責める言葉を書いては消した。
それでも最後には、ひどく短い手紙になった。
「今まで、ありがとうございました。
どうか、私のことは忘れてください。
婚約を破棄してください。」
それだけだった。
震える手で手紙を封筒におさめた。
小さい頃からの私の夢が、彼となら叶うと思ってしまった。
それは叶うことはないのだと、貴族として教えられてきたのに。
現実を受け入れられなかった。
夢を見てしまった。
そして、夢を見ていたいと思ってしまった。
このまま、彼と重ねた思い出を、彼への思いを綺麗なまま抱きしめていたい。彼と過ごしたこの夢から醒めたくない。
私は、そう考えた。
部屋を片付け、ベッドを整える。
美しく化粧をして、髪飾りをつけ、彼が似合うと言ってくれた、お気に入りの白いドレスを身につける。
姿見の前でくるりと全身を確認する。
鏡に映った私に、我ながら綺麗よ、と自画自賛し、クスリと笑う。
少し高台にある邸宅の、二階にある自室の窓を開ける。
ひんやりとした朝の空気と、彼の瞳と同じ色の美しい菫色の夜明け。
ここから見るこの景色が好きだった。
今から私が行うことは愚かなことだと思う。
でも、とても静かだ。
そして、用意していた薬を飲んだ。
その後のことは、よく覚えていない。
ただ、目を閉じる直前。
彼と過ごした日々だけが、やけに鮮明に浮かんだ。
ふたりで笑い合ったこと。
一緒に食事をしたこと。
彼の腕に抱かれて木漏れ日のなかで眠ったこと。
ちいさな、何げないこと。
幸せだった。
本当に、幸せだった。
だからこそ。
もう、それ以上を望むことができなかった。
「……ああ」
意識が遠のいていく。
最後に浮かんだのは、彼の笑顔だった。
あの日、私に向けてくれた、優しい笑顔。
好きだった。
ずっと大好きだった。
だから……これで、私の夢は叶ったんだ。




