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(12)目覚め

 頭の痛みで目が覚めた。杭を直接脳みそに打たれているような激痛で、マルクは呻き声を上げながら瞼を持ち上げた。


「……ここは、なんだ……?」


 一言でいうなら、神殿のような場所だった。山神に連れてこられた謎の空間によく似ているが、大きく違っているのは、壁や床がすべて滑らかな鏡で作られていることだった。複雑に入り組んだ壁と床が反射して、天井は万華鏡のごとく幾何学模様を描いている。どういう原理なのか、マルクが瞬きをするたびに模様は変化し続けていた。


 自分がどこに立っているのか分からなくなりそうだ。マルクは眩暈を感じながら、ゆっくりと床から立ち上がった。


 身体を動かしたせいで頭痛が酷くなった。なのに歩いたり飛び跳ねたりといった動作には何の支障もない。むしろ、今ならどこへだって走り出せそうな気さえしてくる。まるで身体だけ別人になったようだ。


「おれは……一体どうしたんだ」


 ここに来る前のことを思い出そうとするが、何一つ思い出せない。眉間に皺を寄せながら移り変わる景色をぼんやり眺めていると、鏡越しに自分の背後から黒い影が滲み出てくるのが見えた。


 驚愕しながら振り返ると、影は人の形へと変化していた。


 全身が真っ黒で、フードを目深にかぶった人型だ。そいつは山神の洞窟の中にもいた、泥のようでいて指先から絶えず砂を落としている化け物だった。


「おまえは……!」


 マルクは即座に腰から剣を引き抜こうとしたが、指先は宙を掻くだけだった。いつも下げていたはずの愛剣がない。


 素手で、勝てるか?


 固唾を吞みながら顔を上げると、男はすでにマルクの目の前に立っていた。音もなく一瞬で距離を詰められ、腹の底が大きく震えあがった。ディマオンのような圧倒的強者への畏怖ではない、山神か、それ以上の原始的な恐怖だった。


 無作法に伸ばされた男の掌が、ボロボロと崩れ落ちながらマルクの頬に伸びてきた。こちらの体温が吸われてしまいそうなほど冷たかった。


 恐怖で動けずにいるマルクへ、男は唇を寄せながらかすれた声を漏らす。


「Va,mi……mil……」

「な、なんだよ」


 男はのろのろと罅の入った唇を動かし、錆びた声で言った。


「ミレイユ……を、たの、む」


 ほたり、と微かに水滴が落ちる音がする。男は、フードの下で泣いていた。


 目の前が真っ白に染まる。光に包まれたというよりは、白い何かで遮断されたようだった。

 ぐるぐると全身が振り回されているような感覚がする。平衡感覚が完全に失せて、落ちているのか、立っているのかすら判別がつかなくなったころ。


「マルク!」


 ミレイユの声だ。意識した途端、気づけばマルクは瞼の裏を見ていた。


「ここは……」


 目を開けてみると、ミレイユとジョンスが泣きそうな顔でこちらを覗き込んでいた。少し遠い場所では立ったままこちらを見下ろすヨランダとゾーソンもいる。白く曇った空は今にも雪が降りそうで、薄く息を吐くと、口の中に冷たい空気が流れ込んできた。


 今ならはっきりと思い出せる。自分は魔物に食い殺されたはずだった。

 なぜ生きているのだろう。なぜ痛みもないのだろう。次々と疑問が湧き上がる中、マルクは押し寄せる魔物の群れに恐怖した。


「む、村は、戦いはどうなった!?」

「見ての通りよ」


 起き上がってすぐ、疲れ切ったヨランダが人差し指を村の外へ向けた。マルクが勢いよくそちらを振り返れば、想像を絶する光景が目に入った。


「な、んだよこれ。一体、何があったんだ!?」


 地面がなかった。正確には、百メートル近くの地面が、巨大な亀裂によって分断され、断崖絶壁と化していたのだ。対岸の崖は無数の白い木の根で埋め尽くされており、魔物の死体を貪り食いながらうねうねとこちら側の崖へ触手を伸ばしていた。

 マルクは軽い吐き気を覚えた。もしや、今まで自分たちが通ってきたカエヌディからアシル村への道の真下に、ずっとこんな化け物が潜んでいたのだろうか。


「グラトニーが間に合わなければ、どうなっていたことか」


 女性と男性が入り混じった声で、ゾーソンが静かに告げた。いや、今の彼はゾーソンではない。黒く染まった眼球や、額で冠のように青黒く輝く刺青は山神のものだった。彼の手足には魔力の残滓が残っており、ゾーソンとの契約通り、アシル村を守り抜いてくれたのだろう。


 マルクは麻痺した思考でそれだけを把握した後、もう一度村と森を分断する断崖へ視線を戻した。


 アシル村は救われたものの、何かとんでもないことが起きている。故郷へ繋がる道が分断されたせいか、荒波の中に放り出されたような途方もない孤独感がマルクを包み込んでいた。


