第1話 断罪は、一年後の予定でした
――悪役令嬢の破滅は、一年後にもう決まっている。
それを知ってしまった専属侍女が、たった一人、“予定表”から破滅を消しにかかります。令嬢でも聖女でもない、侍女が主人公のお話です。
短編作品の連載版です。
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シャンデリアの光の下で、男の声が広間を裂いた。
「エリゼ・フォン・リンドルフ。お前との婚約を、ここに破棄する」
白銀の令嬢が、ただ一人、衆目の中に立ち尽くしている。氷の薔薇と呼ばれた女が、花びらを毟られるように、すべてを失っていく——
——というのが、一年後の今夜、起こるはずの出来事だった。
私は雑巾を握ったまま、廊下にへたり込んでいた。
(……は? 今の、なに)
記憶が二重写しになる。前世。残業明けの深夜、布団に倒れ込む寸前までやり込んでいた乙女ゲーム『銀の薔薇と聖約の騎士』。その断罪エンドのスチル。そして今、目の前にあるのは——磨きかけの大理石の床と、見覚えのある公爵家の紋章。
つまり、こういうことらしい。私は死んで、よりにもよってこのゲームの世界の、悪役令嬢付きの——名もなき専属侍女に、転生した。
普通なら、ここで絶望するか、神に文句のひとつも言うところだろう。けれど私の頭をまず占めたのは、もっと切実で、もっと打算的な計算だった。
あの断罪エンドで、悪役令嬢エリゼは国外追放される。お家は取り潰し。そうなったとき——専属侍女の私は、どうなる?
答えは、考えるまでもない。
この世界に、私は身寄りもない。戸籍もない。前世の貯金も、磨いてきた技術も、ここでは一円の価値もない。私がこの世界で立っていられる足場は、たったひとつ。『リンドルフ公爵家の侍女』という、この立場だけだ。
お嬢様が沈めば、私も一緒に沈む。
つまり、これは人助けなんかじゃない。お嬢様の破滅を防ぐことは、そっくりそのまま、私自身の生存戦略だ。
そう腹が決まると、思考はいつもの仕事モードに切り替わった。前世はしがないシステムエンジニアだった。納期に追われ、他人の書いた仕様の穴を埋め、落ちる寸前のサービスを夜通し看取るのが仕事だった。だから、こういう問題の解き方なら、体が覚えている。
(断罪エンドまで、残り約三百六十五日)
破滅は、呪いでも運命でもない。あれは条件の積み重ねだ。誰かが悪い噂を流し、誰かが裏で金を握らせ、決定的な物証が一枚そろったとき、はじめて断罪は成立する。逆に言えば——成立する前に、条件を一つずつ消していけば、あの夜会は起動しない。
雰囲気でなんとなく破滅を避けるんじゃない。発生条件を、出口の方から落としていく。
私の頭の中の段取り帳から、『お嬢様、破滅』という一行を、これから一年かけて、きれいに消す。それだけだ。
「ちょっと、ソラ! あんた朝っぱらから廊下で百面相して、どうしたのよ」
赤毛のおさげが、腰に手を当てて私を見下ろしていた。同僚侍女のハンナ。攻略の記憶によれば、この屋敷で数少ない、心から信用していい相手だ。
「……なんでもない。ちょっと、人生の納期を確認してただけ」
「は? 何それ。寝ぼけてんの? ——あ、そうだ、聞いた? 近いうちに、お嬢様に騎士団から護衛が付くんだって。なんでも団長様直々に、って話よ」
私の手が、一瞬止まった。
(……団長様。ローラン。攻略対象の、騎士団長)
おかしい。彼がこの家に関わってくるのは、記憶では、もっとずっと後のはずだった。なのに、もう動き出している。
——予定表の方が、先に書き換わっている?
