7話 悪夢
夢を見た——。
いや、夢と言っても悪夢だけど。
「お父さん……?」
これはたぶん、数ヶ月前の話だ。
夜中だった。寝入っていた幸果は、がさごそと聞こえてきた音で目を覚ましたのだ。
そこへ目をやると、お父さんが部屋の玄関で靴を履いているのを目撃した。
これが幸か不幸だったのかは、今でもよくわからない。
「……起こしちゃったか」
気だるそうな舌打ちが聞こえた。気のせいだと思いたかったけど、やっぱりお父さんは自分に舌打ちをしたのだ。……自分の娘に。
「……どこ行くの?」
「……ちょっと散歩」
「こんな時間に……?」
「…………」
返事が返ってこない。その異常さが漂う謎の沈黙が怖かった。
「……すぐ戻るから」
「……うん」
そう言ってお父さんは、ドアをガシャンと閉めて部屋を出て行った。何度も聞き慣れたドアの開閉音。
ただ、その時のドアが閉められた音は、今でも鮮明に頭の中に残っていた。あの、突き放されたような悲しい鉄の音……。
「…………」
その後も、ずっとお父さんを待ち続けていた。明日は入学して間もない高校がある。でも、なかなか寝付けなかった。
なんだか胸焼けがすごかった。よくわからない変な空気から、言語化できないような恐怖を感じた。心臓がドクドクと脈打つのが、普段よりも鮮明に聞こえる。
よくわからないけど、強く感じる不安という感情が、布団に一人包まる幸果を支配していた。
——父は首を吊って死んでいた。
それを聞かされたのは翌日の早朝、警察から電話がかかってきたのがきっかけだった。
あぁ、死ぬんだ……。自分の娘を置き去りにして死んじゃうんだ……。
悲しいとか、そういう感情は不思議と湧いてこなかった。「あぁ、そうですか」とあっさりした感情しか残らなかった。
不安に思っていたことも、いざ現実に突きつけられれば案外すんなり受け入れられるものらしい。
まあ、自分の感情が他者と比べて壊れていなければの話だけど……。
「……弱いなぁ、人って」
*
ハッ、と目が覚めた。まるで誰かに電源を落とされて、次の瞬間にはまた入れ直されたような――そんな唐突すぎる目覚めだった。
「…………」
視界に映るのは、見覚えのある独特な形をしたシミ。あぁ、これうちの部屋の天井じゃん。
「…………」
窓から差し込む月明かりが、静まり返った部屋を淡く照らしていた。
意識が安定してくると、やがて頬にひんやりとした感触が残っていることに気づく。
指先でそっと触れると、涙だった。
「……お姉ちゃん?」
すぐ隣から、小さな声が聞こえた。
幸果の体に寄り添って眠っていたポメッコが、眠たそうに目をこすりながら身を起こす。
せっかく寝かしつけたのに、起こしてしまったらしい。
「……なんでもない」
……思い出したくなかったんだけどなぁ、あんな過去。
悪夢のせいで、嫌な汗が首や額を支配していた。
ポメッコに変な心配をかけさせたくない。幸果は必死に誤魔化すように、強がりながら目についた涙を隠すように拭った。
けれど——
「……どうしたの、急に」
ポメッコは何も言わず、幸果に身を寄せる。ぎゅうっと、小さな体で抱きしめてきた。
「……よしよし」
「……」
幼い手が、ゆっくりと背中を撫でる。優しく、何度も。
その温もりは驚くほどあたたかくて、人の体温なんて久しく忘れていた幸果の心に、じんわりと染み込んでいく。
胸を締めつけていた見えない鎖が、少しずつ溶けていくようだった。
「…………」
幸果もまた、小さな体を抱きしめ返す。
どうしてだろう。こうしているだけで、さっきまで胸の中を埋め尽くしていた不安が、少しずつ遠ざかっていく。
悪夢の残滓も、胸の痛みも。今だけは、この温もりが全部忘れさせてくれる気がした。
静かな夜の中。二人は互いのぬくもりを確かめ合うように寄り添い、そのまま穏やかな眠りへと落ちていった。
今度はもう、悪い夢を見ることはなかった。




