(10.5)ハエルカ湖の上を行く
カエヌディから外へ続く洞窟の先には、広大な雪原がどこまでも続いている。障害物もなく、魔物の姿も見当たらない。生き物の息吹というものが吹雪で根こそぎ薙ぎ払われ、侵入者も拒む冷たい大地があった。
行く手を阻む白んだ世界の中で、馬車の手綱を手袋越しに握り締めたマルクはガチガチと歯を鳴らした。流石高級馬車というべきか、この吹雪の中を悠然と進んで軋み一つ上げることはない。外で馬車を引いている二頭の馬も休憩もなしに走り続けているのでなかなかの根気である。この馬たちは寒耐性がカンストしているため、吹雪にさらされようが上機嫌なままだ。
しかし人間はそうはいかない。馭者の席に備え付けられた『結界』の魔法陣で吹雪の直接の影響はないが、外界気温までは遮断できない。マイナス気温まっしぐらな環境に身を置くマルクは震えるしかなかった。
背後の馬車の中からは、ミスリル級冒険者と遭難冒険者が仲良く談笑しているのが聞こえる。ヨランダは『探知』の魔法陣を定期的に使ってくれているが、残りの野郎二人はポーカーで遊んでて、それはもう楽しそうな笑い声が時折外まで流れてきた。
やはり見送りなんて断っておくべきだった、とマルクは旅を始めて三日目にして後悔し始めた。隊長のドレイクやギルドマスターのダルガスに見送られて、洞窟を出たところまでは代わり映えしない景色に興奮できるぐらいにはマルクもわくわくしていた。二日目となると今度は魔物の姿が現れないことにちょっと首を傾げつつ、早くミスリル級冒険者の腕前を見てみたいものだと心躍らせた。
そして今日が三日目である。美人の顔は三日で飽きるというらしいが、マルクにとっては美しいくも冷たい大自然も三日で飽きてしまった。警戒しすぎて精神が摩耗してしまったのもあるが、何と言っても馬車の和やかさにやられてしまったのだ。わいわい賑やかな馬車の内側はさぞ温かろう。マルクは朝からずっと外で馬の手綱を握りしめるしかない。
「くそぅ……ミスリル級相手に馭者を交代してくれっていえるかよ………ジョンスは護衛対象だし、外に出してうっかり死んだら元も子もないしよ……」
ギルドマスターよ、なぜおれだけ行かせたんだ。せめてもう一人用意してくれよ。鼻をすすりながらマルクが文句を垂れていると、前を歩く二頭の馬が同情的な視線を一瞬だけ送ってきた。
「ああ、おまえらだけだ。おれの味方は」
しみじみと哀愁を込めた声音で馬に答えると、一頭の馬がヒヒンと声を上げる。
………嘲笑ったように聞こえたのは、気のせいであってほしい。
抉られた心の傷はまやかしであると何度も脳みそに語り掛け、マルクは手の甲で目じりを強くこすった。ちょうどその時、馭者の席の後ろに備え付けられた小窓が開いた。
「ひょ!?」
びっくりして変な声を上げながら確認してみれば、宝石のような藍色の双眸がこちらを覗いていた。
「マルク。外に異変はない?」
「な、ないですよ。どうしましたヨランダさん」
馬車の中に冷気を入れすぎないよう、小窓は換気や用事がない時以外は開けないように決めている。だから数時間ぶりに開けられた小窓からの暖かな空気も、そこから見える美女の目元もマルクにとっては踊りだしたくなるほどうれしいものだった。
寒さですでに赤くなっていた頬をさらに紅潮させるマルクに、ヨランダは微かに目を細めてみせた。
「全部任せてしまってごめんなさいね。索敵魔法に反応があったの。今からディマオンが行くから、周囲を警戒して頂戴」
「わかりました」
喜びから一転、マルクは指先を緊張させながら素早く周囲を見渡した。吹雪で白んだ景色は相変わらず何も視認することが出来ないが、魔物が近づいてくれば影ぐらいは見つけられるはずだ。ホワイトアウトした世界からいきなり襲われるかも、と言われたら、背筋に嫌な汗が走る。人間相手の戦闘訓練ばかりを積んでいたマルクには、襲われたときどう対処すればいいか明確に想像できなかった。