「マルク。まずは下に降りるっすよ。ディマオンさんも起きたみたいっすから」

「……ああ」


 マルクは辛うじて返事をした後、ミレイユたちに支えられながらアシル村へと降りることにした。


 村の中はミレイユが外壁を作っておいたおかげで、ほとんど今朝と同じ状態だった。負傷者はディマオンとともに追撃に出た村の男たちと、押し寄せてきた魔物の群れに対処していた数人。だが、残念ながら村の防衛を買って出た男性の三人が亡くなった。今は男たちが総出で遺体を火葬する準備に入っているという。


 ヨランダとミレイユは負傷者の治療のために席を外した。残ったのはマルクとゾーソンだけだ。


「そろそろ……説明してくれないか? ゾーソン……いや、山神」


 マルクは傷一つない掌を焚火にかざしながら、向かいに佇んだまま動こうとしない山神をじっと睨んだ。何度見ても山神の姿には慣れないものだ。ゾーソンの見た目をしているのに、雰囲気やしぐさに彼の名残が欠片もない。死体と話しているような気分だ。


「そう急ぐなよ。こうなってしまった以上、お互いに時間はたっぷりとあるのだから」

「その言葉、もう魔物がアシル村を襲ってこないって意味で受け取ってもいいか」

「ふふ、どうとでも」


 山神はマルクの方を見ながら意味深に笑うと、粗雑な椅子に腰かけて行儀悪く足を組んだ。


「ふむ……久々の人間の身体はいいな」

「感心してる暇があったら、さっさと説明して、早くゾーソンを返してくれ」

「飯を食ってみたいのだが、誰ぞ用意してくれぬのか?」

「いいから話してくれって!」


 このまま雑談にでも入ってしまいそうな山神にしびれを切らすと、彼(彼女?)は仕方なさそうに肩をすくめた。だがすぐに話し出すようなことはせず、その視線はアシル村の人々へと向けられたままだった。


 山神とマルクから少し離れた場所では、女性と子供たちが遠巻きにこちらへ祈りを捧げていた。男たちはみな火葬の準備中で出払っているが、それも終われば彼女たちと同じように、何時間もああして山神に祈りを捧げるのだろう。マルクには、村人が誰一人としてゾーソンの心配をしていないのが不気味で仕方がなかった。


「貴様にはあれが奇妙に映るか。無理もない。ずっと外を知れぬ洞窟の国で暮らしていたようだからな」


 まるで心中を計ったかのようなセリフに、マルクは不快感を覚えずにはいられなかった。


「おまえに、おれの故郷の話はしていないだろう」

「生き返らせる前に、少しだけ記憶を覗かせてもらったのだよ」


 ようやく山神の目がこちらを向く。黒く染まった結膜は真夜中のカエヌディを連想させ、マルクは思わず目をそらした。こんな化け物越しに故郷を見てしまうなんて、恥以外の何物でもない。そのうえ、()()()()とさえ感じてしまうのも、あってはならないのに。


 山神はどこまでマルクの内心を察しているのか、まるで子供を諭すような口調で続けた。


「白霧の森の魔物がなぜああも凶悪なのか、考えたことはあるか?」

「……森に集まった魔素が、そうさせていると聞いたことはある」

「では、なぜ森に魔素が集まっているのかは?」

「さぁ、そういう気候なんだろ」

「ふふふ、貴様は研究者に向いておらんな。冒険家にも向いておらん」


 まったく求めてもいない評価をもらって舌打ちをする。山神はそれに対してニヒルに笑いながら、頬杖をついてマルクの顔を覗き込んできた。


「白霧の森には『霧』が封印されていると前に言っただろう。忘れたか?」

「……つまり、魔素があそこにだけやけに多いのは、その霧っていうのが何かをしているせいなのか?」

「惜しいな。正確には、我ら神獣がそうしているのだよ。霧があの森から外へと出てこないよう、空気中の魔素を操り封じ込めている。ま、私はつい最近まで霧の奴隷であったから、アシル村付近の魔物はかなり侵食されてしまったが」

「……その話と、さっきの断崖となんの関係があるんだ」


 低く問いかけながら焚火へ薪を投げ込むと、ぱちぱちと激しく燃え上がり始めた。眩い炎の向こう側で、山神は懐かしそうに目を細めた。


「白霧の森には私とは別の神獣がいてな。名はグラトニー。白霧の森の守護者だ」

「神獣に、名前があるのか?」

「当たり前だろう。貴様は私たちのことをなんだと思っているのだ?」

「いや……悪い」


 冷めた笑顔でそう凄まれてしまって、マルクは冷や汗をかきながら口をつぐんでしまった。確かに、冷静に考えれば彼らだって言葉を扱っているのだし、名前という概念があってもなんらおかしくない。アシル村に来てから、自分の偏った考えに気づかされてばかりだ。