「ソラ? また百面相」
「……なんでもない。ほんとに」
その時、廊下の奥から、空気ごと温度を下げるような足音がした。
白銀の巻き髪。背筋は定規で引いたようにまっすぐで、青い瞳はこちらを一瞥しただけで凍てつく。氷の薔薇——エリゼ・フォン・リンドルフお嬢様、ご本人だ。
「……朝から使用人が床に座り込んで、ずいぶんと優雅なこと。リンドルフ家の侍女は、膝で掃除をする習わしにでもなりましたの?」
来た。台本どおりの、棘だらけの第一声。
普通ならここで侍女は萎縮して泣く。そうして、高慢で使用人を虐げる令嬢という悪評が、また一滴、断罪の器に溜まっていく。
私は雑巾を背に隠し、スカートをつまんで、完璧な角度で礼をした。
「申し訳ございません、お嬢様。床の冷えを確かめておりました。今朝は冷え込みますので、お嬢様が朝のお散歩にお出になる前に、東の回廊へ火を入れておこうかと存じます」
エリゼの眉が、ほんのわずかに動いた。
「……別に。わたくしのために火を入れろとは、言っていなくてよ」
「はい。お嬢様のためではございません。わたくしども使用人が、凍えて働けなくなっては困りますので」
「…………そう。なら、勝手になさい」
ふい、と顔を背けて、お嬢様は行ってしまう。——と思ったら、回廊の隅で震えていた下働きの少年の前で、足を止めた。
「みっともない。そんなところで凍えていられては、目障りですわ」
言うが早いか、お嬢様は自分の肩掛けを外し、少年の肩へ押しつけるように掛けた。そうして返事も待たず、今度こそ足早に去っていく。耳が、ほんの少しだけ赤かった。
ハンナが小声で囁く。「うわ、相変わらず氷点下。あんた、よく平気ね」
平気じゃない。でも私は、たった今、見てしまった。
優しさの出力が、全部、棘に化けて出てくる。これは欠陥なんかじゃない。そういう仕様の人なのだ。彼女はただ、致命的に不器用なだけの、善人だ。
——まずいな、と思う。
さっきまで、これは私の生存戦略だったはずだ。なのに、あの赤い耳を見てしまった今、頭の段取り帳の隅に、計算とは違う一行が増えている。
(この人を、破滅させたくない)
打算に、情が混じり始めた。厄介きわまりない。けれど、悪い気分じゃなかった。
さて、と私は記憶を辿る。断罪の最初の燃料。ゲーム序盤、エリゼには、侍女に冷酷で解雇を乱発する令嬢という悪評が立つ小イベントがあった。発生源は、今日の昼、出入りの布地商人に流される、たった一言の世間話だ。
出口は、わかっている。
◇
その日の昼。
応接間に通された布地商人は、商談の合間に、いかにも世間話という顔で口を開きかけた。
「いやはや、リンドルフ家のお嬢様は、その……噂に違わぬご気性で。先日も侍女が三人、暇を出されたとか——」
そら来た。これが、噂の種。ここで誰かが相槌を打てば、その一言は明日には街の井戸端に届き、明後日には街じゅうに咲く。
私は、湯気の立つお茶を、商人の前に静かに置いた。
「あら。それは、どちらでお聞きになりまして? ——というのも、うちのお嬢様、この半年、お一人も使用人を辞めさせてはおりませんの。先月など、熱を出した洗濯係に、ご自分の薬をお分けくださったほどで」
半分は本当で、もう半分は、私が今朝のうちに薬棚の出納記録を、そう読めるように整えておいた事実だった。嘘はついていない。並べ替えただけだ。
商人の笑みが、宙で固まる。噂を運ぶ者は、嘘つきと同席したがらない。彼はそそくさと話題を、春物の布地へ戻した。
一滴、拭き取り完了。段取り帳から、小さな一行を消す。三百六十五日の、最初の一日。上々の滑り出し——のはずだった。
◇
ところが、だ。
夕暮れ、帳場の戸締まりをしていた私は、ふと手を止めた。
昼間、たしかに私が拭き取ったはずの噂の種が、まるで誰かの手でそっと結び直されたように、別の使用人の口から、もう一度ほどけかけている。「……ねえ、聞いた? お嬢様が、また——」と。
(……気のせい、よね)
糸を一本、抜いたはずだ。なのに、模様が、元へ戻ろうとしている。
背筋を、冷たいものが撫でていった。
予定表が勝手に書き換わり、消したはずの一行が、ひとりでに戻ってくる。
これは——私の知らない仕様だ。