間もなく、大剣を背負ったディマオンが扉を開けて顔を出した。
「様子はどうだ? かなり近いらしいが」
「まだ姿は見えませんね。ディマオンさんは後ろをお願いします」
「おう!」
腹を震わせるディマオンの大きな声で、余分な緊張が吹き飛んだ気がする。一人きりで警戒するより二人で、しかも片方が頼もしい冒険者であれば申し分ない。
ただ、ヨランダの索敵魔法に引っかかった魔物の姿はいつまで経っても見えてこなかった。ただ近くを通り過ぎただけならばすぐにヨランダが教えてくれるだろうが、小窓から見える彼女の表情は険しいままだ。つまり魔物は確実にこちらを狙っている。馬車はずっと一定速度で走り続けているから、魔物の足音も聞こえてきそうなものなのだが。
ふと、足元から奇妙な音がしていることにマルクは気が付いた。吹雪の音のせいで上手く聞き取れないが、固い物同士が不規則にぶつかっているようだ。
その音はくぐもっていて、馬車の真下をぴったりと追跡していた。
「ディマオンさん! 真下にいます!」
「なに!?」
警告もむなしく、下から突き上げるような衝撃が馬車を襲った。馬車の最後尾にある食料を乗せた荷台が一メートルほど宙を舞い、騒々しい音を立てて着地する。その衝撃で馬車の車輪が別方向を向き、馬に引きずられるように最後尾から急カーブを描き出した。
「くおっ!」
斜めになった車体の上でマルクは手綱を握るので精いっぱいになる。だが屋根上に立つディマオンは全くバランスを崩すことなく、どっしりと大剣を構えて後方を見据えていた。
「なるほど。ちょうどハエルカ湖の上を走ってたのか」
「は、ハエルカ湖!? まさかおれら、凍った湖の上を走ってたんですか!?」
「その通りだ!」
刹那、車輪下の雪原に巨大な罅が入った。無数の骨が砕けるような音を響かせて、その罅は馬車をも巻き込んではじけ飛んだ。
空高くまで馬車が宙を舞う。二頭の馬が悲鳴を上げ、四肢で必死に宙を蹴りながらマルクの目の前を横切って行った。その馬たちを追ってマルクが見たのは、割れた雪原の中に広がる黒い海と、そこからそそり立つ真っ白い巨塔――鯨、いや、鯱だった。間近にせまる真っ赤な眼球は馬車と同等のサイズで、真っ黒い瞳孔がぐるりとマルクに食欲を向けた。
「な、なんじゃこりゃああああああ!?」
馬車と共に落下しながらマルクが叫んだ瞬間、鯱がさらに氷を砕きながら黒海へ倒れこんで行った。鯱が動くだけですさまじい突風が巻き起こり、馬車は紙くずのように煽られて空中で横倒しになった。
内臓が浮いたり沈んだりして、平衡感覚が消えうせる。重力に振り回されて頭も上げられない状態のまま、マルクは馬車から放り出された。
「マルク! しっかり摑まってろよぉ!」
不意に頭上からそんなことを言われ、マルクは訳も分からず手に残った手綱を必死に握りこむ。強風で身体が持っていかれ、手綱との摩擦で掌が熱い。この手を放したらハエルカ湖に真っ逆さまだ。
奥歯で悲鳴を押し殺しているうちに、突然馬車の扉が乱暴に開け放たれ、長髪を揺らめかせながらヨランダが飛び出した。
「ヨランダさん!?」
ヨランダは宙を舞いながら手に持った杖を振り、小声で何かを唱える。瞬く間に杖に刻まれた魔法陣が魔素を吸収し始め、馬車の周囲に竜巻を起こした。竜巻は馬車を安定させながら持ち上げると、黒海に侵食されていない雪原へまるごと導き始めた。
この暴風の中で精密な操作ができるヨランダは、流石ミスリル級である。しかしマルクはそれを賞賛する余裕すらなかった。
鯱が再び黒海から飛び立ち、大口を開けて馬車に迫って来ていたのだ。
「いぎゃああああああ!」
「ぉぉおおるああああああ!!」
マルクの情けない悲鳴が、ディマオンの怒号に掻き消される。
大剣を大きく頭上で振りかぶったディマオンは鯱の上顎まで落下すると、赤い閃光となって白に消える。
ズパァンッ!!
