5話 小さな王子様
幸果の家は、いわゆる貧乏というやつだった。
会社が倒産して、酒に溺れた始めた父に呆れた母は、自分を置いて家を出ていったのだ。
それからは父と二人で暮らしてきたけど、父は心を入れ替えてバイトと借金をしながら自分を養ってくれた。
でも、いくら親といえど所詮は一人の人間だった。自分が高校生になってすぐ、父は死んだ。
自殺だった。
おかげで高校も、入学早々に退学する羽目になった。とにかく生きるために、お金を稼がなくちゃならないから。
「……お父さんのばーか」
獅子神と別れたあと、夜道を死人のようにふらふらと歩いていた。
父は借金をしていたと言ったけど、その借りていたところがよくなかったのだ。
借りていた場所は組事務所、いわゆるヤクザだった。
さっきの白髪の目立つエロジジイがそう。
「明日までに二十七万とか、そんなの無茶だよ……」
三十万なんて大金がどんなものか、幸果には到底イメージがつかない。それだけあったら、近所にある高級焼肉店にも行けるのかな。一人でなら、どこか遠くへ旅行にだって行けるかもしれない。
「…………」
お金の重さは誰よりも知っているつもりだ。でも、三十万という大金になると、急にお金というものがわからなくなってくる。お金ってなんだろう。どうしてみんなお金を稼ぐんだろう。
借金がないなら、ちょっと働いてその日生きられる額を稼ぐだけでいいじゃないの。少なくとも、自分はそう思う。食べて寝て、毎日怖い人に取り立てられる恐怖を感じることもない。
そんな平凡で、普通の生活ができればそれでいいのに。
「……夜逃げ」
ふいにそんなワードが頭をよぎった。……でも、やっぱりそれも難しいよね。
今の自分は何も持っていない。そう遠くには逃げられないし、ちょっと逃げたくらいじゃ、あのジジイはどこまでも追ってきそうだもん。
それに関しては、長く取り立てられた経験から容易に想像がつく。あのジジイ、意外と執念深いんだよ。
「……終わってる」
お金を払わなかったら、自分は明日どうなるのか。考えるだけでもゾッとする。
……本当に終わってるよ。クソみたいな絶望的状況下、まさに崖っぷちだ。
でもだからといって、人生を全て放り出して、死んでしまおうなんて決断できるほど、悲観的にはなれなかった。
まだ自分の中に、死にたくないという気持ちがどこかにあるのだ。
街灯に照らされた歩道をとぼとぼ歩き、やがて自宅アパートに着いた。
「あっ、お姉ちゃんおかえりなさい!」
「……なんでいるの」
自宅玄関のドア前。そこには見知ったチビがいた。今朝のやりとりはどこにいったのやら、何食わぬ顔でお出迎えしてきた。
「やっぱり行くとこなくってさ。警察に声かけられるし犬に吠えられるしで、心が折れちゃったの」
「なら自分の世界に帰りなって。……キミは、私と違って居場所があるじゃん。あったかいお家があるんでしょ? ……なんでわざわざ私んとこに戻ってくるのさ」
「だって、お姉ちゃん優しいもん! 僕にパンくれたし!」
軽快な口調でそう言うポメッコ。幸果は深いため息をつきながら、チビすけを無視して部屋に入った。今はこんなガキンチョに付き合っている場合じゃない。頭が痛くなる。
「ねぇねぇ、なんでそんなに元気ないの?」
「……うるさい。静かにして」
部屋に入るなり、すぐさまスマホの口座アプリで残高を確認する。そこから、向こうしばらくの生活費を差し引き計算。
計算して計算して計算して計算して——
「ダメだ……。出せても一万が限界……」
わかっていたことだけど、二十七万も出せるわけがない。この部屋の家賃だって安くないんだから。
ならもう、本当に逃げるしかないのかな? いや、それもやっぱり厳しいよね。
……なら、今自分にできることは——
「ねぇってばー。ちょっとはかまってよー」
自分の肩を揺するポメッコをシカトし、幸果は弾かれるように家を飛び出した。その足で銀行に駆け込み、手数料を払って一万……いや、二万円札を引き出す。
そうして、息切れして喉から血の味を感じながら、幸果はダッシュで獅子神の元へ向かった。こういうのは、できるだけ早い方がいいんだよ——。
「……あの、すみません」
「おっ、なになに幸果ちゃん。やっぱり覚悟決めた感じぃ?」