「ほう。貴様はそこまで馬鹿ではないようだな」

「……は?」

「まあいい。それで断崖絶壁の話だったか。あれはグラトニーがこれ以上白霧を侵攻させぬために地面を切り裂いただけのことだ。崖から生えていた白い触手を見ただろう。あれが霧の一部で、我々の敵だ」

「あれが……霧の正体なのか?」


 山神は答えず、ゆるりと椅子から立ち上がった。


「あの黒髪の娘、ミレイユといったか」

「今度はなんの話だよ」


 ころころと話題が変わるのでイライラしていると、急に背筋に冷たいものが走った。驚きのあまり体が強張り、そっと視線を持ち上げると山神と目が合う。


「あの娘はすでに手遅れだ。もし今後、少しでも異変があれば貴様が殺せ」

「は……そんなこと、できるわけないだろう! 何を根拠にそんな……ッ!」

「貴様もうすうす気づいていたはずだ」


 怒りで口が回らないマルクの声を、山神は強い口調で遮った。


「あの娘の中には化け物が巣食っている。混じり合うあまり、どれが宿主か分かりもしないが、あれは霧よりもタチが悪い」

「質問に答えろ! おまえは、ミレイユに何をするつもりだ!」


 焚火を飛び越えて山神につかみかかると、祈りを捧げていた女性の村人たちから悲鳴が上がった。彼らが信仰する神が襲われたのだ。一歩間違えればマルクは村人たちに嬲り殺しにされるかもしれない。すぐに男たちが駆けつけてくる気配がするが、それでもマルクは山神を睨みつけるのをやめなかった。


 山神は至近距離で向けられる殺意を淡い笑みで受け止めると、いきり立つ女性たちを手で静止しながらマルクの耳元に囁いた。


「あの子を人間にしなければ、この世界の均衡は崩れ去る」

「……なんだよ、それ」

「殺したくないのならば、上手く使ってやれ。若人」


 とん、と軽く肩を押されただけなのにマルクはよろけた。気づいた時にはすでに山神はこちらに背を向けて、武器を担いでくる男たちを諫めていた。


 意味が分からない。ミレイユは少し魔法が使えて、精神的に追い詰められてしまった可哀想な少女だろう。それを化け物だなんて……。

 反駁すべき言葉を探してみたものの、マルクの脳裏では、山神の洞窟で湖に放り込まれた兎のことがちらついていた。ミレイユは、二重人格などではなく、もっと大勢の人格と共にいるのかもしれない。だが山神の言葉はどうも人格を指しているように思えなかった。もっと、根本的に、何かが間違っているような……。


「火葬は済んだのか」

「はい。山神様にぜひ祈祷していただきたく。彼らもきっと浮かばれます」


 ゾーソンの声だ。

 マルクはハッとして山神の方を見つめた。結膜を黒く染めた不気味な魔物はもうそこにおらず、普段通りのゾーソンが村長と言葉を交わしていた。村長の口調は相変わらず堅苦しいが、その表情は明らかに柔らかく、山神に対する敬いより愛おしさがにじみ出ている。ゾーソンがそこにいると、村長は認識しているのだ。


 山神が消えたら村人は混乱するのでは、とマルクは女性たちの方を見る。だが、彼女たちは変わらず祈りを捧げていた。危惧したようなものは何一つない。ゾーソンが山神と契約して村に戻ってきた時と同じ。


 ……ああ。


 マルクはようやく、自分の思い違いに気づいた。村人たちは、山神だけを崇めているわけではない。契約を交わし、村のために身を捧げたゾーソンもひっくるめて、感謝しているのだ。彼らは決してゾーソンを忘れたわけではなかったのだ。


 もう、どちらが悪役か分かったものではない。マルクはミレイユと村をまとめて助けたくて、山神の元へと向かった。だが実際に村を救って見せたのはゾーソンだ。自分は何もできなかった。ディマオンのように振舞うこともできず、生き恥以外の何物でもない。


 悔しかった。


「なぁ」


 村長に連れられて火葬場へ赴こうとするゾーソンの背へ声をかける。ひどく情けない声色だった。


「なんだね」


 返事をしたのはゾーソンではなく、山神だった。マルクは胸のあたりがチクリと痛むのを感じながらも問いかけた。


「なんでおれを生き返らせた。おまえには何の利益もないはずなのに」


 山神は一瞬だけ結膜を白く染めた後、先ほどと同じように懐かしそうに笑った。


「ただ単に、あの娘の枷を作りたかっただけだ。それと、(あるじ)に報いるためでもある」

「主?」

「さあて、ね。今の無知な貴様には、ひとまずこの言葉を送っておこうか」


 人差し指を唇に当てて山神は笑った。魔王のように。


「いずれ分かるよ。今にもな」

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