鼓膜が千切れそうなほどの破裂音が空気を揺るがした。
鯱は上顎の天辺から血を吹き出し、ガラスに爪を立てるような金切り声を上げた。黒海から突き出す鯱の根元には、大剣を振り抜いた体制で静止するディマオンの姿があった。
斬ったのか。マルクはそれだけしか理解できない。それほどまでにディマオンの動きは早すぎた。
水柱を立ち上げながら、赤く濡れた鯱が黒海へ落ちる。鯱の巨体に押しつぶされた分厚い氷が宙を舞い、空気中の魔素に反射して辺り一帯が青白く煌いた。胸鰭にひっくり返された波が氷の破壊をより拡大させ、吹雪の唸りをかき消すほどの轟音が湖の表面に広がっていく。
血と水が入り混じる凄絶な光景は、ゆっくりと吹雪の中に呑まれていった。
静けさが戻った時、マルクはいつの間にか自分と馬車が雪原の上に着地していたことに気づいた。湖の傍では、ディマオンがこちらに背を向けて立っている。
大剣を背中に背負い直したディマオンは、馬車に振り返って胸を張った。
「――……うし、一丁上がりだ!」
闘志の残滓が綺麗さっぱり拭われたディマオンの声が、快活にこちらにまで届いてきた。
マルクは手綱を握った状態で這いつくばって、恐怖に歯を食いしばりながら周囲を見渡した。もうあの白鯱の赤い目玉はなく、割れたハエルカ湖も穏やかな波を揺らしているだけで、魔物がまた飛び出してくる気配もない。いつの間にか吹雪も弱まり、しんしんと淡い雪が降り積もるだけだった。
マルクは顔が真っ赤になるまで止めていた息を、肺の底から一気に吐き出した。
「たっはぁ! ……死ぬかと思った」
言いながら手綱の先を見てみると、泡を吹いて気絶している馬二頭がいた。マルクはハッと思い出して、慌てて馬車の中を覗き込む。
「ヨランダさん! ジョンスは無事ですか!?」
「無事よ」
馬車のふかふかクッションの上で、ヨランダは杖の手入れをしながらそう宣った。その向かいの席では、ジョンスは白目を剥いて倒れていた。ぴくりとも動かないが、胸は上下にしっかり動いていた。ただし体半分が床に投げ出されたその格好といい、めくれ上がった服から見えるたるんだ腹といい、見苦しいことこの上ない。これを美女の前で惜しげもなく晒していると思うと、マルクまで恥ずかしくなってきた。
「………生きているだけで、儲けものですよね」
マルクは静かに馬車の扉を閉めた。
…
……
………
ハエルカ湖はカエヌディをドーナツ状に囲うように存在している。なぜこのような不思議な形なのかははっきりとしていないが、研究者の話によると、カエヌディを腹に抱えたオリオス山の噴火過程で作られたカルデラに、大量の地下水が溢れ出してハエルカ湖になったというのが有力な説だ。一方では、地熱によりカルデラの底から積雪が溶け出して湖になったという説もある。
要するに、ハエルカ湖に関する研究資料はそれほど多くないのだ。湖の中に魔物が住んでいることは把握しているが、どんな魔物が住んでいるかは分からない。だから、今回見かけたあの白鯱のこともカエヌディに報告したほうがいいのだろう。ミスリル級の研究者が聞いたら目の色を変えて湖に穴を空けに来るはずだ。
マルクたちはハエルカ湖から離れた場所まで移動した後、気絶した馬たちが起きるまで休憩をとることになった。ついでに馬車の損傷も確認しているのだが、カエヌディにある城のてっぺんから落下するぐらいの高さまで打ち上げられたというのに、馬車は驚くほど無傷だった。
「高級馬車って、こんなに丈夫なもんなんですね」
