第3話 その金は、どこから湧くのか
指が、一枚の紙の上で止まった。
(……この出費、流れがおかしい)
雨上がりの午後。帳場で、私は出入りの支払い記録を整えていた。退屈なはずの作業だった。けれど、布地商への支払いが、先月だけ、妙に多い。納めた品目は変わらないのに、金額だけが膨らんでいる。差額は小口に分けられ、使途の欄は空白。——誰かが、屋敷の金の流れに、こっそり別の配線を一本、噛ませている。
前世の癖で、私はそれを仕込みの予算と呼ぶ。何かを起こすための、裏の資金だ。そして今この屋敷で、わざわざ金をかけて起こしたい出来事なんて、ひとつしかない。
お嬢様の、醜聞。
記憶を繰る。ゲームの中盤、エリゼお嬢様には『使用人に給金も払わず、こき使う強欲な令嬢』という悪評が立つ。その証拠とされるのは、捏造された出納帳と、金で買われた使用人の証言だ。——つまり今、誰かがその準備のために、金を動かしている。
金は、必ず上流から流れてくる。流れを遡れば、源に着く。
「ハンナ」
私は同僚を手招きした。屋敷の噂という噂は、この子のところに集まる。
「最近、急に羽振りのよくなった出入りの子か、使用人、いない?」
「えー、なによ藪から棒に。……あー、でも一人いるわ。御用聞きのレフ。あの子、先週からお母さんの薬を、急にいいやつに変えてさ。御用聞きの給金で、そんな薬どこから出てんのって、みんな噂してる。——って、なんでそんな顔すんの。あんたまた、何か嗅ぎつけたわけ?」
「まさか。ただの、帳簿の世間話よ」
(……当たり。でも)
胸が、ちくりとした。金の経路の末端には、たいてい、いちばん弱い人間が立っている。
裏を取るには、町の薬屋と、布地商の帳簿を照らす必要がある。けれど侍女の私には、その立ち入りの権限がない。
迷ったのは、一瞬だった。私は、中庭で剣の手入れをしていた騎士団長のもとへ向かった。
「団長様。不躾なお願いがございます。——町の、とある店の取引を、確かめていただけませんか。お嬢様の名誉に、関わることかもしれません」
ローランは、布で刃を拭く手を止めた。鋼色の目が、まっすぐにこちらを向く。
「証拠は」
「まだ、ございません。あるのは、金の流れの、違和感だけです」
普通の主人なら、侍女の勘など相手にしない。けれどローランは、少しの間黙ってから、剣を鞘に納めた。
「お前の違和感は、たいてい当たる。——行ってくる」
(……そんなに、簡単に信じるの)
胸の奥が、また落ち着かなくなる。私は慌てて、その感覚に蓋をした。今は、仕事だ。
その日の夕方、私はレフを、厩舎の裏で見つけた。
問い詰めるつもりは、なかった。私はただ、帳場で写してきた一枚の紙を、そっと差し出した。御用聞きの月の稼ぎと、彼の母が新しく飲みはじめた薬の値段。二つの数字が、どう逆立ちしても釣り合わないことを示す紙を。
それだけで、彼の顔が、紙みたいに白くなった。
「……っ、おれ、おれは、ただ」
「大丈夫。分かっているの」
私は、できるだけ静かに言った。
「どなたかにお金を渡されて、布地商の受領印を、少し細工なさった。それだけ。——お母様の、薬代のために。違いますか?」
レフは、泣きそうな顔で、こくりと頷いた。
この子は、悪人じゃない。ただ、いちばん弱いところを、誰かに正確に狙われただけだ。叱っても、突き出しても、何も解決しない。金の源が残っていれば、また別の、いちばん弱い子が、同じ場所に立たされる。
潰すべきは、この子じゃない。金の、配線そのものだ。
「細工した書類は、全部、私に預けてちょうだい。それから——お母様のお薬は、これからお屋敷の薬棚から出させます。お嬢様には、私からお願いしておきますから」
「……どうして、そこまで」
「あなたを罠に使った相手の、思惑を外したいだけ。それだけよ」
半分は本当で、もう半分は——たぶん、お嬢様なら、この子をこうやって拾うだろう、と思ったからだった。
夜になって、ローランが町から戻った。
「布地商の裏帳簿。薬屋の符牒。合った」
刃のように短く、彼は言う。
「先月の過払いは、別名義から流れた裏金だ。……証言の買収も、仕込まれかけていた」
「ありがとうございます。これで、もとが辿れます」
私は、レフから回収した受領印の控えと、ローランが持ち帰った符牒、そして帳場の出納帳を、机に三枚、並べた。
(受領印を細工した日。裏金が動いた日。布地商の過払いを計上した日。——三つが、同じ週に噛み合ってる)
ばらばらに見えた数字が、一本の線でつながっていく。配線の図が、頭の中で光って見えた。金は布地商を迂回し、ある男爵家の名義を経由して、レフの手に届いていた。そして、その男爵家にさらに金を出させている、もう一段上流の手——その口座の動かし方、足のつかない迂回の組み方に、私は見覚えがあった。
(この手つき。几帳面で、臆病で、自分の名は決して表に出さない迂回の仕方……知ってる)
筋書きが『ヒロイン』の椅子を用意している、あの子。お嬢様を、その椅子から蹴落として座るはずの——シャルロット。本来なら、まだ表舞台にいないはずの名前だ。
ともあれ、今夜の分の配線は、確かに断った。布地商を経由する裏金のルートは、もう流れない。私は段取り帳から、一行、はっきりと消した。今日の発火点は、消火完了。
「……筋を読んだのは、お前だ」
並べた三枚を見て、ローランがぽつりと言った。その声が、妙にまっすぐ胸に届いてしまって、私は礼の角度を、いつもより少し深くして、顔を隠した。
その夜。お嬢様に薬棚の件を願い出ると、お嬢様は刺繍の手も止めずに、こう言った。
「……勝手になさい。使用人の一人や二人、薬棚の薬で診たところで、減るものでもなくてよ」
減るものでもない、ね。——許可、という意味だ。
(ほんと、放っておけない人)
翌朝。
帳場を開けて、私は、ぴたりと動きを止めた。
昨日、確かに断ったはずの過払いが——今度は別の業者の請求書の中に、また一行、しれっと立ち上がっていた。誰の手も触れていないみたいに。糸を一本抜いても、模様が、ひとりでに縫い直されていく。
(……源を断っても、また湧いてくる)
背筋を、あの冷たいものが、また撫でた。今度の糸は、昨日とは別の場所に、新しく張り直されている。
廊下の窓から、雨上がりの庭を見下ろす。素振りに戻ったローランが、ふと顔を上げて、こちらを見た。目が、合う。
彼は何も言わなかった。ただ、その鋼色の目は、もう『ただの侍女』を見る目では、なかった。