部屋に入ると、獅子神がにたぁと嫌な笑みを向けてきた。
「すみません。これ……」
幸果は握りしめたなけなしの二万円を、獅子神の座るテーブルに置く。
「……これで、今月は許してください。お願いします!」
そして、幸果は床に手をつき、頭を下げた。
——土下座だ。
これが、今の幸果にできる精一杯の誠意の見せ方だった。このくらいしか、この場を回避する術が見つからなかった。短い人生で初めての土下座。それでも、生き延びるためにはやるしかない。
屈辱を抑えるように、砕けんばかりに歯を食いしばる。こんないたいけな少女の土下座は、見ていて痛々しいものがある。
でも獅子神は、これを見ても全く意に介さなかった。
「そっかぁ、じゃあ仕方ないねぇ……」
獅子神は地に頭をつける幸果に歩み寄る。そして、強引に髪を引っ張り上げ、無理やり顔を上げさせた。
「やっぱり、身体で頑張ってもらおっか」
「…………」
あぁ、結局こうなるんだ。こんなんで許されるわけないってわかってたけど、やっぱりダメだった。
泣きながら引き出した二万円も、自分の気持ちも尊厳も押し殺した初めての土下座も。全部無駄に終わっちゃった。
「ほら、いいからさっさと立て!」
「っ……!」
獅子神が、幸果の服を剥ぎ取ろうと衣服に手をかけた。
……もう、ダメだ。
そんな諦めの言葉が頭をよぎる。
と、その時だった——。
「わっ! なんだ!?」
突如、窓ガラスがパリンッ! と壮大な音と共に突き破られた。中にいた一同が皆、窓へ反射的に目を向ける。
外から何かが入ってきたのだ。颯爽と侵入してきた黒くて小さいそれを見て、最初は鷹か何かかと思った。
「おい、なんだ!」
でも違った。それは、自身もよく知っているガキンチョ——
「お姉ちゃん、大丈夫!?」
「——キミは」
ポメッコだ。
「銃構えろ!」
その場にいたスーツ共が、ポメッコに向けて銃を構え出した。この緊急時に慌てる気持ちはわかるけどさ、子供相手になんて外道な……。
すると男たちは容赦なく、本当に発砲し出した。でもどういうわけか、銃弾はポメッコに当たらない。
「ふん、そんなの効かないもんねぃ」
ポメッコの周りにバリアでも張られているかのように、放たれた銃弾がことごとく弾き返されていく。
「なんだこのガキは!」「他の組の回しもんか!?」
ヤクザたちはわけもわからず狼狽えていた。無理もない。こんな非現実的なファンタジー現象、初見でついていけるわけがない。実際、自分も最初はそうだったもん。
「くそったれ、ぐわっ!」
混乱するヤクザたちを待たずに、ポメッコは手から雷電を放ち、数名の男たちを関電させた。残りの輩にも、手から炎や水の弾丸を放ち見事に命中。全員華麗に……いや、半端力尽くで気絶させてみせた。
残るは幸果の腕を掴む獅子神だけだ。
「なんだ貴様! 餓鬼だからってタダで済むと思って——」
「おじちゃん、お姉ちゃんから離れてよ」
ポメッコは睨むように顔を顰め、幸果を掴む獅子神に手を向けた。そして、容赦なく顔面に水のビームを放つ。
「げぼぉあっ!」
あまりの威力に、地に押し飛ばされた獅子神。幸果は慌てて脈の確認をする。
……よかった、息はある。
貧乏者にプラスして、殺人者の肩書きまで負うのはごめんだもんね。
「お姉ちゃん大丈夫!? 怪我とかない!?」
さっきまでの怖い顔つきはどこへやら、ポメッコはすぐに顔を緩めて、幸果の元に駆け寄った。心配そうな顔をして、幸果の顔を覗き込む。
「……お姉ちゃん、震えてるよ?」
「…………」
なんかもう、いろいろありすぎて疲れちゃった……。でも今は、なんかすごく……。
「う、うぅ……」
助かった……。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁん! 怖かったよぉぉぉぉ!」
今までどんなに泣きたくなっても我慢できたのに。泣かずにちゃんとやってこれたのに。
こんな小さな子供の前で泣いてしまうなんて、我ながらほんとに情けない……。
「よしよし。大丈夫大丈夫」
泣き喚く姿に引きもせず、少年はその小さな手で、幸果の頭を優しく撫でた。
今はただ、この小さな手に縋っていたい……。