マルクは呆けながらディマオンに話しかけた。一通り見て回っても、馬車の車輪が少し歪んだぐらいで、目立った被害はほとんど見当たらなかった。ヨランダが上手く地面に降ろしてくれたからだとしても、あれだけの衝撃だったのだから車輪の一つでも行方不明になってもおかしくなかったというのに。
ディマオンも髭をしごきながら同感だと告げ、さらにこう続けた。
「さっき馬車の中身を覗いてみたが『感圧』と『補強』の魔法陣が細かいところまでびっしり入ってたぞ。壊す方が難しいもんさ。魔法陣用の魔石もごろごろ積まれてて壮観だったぜ」
「魔石がたくさん? そんなに使っていいんですか?」
魔石は文字通り魔素が何らかの要因で結晶化したものだ。これは魔物から取れる魔部とは違って魔回路がないが、人間の代わりに魔方陣に魔力を流し続けることができる媒体として重宝されている。エネルギー源が極端に少ないカエヌディでは魔石は貴重な必需品で、潤沢に使うなんてもってのほかであった。
それを惜しげもなく馬車に積み込んで、名もない冒険者を見送りに出すというのはなんだか不釣り合いな話だ。馬車いっぱいの魔石なんて、金に換金すれば小さな城だって買えてしまうのに。
「……それほど今回の『見送り』は重要なものなんですか」
マルクは声を潜めながら、馬車の中でいまだに気絶しているであろうジョンスの方を振り返った。ディマオンも肩をすくめながら小さく唸る。
「ジョンスはただの冒険者だろ? とびきりの世間知らずだが、どう見てもいいトコの坊ちゃんには見えないな。だが、もしかしたら………」
急に言葉を切ったので、マルクはまじまじとディマオンの顔を見つめる。ディマオンはその視線に気づくと、首を振って苦笑した。
「何でもないぞ。ところで荷台の食料はどうなった?」
「あ、はい。……多少落ちてしまったようですが、箱自体が丈夫だったので被害はほとんどありません」
「そうか、良かった。今回は長旅になるのは確実だから、食料がなくなると死ぬことになる。特にこのヴィルニア大陸じゃあな」
その言葉で、マルクはこの大陸の雪原の恐ろしさを漠然と理解した。
国がカエヌディしかないヴィルニア大陸は、年中降り続ける雪のせいでコケ類も存在しない不毛地帯となっている。しかも北へ行けば行くほど魔素が濃くなり、同時に魔物の中に厄災級が混ざるのが日常茶飯事だ。
先ほどの白鯨もしかり、カエヌディは凶悪な立地条件のもと成り立った国なのだ。カエヌディの中は安全でも、一度外に出れば、視界を阻む猛吹雪と、どこからともなく現れる魔物に襲われる。そんな中を一人で抜けてきたジョンスは、いったいどんな気持ちだったのだろうか。今のように食料もなく、馬車もなく。気絶しても、守ってくれる人がいない。
「ディマオンさん」
「なんだ?」
「……ついてきてくれて、ありがとうございます」
礼を言うと、ディマオンは物珍しそうな目で見てきた。
「なんだぁ? 強い奴が『見送り』に入るのは当然だろう。そういう礼は任務完了まで取っておくもんなんだよ」
あーあー若いもんはぁと言いながら、ディマオンは馬車から少し離れたところで素振りを始めた。マルクはそれを微笑みながら眺める。それから、爪が食い込むまで強く拳を握り締めた。
守られてばかりでは、この大陸を横断することは不可能だ。一兵卒ができることなど限られているだろうが、それでも、何もしないよりはきっと、何かが変わるはず。
「ドレイクさん。おれはやりますよ。帰ってきた時に、あなたに自慢できるぐらいには」
マルクは馭者の席からドレイクに持たされた剣を取り出すと、ディマオンから十分に離れた場所で同じように素振りを始めた。




