4話 地獄です
そうして次に訪れたのは、都内に設けられた大型ショッピングモール。
その中に設置されたパン屋さんが、幸果のバイト先だ。
「ありがとうございましたー……」
レジ越しにお決まりの挨拶を口にする。
……うん、自分でも分かる。びっくりするくらい覇気がない。
だって仕方ないじゃん。バイトが終わったあとに向かわなきゃいけない場所を思い浮かべるだけで、胃がきゅっと縮むんだから。
「はぁ……」
自然と深いため息が漏れる。ついでに頭まで痛くなってきた。
そんな矢先に、隣のレジから冷たい声が飛んできた。
「ちょっと、花守さん。なによ、その接客態度は」
しまった。声の主は大学生の先輩、鹿島さんだった。
黒縁メガネを人差し指でくいっと押し上げながら、鋭い視線をこちらに向けてくる。
「お金をもらって働いてるんだから、もっとやる気を出しなさい」
うっ、その言葉は刺さる。仕事で『お金をもらってるんだから』なんて言われると、本当に反論できない。正論すぎるもの……。
「……すいません」
とりあえずここは、素直に謝っておくのが吉。だって鹿島さんは、間違ったことを言ってない。
「謝るくらいなら、最初からちゃんとやって」
「……はーい」
鹿島さんは小さくため息をつくと、そのまま次のお客さんの対応へ戻っていった。
……いや、そこまで言わなくてもよくない? こっちだっていろいろ事情があるんだけど。
まあ、そんな言い訳をしたところで通じる相手じゃないのは分かってる。だから口には出さない。
正直に言えば、幸果は鹿島さんが少し苦手だった。
悪い人じゃない。仕事もできるし、言ってることはいつだって正しい。
でも、その正しさを容赦なく人に向けてくるタイプなのだ。だから、なんとなく近寄りがたい。
実際、このパン屋で鹿島さんが誰かと楽しそうに雑談している姿を一度も見たことがない。たぶん……幸果だけじゃなく、みんな少し距離を置いてるんじゃないかな。
「……まっ、なんでもいっか」
気持ちを切り替えて、ちゃっちゃと仕事に戻ろう。
「お疲れ様でした、お先に失礼します」
「はい、お疲れ様」
厨房にいた鹿島さんに挨拶をして、幸果は颯爽と職場を発った。
夕暮れ時、夏の暑い外を駆けて銀行に向かう。早くしないと手数料がかかっちゃうから。
三万円ほどお金を引き出して、休む間もなく銀行を後にした。
緊張と恐怖で心拍数が上がるのを自覚しながら、暗い気持ちで本日最後の目的地に向かう。
人気の少ない場所に建つ古びたビル。見上げるようにそれを眺め、ある一室の窓を見つめた。その瞬間に体が萎縮し、恐怖で強張ってしまう。まるで大蛇に全身を巻き付かれたみたいに。
「……よし」
意を決してビルに入り、エレベーターで三階まで行く。
そのフロアの端にある、獅子神事務所と書かれた一室のドアをノック。幸果は恐る恐る中へと入った。
「……失礼しまーす」
震えるような掠れた声で、中へと足を踏み入れた。
そこには、スーツを着込んだ強面な男たちが何人も佇んでいる。中には額や頬に龍の刺青をしている人もいた。スーツ越しでもわかるほどにガタイもいい。
一発殴られただけで死んでしまいそうな力強さが伝わってくる。
そして、皆が刺すような鋭い目で自分を見つめていた。
何度も通っているのに、相変わらずこの恐ろしい空気には慣れない。
「…………」
そんな男たちが囲む形で、部屋の中央に中年の男がいた。ところどころ白髪が目立ち、これまた高そうなソファーに腰掛けている。
「やぁ幸果ちゃん。今日もちゃんと逃げずに来て偉いねぇ」
「…………」
煽るような口調で、白髪の男が幸果に言った。舐めるような視線がとにかく気持ち悪い。
獅子神。この男が幸果の債権者だ。正確には父が残した借金を返させられている形なのだけれど。
「……すみません。これ今月のお金です」
「おっ、いいねぇ」
震えた手で三万の入った封筒を差し出す幸果に、獅子神は軽快な口調でそれを受け取る。中身を確認するなり、にやりと嫌らしい笑みを浮かべた。
「幸果ちゃぁん。こんな調子じゃいつまで経っても借金返せないよぉ? 三百万もあるんだからさぁ」
三百万……。何度聞いても頭が痛くなる。うちの父はなんてものを残してくれたんだ。死ぬんならちゃんとお金を返し切ってからにしてほしかったよ……。
「すみません、すみません……」
獅子神の圧をかけるような語り口が、幸果の体の震えに拍車をかけた。今はとにかく下手から謝り続けるしかない。相手を不快にさせれば一巻の終わりだから。
どうして自分がこんな目に……。とは、ここに来るたびに毎回思う。
「じゃあ、今月からは三十万ずつ返していこうか」
「…………え」
冷たい空気が身体中を通り抜ける。吐き気がするほどの嫌な寒気がした。
「できるよね?」
「…………」
さすがに、言葉に詰まる。返せるわけがない。ただでさえ生活を維持するのに精一杯なんだから。月三十万なんて、社会人でも無理だよ。
「……できません。無理です、そんなの。返せません」
「そっか……。ならさぁ——」
立ち上がった獅子神が、こちらに歩み寄ってきた。身体を舐めるように見た後、幸果の肩にそっと手を置く……。
「幸果ちゃんが身体で払ってくれるんなら、すーぐ稼ぎ終わるんだけどなぁ」
「…………」
鳥肌が立つような、身体を撫でる手つき。嫌悪感が半端なく、とにかく気持ちが悪い。先方が冗談で言っているわけじゃないのは、明白に理解できた。
「……すみません。あ、明日には、残りの二十七万を持ってきます」
「……ふーん。あっそ」
つまらなさそうに目を細める獅子神。
だがしかし——
「ちなみに明日までに返せなかったら、その時は……わかるね?」
「…………はい」
もう、頷くしかなかった。そうする以外に、この場を切り抜ける術はない。
幸果は肩に置かれた手をどかして、そっと後退りをする。
そのまま頭を下げて、恐る恐る部屋を出ていった。




