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 緩やかな凹凸があるだけのだだっ広い雪原のど真ん中で、マルクは突然馬車の足元で大きな音が鳴り響くのを耳にした。同時にがくり、と馬車全体が傾き、馬が手綱に引っ張られて嗎なきながら仰け反った。


「いったい何がぁ!?」


 マルクはどうにか御者席から振り落とされずに済んだが、突然止まった反動で思い切り後頭部を馬車に打ちつけた。


「いっ……」


 満足に声も上げられないほどの鈍痛でダンゴムシのように蹲っていると、頭上の小窓からヨランダが顔を出してきた。


「平気?」

「ええ……すみません、中は大丈夫でしたか?」

「ジョンスが膝をぶつけた程度よ」


 馬車のほうでジョンスが痛いと喚く声が聞こえてくる。マルクは苦笑していたが、ヨランダは情けないジョンスに冷ややかな視線を送っていた。


「それで、何があったの?」

「分かりません。いきなり何かにつまづいたみたいになって……」


 言いながらマルクは立ち上がると、大きく傾いた馬車の側面を覗き込んでみた。後輪の一部が不自然に撓んでいて、少し離れた場所には完全に外れてしまった車輪が一つ落ちている。

 重さに耐えられなくなって外れてしまったのかとも思ったが、高級な馬車に限って、それはない。おそらくは最初に白鯱に襲われて凹んだ部分がついに耐え切れなくなり、壊れてしまったのだろう。ここに来るまでにかなりの悪路を進んできたのだから、むしろよく保った方である。


「これは修理しないとですね。すみません、ヨランダさん」

「仕方ないわ。これはあなたのせいじゃない。ディマオン、寝てないで手伝ってあげて」

「寝て……寝てる?」


 いくらミスリル級でもあれだけの事故の反動があれば目が覚めているだろう、と思いつつ馬車の中を覗いてみれば、今まさに目が覚めたと言わんばかりに体を起こすディマオンの姿があった。


 ディマオンは大きな欠伸を一つこぼすと、細まった目でじろりとこちらを一瞥した。


「……あぁ? 何かあったのか?」

「実は馬車の車輪が外れてしまって。修理に少し時間がかかりそうです」


 マルクがディマオンに引き気味に説明すると、彼はコキコキと太い首を鳴らしながら、コートも羽織らずに外に出てきた。これだけ轍のように盛り上がる筋肉が全身を包んでいれば、極寒の地でも寒さを感じないらしい。あの衝撃で寝れたのもこの分厚い筋肉のおかげに違いないと、マルクはアホみたいな結論をつけた。


 ディマオンは遠くに転がった車輪と、沈んでしまった馬車の角のあたりをじっくりと眺めると低くため息をついた。


「すぐには直らないだろうな。夜も更けてきてるし、まずは一晩ここで立ち往生だ」


 腕捲りをしながらディマオンは車輪を拾いに行って、マルクでは絶対に持てないようなそれを楽々肩に担いだ。


「ヨランダ。火を起こしてくれ」

「ええ。少し魔石も借りるわね」


 ヨランダは袖が汚れるのも厭わず、馬車の下にある格納庫に手を突っ込んで拳サイズの魔石を一つ取り出した。そして雪の中にくぼみを作り、中心に魔石を置いて魔法陣を描き始める。最後に魔力を流せば、反応した魔石が自動的に魔法陣を感知して大きな炎を作り上げた。


「うわっ」


 極寒の地でも等身大の炎がそそり立てば熱いぐらいだ。マルクは腕で顔をかばいながら、冷え切った身体がじんわり温まっていく感覚に身をゆだねた。


 吹雪の中では通常サイズの焚火はすぐに消えてしまう上、暖を取るにも適していない。燃やせるものも少ないため、こうして魔石を使うのがカエヌディの主流だった。


 ただ、貴重な魔石をこんな風に大盤振る舞いできるのは正しく緊急事態の時だけだ。ずっと安定していた旅の中での想定外なんて、冒険者らしく旅で不謹慎にも楽しくなってくる。代わり映えしない景色に飽き飽きしていたマルクには、燃え上がる炎が余計に輝いて見えた。


