第2話 護衛は、予定より早く来た
その騎士団長は、予定より三日早く来た。
「ソラ、ソラ! 大変、来たわよ、騎士団長様! それも噂の、団長様直々に!」
ハンナが、ほうきを抱えたまま厨房へ飛び込んできた。頬が興奮で赤い。
「もう前庭に馬が着いてるの。きゃー、近くで見たら、こわーい顔だけど格好いいんだから」
「……落ち着いて、ハンナ」
口ではそう言いながら、私の頭の中では、別の警鐘が鳴っていた。
(……早い。記憶だと、護衛の話が動くのは、もっとずっと後のはずなのに)
窓の外を見下ろす。前庭で馬を下りる、長身の男。黒い略式の軍装、鋼色の目、眉に古い傷。——間違いない。王立騎士団長ローラン。攻略対象の一人で、本来なら物語のずっと後半まで、この屋敷の敷居をまたがないはずの人だ。
なのに、もう、ここにいる。
(進行表が、また勝手に前倒しになってる)
昨日ほどけかけた噂といい、世界の段取りが、私の知らない手で書き換えられている。けれど今は、その違和感を脇に置く。目の前の予定を、こなすのが先だ。
護衛が付くこと自体は、悪い話ではない。問題は、誰と誰が、どう初対面するか、だった。
記憶を手早く繰る。氷の薔薇のお嬢様と、武骨で世辞を知らない騎士団長。この二人の初顔合わせは、放っておくと最悪の方へ転ぶ。お嬢様の棘だらけの第一声が、騎士団長に『扱いにくい令嬢』という印象を刻む。それは護衛の士気を削り、やがて『あの家の令嬢は、騎士にも使用人にも冷たい』という、断罪の燃料の、また一滴になる。
潰す手は、ひとつ。二人がぶつかる前に、私が間に入る。
階段を駆け下りながら、段取りを組み直す。お嬢様の機嫌、お茶の温度、最初に交わさせる言葉の順番——。
けれど玄関広間に着いたとき、もう二人は向き合っていた。出遅れた。
「リンドルフ公爵令嬢。本日より護衛を務める。ローランだ」
短い。飾りも何もない、剣の柄みたいな挨拶だった。悪い人ではない。ただ、絶望的に言葉が足りないだけだ。
お嬢様の眉が、すっと上がる。氷の薔薇の、開花の合図。
「あら。ずいぶんと無愛想な護衛ですこと。剣の腕前は、その口の重さに見合っていらして?」
(出た——)
お嬢様の善意は、いつも棘の形で出てくる。本当は「頼りにしている」と言いたいだけなのに、口からは刃しか出てこない。このままでは、初対面で険悪になる。
私は二人の間へ、滑り込むようにお茶を差し出した。
「失礼いたします。団長様、長旅でお疲れでしょう。——お嬢様は、護衛のお人柄を、剣ではなく言葉で測ろうとなさる方です。無口な方ほど信が置ける、と常々おっしゃっておりますので」
半分は本当で、もう半分は、たった今私が捏ねた解釈だった。お嬢様の棘を、別の意味に翻訳して、二人の間にそっと置き直す。
お嬢様は、ふん、と顔を背けた。否定はしない。——肯定の合図だ。
ローランは少し黙ってから、お嬢様にではなく、私の方を見た。
「……今のは、令嬢の言葉か。それとも、お前の言葉か」
(——え)
心臓が、ひとつ跳ねた。
武骨なだけかと思っていた鋼色の目が、まっすぐにこちらを射ている。ごまかしを許さない、戦場の目だ。
私は、完璧な角度で礼をした。声だけは、いつもの侍女のまま保つ。
「侍女が、主の意を汲んでお伝えしたまでにございます。出過ぎた真似を、どうかお許しください」
「いや」
ローランは短く首を振った。
「主の機嫌と、客の疲れと、二人の間合いを、一息で測って割って入った。……ただの侍女の動きじゃない」
(まずい)
背筋が冷たくなる。この人は、武で人を見る。先を読む者の身ごなしを、肌で嗅ぎ分ける。私が一番、気づかれてはいけない種類の人間だ。
「買いかぶりでございます。長く同じお屋敷におりますと、自然と、そうなるだけで」
「そうか」
そうは言ったが、目は逸れなかった。
「名は」
「……ソラ、と申します」
「ソラ」
ローランは、その二文字を、確かめるように一度だけ繰り返した。剣の手入れでもするみたいな、妙に丁寧な発音だった。
なぜだろう。警戒しているはずなのに、名前を呼ばれただけで、胸の奥が、ほんの少しだけ、落ち着かなくなる。
(……何、今の。やめてほしい。この人は攻略対象。私が、関わっていい相手じゃない)
私の仕事は、お嬢様を破滅から救うこと。恋愛フラグなんて、私の管轄の外だ。——そう、自分に言い聞かせる。
夕刻、お嬢様の私室にお茶を運ぶと、エリゼお嬢様は窓辺で刺繍の枠を弄んでいた。針は、さっきから一目も進んでいない。
「……あの騎士団長」
背を向けたまま、ぽつりと、お嬢様が言った。
「無口で、無作法で、まるで気が利かないこと。あなたが間に入らなければ、わたくし、危うくあの朴念仁を本気で叱るところでしたわ」
(叱る、ね)
本当は、感謝の言葉だ。私が割って入ったおかげで角が立たずに済んだ、と——お嬢様は、たぶん、そう言いたい。ただその感謝が、お嬢様の口を通ると、いつも嫌味の形に削られて出てくるだけで。
「差し出がましい真似を、お許しください」
「許すも何も」
お嬢様は刺繍の枠を置いて、ようやくこちらを向いた。硬質な青い瞳が、ほんの一瞬だけ、迷うように揺れる。
「……あなたは、いつもそう。わたくしが言い損ねたことを、先回りして、勝手に拾っていくのね。気味が悪いくらいに」
気味が悪い。——たぶん、ありがとう、の意味だ。
「お褒めにあずかり、光栄でございます」
「褒めていなくてよ!」
ぷい、と背けられた頬が、ほんのり赤い。氷の薔薇にも、ちゃんと体温がある。
(……ほんと、放っておけない人)
破滅させたくない、という一行が、私の中で、また少し太くなった。
その夜。厨房の隅で、私は今日の出来事を、頭の段取り帳に書き留めていた。
護衛の前倒し。早すぎる登場。誰が、何のために、進行表を書き換えたのか。
ひとつ、嫌な符合に気づく。昨日ほどけかけた噂も、今日の早すぎる護衛も——どちらも、お嬢様とローランを、本来より早く近づけようとしているように、見えなくもない。
(……まさか、ね)
筋書きを元へ戻そうとする、誰かの手。私はまだ、その手つきの正体を、何も知らない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。あの鋼色の目は、きっともう一度、私を見る。——そういう目を、していた。