「マルク、ジョンス! そろそろこっちを手伝ってくれ!」

「あ、はい!」


 ディマオンから声を掛けられ、マルクは大声で返事をしながら、ジョンスのいる馬車の中へ顔を出した。


「ジョンスも手伝ってくれ。三人で馬車を持ち上げないと」


 布団にくるまりながら外の様子を窺っていたジョンスは、すぐにマルクに気付いて頷いた。


「ああ。けど待ってほしいっす」

「なんだ?」

「コートない?」

「寒がりめ」


 マルクは食料を積んでいる後ろの馬車に駆け寄り、分厚いコートを探し出してジョンスに投げた。すでに何枚も分厚いコートを着込んでいるジョンスは、マルクに渡された一着を羽織ったせいでかなり着ぶくれしていた。


「ははは、だっせ」

「なぁ、オレ一応護衛対象!」

「いいから、ほら、早く出てこいって」


 ジョンスはふてくされながらも、モコモコの身体で這い出てきて、上半身に対してアンバランスな細い下半身で雪の上に立った。行儀悪くポケットに両手を突っ込んだままのジョンスにマルクはつい忍び笑いする。


 二人で馬車の外側へ回り込むと、沈んだ馬車に車輪を付けようと奮闘するディマオンがいた。


「お待たせしました。これは……確かに二人で持ち上げるしかないですね」


 この馬車の車輪は雪の上でも沈まないように巨大な棘がびっしりと表面に生えている。転がるというよりは刺して進むような設計なので、普通に子供が立って入れるほどの車高だった。車輪を嵌めるために馬車を持ち上げなくてはならないのに、こうも高いと逆に持ち上げにくくて叶わない。

 本当にやるのか、とジョンスが顔を顰めると、ディマオンは眉間に深い皺を刻んで、焚火の傍で警戒していたヨランダを振り返った。


「ヨランダ! 頼む!」

「ええ」


 一体何の話をしているのだろうとマルクとジョンスが顔を見合わせた途端、ヨランダが自分たちの傍で杖に魔力を込め始めた。


 穏やかなそよ風が吹いたと思いきや、付近の吹雪まで巻き込んで、急激に巨大な渦巻きが発生する。


「げぇ!?」

「少し離れていて」


 刹那、杖から凄まじい風量が吐き出されてマルクとジョンスは勢いよく雪の上を転がった。


「ヨランダさんもっと早く言ってくださいいいいいい!」

「わあああああああ!?」


 風のせいで自分の声しか聞こえなかったが、うっすらとジョンスの悲鳴とディマオンが爆笑している声が聞こえた気がした。風が弱まりようやく起き上がれるようになった時には、馬車は横倒しになって、ディマオンがその上に乗って車輪の接合部をじっくり眺めているところだった。


 マルクはぼすっと雪に頭を沈め、小さな声でつぶやいた。


「おれたち、必要なかったよな?」

「悲しいこと言うなよ」

「ごめん」

「うん。オレも悪かったっす」


 背中からしみ込む雪の冷たさに目を覆っていると、ヨランダによって再び風が巻き起こり、マルクたちはその場で強引に立たされた。


「ほら、手伝ってあげなさい。それともあの上まで風で乗せてあげる?」

「「結構です!」」


 あんな風圧で空に打ち上げられては堪らないと、マルクとジョンスはドタバタと馬車に走ってしがみついた。横倒しになった馬車は意外と足場が多く、登るのにあまり苦労しなかった。が、途中であることに気が付いた。


「あ、ディマオンさん! これ、馬車のブレーキまで壊れてません!?」

「ああ。破片も見当たらん。何かで代用するしかないぞ!」

「なにかって、この辺りには白木しかないじゃないですか」


 白霧の森の白木は魔物の爪より硬く、加工するには不向きだ。馬車のブレーキの代わりになるように切り出すとなれば、馬車の中の巨大な魔石を数十個ほど使い切らなくてはならない。長旅で暖をとる唯一の方法をここで大量に消費するのは愚策である。

 そんなマルクの考えを読み取ったように、ディマオンはすかさずこう答えた。


「別に木材に限らなくてもいいだろ!」

「え?」


 一瞬ディマオンが何を言っているのか分からずマルクが首をかしげていると、先に登り切ったジョンスに引っ張り上げられた。


「素材ってもしかして、魔物っすか?」


 ジョンスが問いかければ、ディマオンは分厚い口を歪ませた。


「その通りだ。よくわかってんじゃねぇか」


 ジョンスは褒められたことに素直に嬉しそうに笑い、着膨れした袖で片頬を擦って見せた。マルクはむっとしながら起き上がると、ジョンスの前にずいっと出てきて腰に手を当てた。


「じゃあ魔物狩りですね。おれが食料ついでにけちょんけちょんにしてやりますよ!」

「おうよ! だがこの近くにはいないみたいだなぁ」


 言いながら視線を巡らせるディマオンにつられて、マルクも銀世界へと視線を巡らせる。


 先ほどのヨランダの魔法の影響か、ホワイトアウト気味だった世界が明瞭に見渡せるようになっていた。僅かに斜めに降っている雪が大粒で邪魔だが、見た限り白木以外のものは見当たらない。まるでマルクたちだけが、ぽつんと白い画用紙の上に置いていかれたようだった。


 鼓膜を撫でる雪の音色にほんの少しの寂しさを感じていると、ふと視界の端に、微かに出っ張った雪の塊を見つけた。


「ディマオンさん、あれは何でしょう?」

「ありゃあ……魔物じゃないな。ただの雪の塊ってわけでもなさそうだが」

「行ってみましょうか。車輪をつけるにしても、まずは代用品が必要ですから。きっとあそこに何かありますよ」

「じゃあ早速四人で行くっすかね!」


 しゅばっと挙手しながらジョンスが言った途端、その肩をぐいっとディマオンが押さえつけた。


「いや、待て。いつまた吹雪くか分からん。二手に分かれよう。ヨランダとジョンスは火の番をしろ。俺とマルクで行く」

「えぇー」


 ジョンスは大声で不満を露にしたが、ディマオンに肩を叩かれると口をとがらせてそっぽを向いた。


 護衛対象のジョンスはずっと馬車の中で外を見るしかできなかったから、今こそ出かけるチャンスだと思っていたのだろう。あわよくばディマオンの戦いぶりをその目に焼き付けられるかも、という下心もあったはずだ。なにせジョンスは、最初の一週間に遭遇した白鯱とディマオンの戦いが見れずに本気で悔しがっていたのだ。その気持ちはマルクにも痛いほど分かる。


 しかし護衛対象を危険地帯に送るわけにはいかない。是非ともジョンスには諦めてほしい。別にマルクがディマオンの英雄じみた戦いぶりを独り占めしたいわけではない。断じて。


 マルクはいい笑顔でジョンスにサムズアップして、ディマオンと共に横倒しの馬車から飛び降りた。


 ヨランダたちからも居場所が分かるよう、即席の松明を掲げながらマルクとディマオンは謎の雪の塊まで歩いて行った。馬車から眺めた時から距離は把握していたつもりだったが、想像以上に遠い。雪の塊にたどり着くまで十分以上もかかってしまった。


 こうして歩いている間に魔物に襲われるのではとマルクは忙しなく周囲を見渡したが、吹雪がさっきより強くなった程度で、相変わらず魔物の姿は見当たらなかった。


「何か、不吉な気がしますね」

「嵐の前の静けさってか? 安心しろ。俺から離れない限りは安全だ」

「頼りにしてます」


 ぼう、と頭上の松明の炎が風に煽られて横倒しになる。カエヌディから持ってきたアルコール濃度の強い酒のおかげで、吹雪の中でも炎が消える気配はない。それでもマルクは松明を握る手に無意識に力を込めていた。

 自分が頼れるのはディマオンとこの松明だけ。自分自身の力は、この地ではあまりにも無力だ。


 早く強くなってディマオンと肩を並べたい。そうしたら、ミスリル級の冒険者たちが見てきた美しい景色を好きなだけ見に行けるだろう。どんな危険地帯だろうと軽々足を運んで、我が物顔でどこへだって行ける。

 カエヌディの門番で終わりたくない、門の外へ──。


 再び吹雪が止み、白んでいた視界の先で雪の塊がすぐ傍まで来ていた。明らかに人工物として立っているそれは、ドーム上の建物らしかった。


「ありゃあ、イグルーじゃねぇな」

「みたいですね。雪を積み上げただけのようです」

「にしたって、なんでこんな見た目なんだぁ?」


 ディマオンの言う通り、その雪のドームは不思議な形をしていた。雪が降り積もったせいでかなり表面がゴワゴワとしているが、ピンととんがった二つの耳や、入口を兼ねて大きく開けられた口の牙など、明らかに狼の顔を模している。一体何の意図があってこんな形にしたのか知らないが、内側の踏み鳴らされた地面を見るに、何者かがここで住んでいたのは間違いない。


「入ってみましょうか」

「ああ」


 一応、松明の灯りでぐるりと中を見回したが、魔物は隠れていないようだ。


「罠もないな。足跡は人間の子供と……ホワイトウルフのもんだ」

「えっ!」


 ホワイトウルフといえば、白霧の森の中で三、四匹の群れをなして狩りを行う魔物だ。知能が高くテレパシーを使うため、彼らの連携は厄介であり、一人で遭遇すれば間違いなく逃げ切ることは叶わないとされている。

 そんな魔物の足跡が人間の子供と一緒にあれば、否が応でも子供の結末を想像できてしまう。


「……この足跡はまだ新しいものですか?」

「ああ。昨日か一昨日だ。雪もそんなに中に入っていないからな」


 カエヌディのような極寒の地において、人命救助の成功率は一分一秒で大きく変わる。一日以上も経っていては、今頃ここに住んでいた子供も魔物に殺されているだろう。


 もう少し早ければ。せめて遺体だけでも弔ってやりたい、と瞑目しながら思っていると、ディマオンが大きく首を傾げた。


「なんか妙だぜ。こいつら、この雪のドームの中で一晩一緒に過ごしていたみたいだ」

「え? まさか、魔物が人間の子供を前にして、何も手出ししなかったってことですか?」

「どう見てもそうとしか思えんな。出て行く時、子供の足跡は途中で消えているが、食われた形跡がない。魔物の足取りも、群れで行動している時のようにゆっくりだ」

 

 ディマオンが説明する通り、ドーム内の足跡は争った形跡もなく、雪の上に落ちているのは魔物の体毛と思しき黒い毛だけだ。真ん中の平べったいところは魔物が眠った場所だろう。そのあたりにも子供の足跡が続いていて、寄り添うように眠る一人と一匹を想像できてしまった。


「あともう一つ、気になることがある。こんなところで子供一人取り残されてるってのは、いくらなんでもおかしいだろ」

「確かに。子供一人でここまで来れるとは思えませんね」

「もしかしたら人型の魔物がホワイトウルフと一緒にいるのかもしれん。まぁ、ブレーキの代用品が見つからないことにゃあ、この足跡を追いかけることもできんがな」

「そうですね。一旦戻りましょうか」

「ああ。……っ待て」


 唐突にディマオンが腕を伸ばしてマルクを押し留める。切迫した彼の声は薄れていたマルクの緊張を呼び戻すには十分な迫力があった。


 マルクはすぐに腰の剣を握りながら生唾を飲み込んだ。


 ディマオンの鋭い目が、ドームの外を油断なく探る。マルクはいつ魔物に襲われるかと肺を震わせたが、薄く長く吐き出されるディマオンの呼吸が全く震えていないことに気づいた。まだ大丈夫なんだ、と理解して、マルクも徐々に剣を握る手の力を必要最低限に緩めた。


「どう、ですか」

「近い。だがこちらには気づいていないな」

「どうします」

「顔を見に行こう」


 ディマオンは無骨な手をマルクから退けると、ピッタリついてくるようジャスチャーをしながら、低い体制でドームの外へ出て行った。


 気配を辿ってドームの外側を半周し、そこからまっすぐ進む。そこでは背の高い白木が梢をピンク色に染めて佇んでいた。周辺には小さな足跡があり、よく見ると赤い血が点々と続いている。


「もしかして」


 マルクはディマオンと顔を見合わせ、少し早歩きになって足跡と血痕を追いかけた。


 目的の人物はすぐに見つけた。小さな白木の側で、白い毛皮を被って丸まっていた。隙間から見える手足は痩せていて、遠目からでも分かるほど震えていた。


 ディマオンはマルクにそこで待機するように指示を出すと、大きく足音を立てながら子供らしき人物に近づいた。


「おい、大丈夫か?」


 ディマオンの第一声は全く緊迫性がなく、まるで古い友人に話しかけるような調子だったので、マルクは思わず何しているんだと咎めたくなった。だが、意外にも効果があったようで、子供らしきものの震えが止まった。のそりと毛皮が動いて、長い毛先の隙間から黒髪と大きな赤い瞳がこちらを覗いてくる。かなり痩せて髪もボサボサだが、女の子のようだ。


「どこか怪我でもしたのか? 他に仲間はいないのか?」


 ディマオンは大きくゆっくりとした口調で、一歩ずつ慎重に子供との距離を詰める。子供はぎゅっと毛皮の端を握りしめてさらに丸くなると、マルクとディマオンを爪先から頭の天辺まで観察し始めた。


 助けてくれそうな人が来たら、普通は涙ながらに抱き着いたり、安堵のあまり崩れ落ちたりするものだろう。しかしこの子供は始終こちらを警戒しており、仕草も人間慣れしていない動物そのものだ。


 ディマオンも子供の異常性に気づいているからか、無暗に近づこうとせず子供がこちらの存在を許容するまで待っている。ある程度の距離まで近づいたら、それ以上は近づかないようにもしていた。


 やがて、少女はすくっと立ち上がって、白い毛皮に覆われていた身体をこちらへ向けた。


 彼女の口元から胸元まで、吐血したように真っ赤に染まっていた。マルクは思わず駆け寄りそうになったが、全く外傷が見受けられない少女の様子に気づいてすぐに足を止める。魔物に襲われたわけでもなく、何かしらの病気に罹っているようにも見えない。


 得体のしれない恐怖が足元から這い上がってくるが、マルクは意を決して少女に話しかけた。


「言葉、分かるかい?」


 少女は真っ赤な瞳の中にマルクを収めると、スッと目を細め、ほんの微かに顎を上下させた。言葉が通じているのならば早速保護しなければ、とマルクがさらに一歩踏み出そうとした時、


「危ねぇ!」


 その時のディマオンの声は、今まで聞いたこともないぐらい大きな声だった。驚いて足を止めたマルクが、何事かとディマオンの方へ視線を逸らした瞬間。


 どす、と僅か二十センチ先の地面から、巨人の牙を思わせる巨大な氷柱が飛び出してきた。


「え……」


 魔法陣も、魔素の動きも感じられなかったのに、魔法としか思えない現象が目の前にある。マルクは緩慢とした動作で少女の方を見て、戦慄した。


 尋常ではないほどの、憎悪に満ち溢れた表情をしていた。


 突然後ろから襟首を掴まれて身体が反転する。何故かディマオンの顔がマルクの脇腹のあたりにあった。ディマオンの肩に担がれているらしい。下を見れば雪の深さを微塵も感じさせない速度で大地を蹴る太い足が見えた。


 下手をすると馬車に乗っている時より強い風がマルクの身体にぶつかってくる。服の隙間から雪の塊が入り込んできたが、冷たさを感じる暇は全くなかった。


「マルク! 絶対に動くなよ!」


 必死に叫ぶディマオンの声が遠く感じる。走る側から、後ろでドスドスと雪が貫かれる重い音が響き続けている。先程マルクを仕留め損ねた、あの鋭い氷槍がずっと追いかけてきているのだ。


「あ、あの子は、ただの子供じゃ……」

「あいつは魔物と一緒にいた子供かもしれん! こんなところで一人で生き残っている時点で、まともなわけがねぇ!」

「でも、まだ子供だ!」

「だからなんだ! 俺達がむざむざ命を差し出す理由にはならん!」

「あの子は困ってる! 助けないと!」


 今まさに、助けようとしている子供に殺されかけているのに、自分でも何を言っているんだと驚いた。だが口からついて出た言葉は自分の心からの叫びのように現実味を持っていて、露ほども後悔を抱けなかった。


 ぐん、と腹にかかる重圧が深くなり、気づいたら地面が遠くにあった。ディマオンがマルクを担いだまま高く飛び上がったらしい。耳元で唸る暴風をかき分けて、ディマオンの怒鳴り声が鼓膜を震わせてくる。


「お前、本気でそう思ってんのか! あのガキを救えると!?」

「思ってる! だってあの子は、あの目が――――憎しみだけじゃなかったんだ!」


 やっと自分が言いたいことがまとまってきた。最初に子供の姿を見て抱いた恐怖の正体は、きっとあの子の心が壊れている気配がしたからだ。自分の声に反応して、目を細めた時のあの子の瞳は虚無ばかりで、少しも生きようとしていなかった。


 ここであの少女を一人にして仕舞えば、本当にあの子が救われない。根拠なんてないが、強い確信がある。


「ディマオンさん! お願いです! おれを下ろしてください! おれ一人ででも何とかして見せます!」

「正気か!?」


 ディマオンは叫んだのち、迫り来る雪へ着地の体制に入った。しかしその先では待ち構えていたように氷槍が筵となってそそり立ってくる。


「口を閉じていろ!」


 ディマオンは一旦マルクを空中へ放ると、背中の大剣を振り抜いて氷槍を真上から粉砕した。同時に大剣を足場にして再び飛び上がりマルクをキャッチする。


「ディマオンさん!」

「黙っとけ!」


 今度はマルクを樽の様に小脇に抱えながら大剣を地面から引き抜き、ディマオンは来た道を一気に駆け戻り始めた。このまま強引に逃げるとばかり思っていたマルクは、予想外の軌道に目を白黒させる。その頭上でディマオンが忙しなく唾を飛ばした。


「仕方ねぇからお前の戯言に付き合ってやる! いいか!? このままあの凶暴なガキをヨランダたちんところに連れて行きたくないからだからな! もしお前が失敗するようだったら、あいつを殺す! いいな!?」

「はい!」

「うし! じゃあ行ってこいや!」

「え――――」


 全身にかかる負荷が今までの倍になり、意識が頭ごと地面に吸い込まれるような感覚がした。どうにか歯を食いしばって重力に耐え切ると、体をしっかり支えてくれていた逞しい腕がいつのまにか消えていた。


 ぐるりと体を見下ろすと、先ほどのように雪原が遥か遠くに見える。だが肝心のディマオンは地面で立ったまま走っていた。


「ちょっと、何で投げたんですかあああああ!」


 もっとやり方があっただろうとか、人を物のように扱うなとか、色々な文句が口の中で暴れ回ったが、自分の悲鳴で意味をなさないまま吹き飛ばされていく。いっそのことマルクは開き直って自分の着弾地点へ視線を定めた。


 流石ミスリル級の男は違う。狙ったのか知らないが、着弾地点にはあの白い毛皮を羽織った少女が立っていた。少女はディマオンに氷槍を打ち込むのに夢中で全くこちらに気づいていない。行ける。


 今の彼女には言葉を重ねても想いは通じないだろう。だったら身体ごとぶつかっていくしかない。


 そう、文字通りに少女へ向けて、両手を広げてダイブする。


「うあああああああああ!」


 恐怖のあまりマルクが情けない悲鳴を出して、少女はようやくこちらに気づいた。慌ててこちらに小さな手を向けてくるがもう遅い。


 マルクはガッチリ少女へ抱きついて、そのまま二人で雪原の上を激しく転がった。何度かバウンドしたり頭からぶつかったが、意識はしっかり残っていた。いくら柔らかな雪が深くまで降り積もっていようが、あの高さからの落下で無事であるはずがない。案の定、ようやくマルクたちが止まった後に、ズキズキと肩や肋骨のあたりが痛みはじめた。


 頭の上にまとわりついた雪を払ってから、マルクはゆっくりと身を起こした。


「いってて……」


 周囲を見渡してみると自分たちが転がっていった痕跡が青い影になって雪原に浮かび上がっていた。想像以上に大きなクレーターができていて自分でも戦慄してしまう。よくぞ無事生き残ったとすら思った。


 が、まだ終わっていない。


「うぅ……うがあああ!」


 腕の中でじっとしていた小さな体温が、獣のような唸り声を上げてマルクに飛びかかってきた。だが所詮は子供の体で、マルクを押し倒したり吹き飛ばしたりできはしない。太もものあたりで馬乗りになって、胸のあたりを両腕で交互に殴ろうが、掴み掛かろうが、致命傷にはならなかった。多少肋骨の傷に響くが、本当にそれだけだ。


 パニック状態で魔法で殺すという発想も吹き飛んでいるらしい。相手に敵わないと薄々感づいて、ついに泣き出してしまう少女は、本当にただの子供だった。


「もう、戦わなくていいんだよ」


 段々と殴る力が弱まってきた小さな拳を胸で受け止めながら、マルクはそっと少女を抱きしめた。少女はしばらく腕の中でもがいていたが、やがて大声で泣き始め、自ら血まみれの顔をこちらに押し付けてきた。


 彼女が一体これまでどうやって生き残り、何があったのかは分からない。心細かっただろうと漠然と想像するしかできない。それでも、喉が裂けんばかりに泣き続ける少女の声を聞いているうちに、マルクは自分でも気付かぬうちに一粒の小さな涙を流していた。

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