1.望月探偵事務所
【作品をお読みいただくにあたって】
本作は、昭和初期を舞台としたフィクションです。
時代背景や当時の社会通念、登場人物の思想・価値観を描くにあたり、現代では差別的と受け取られる言葉や表現が登場する場合があります。
作中の表現は、当時の社会や登場人物の考え方を描くためのものであり、特定の個人・集団への差別や偏見を助長する意図はありません。
ご理解のうえ、お読みいただけますと幸いです。
1938年、8月22日――
望月はカラリとした空気と暖かな日差しを入れるため応接間の窓を開ける。
――望月探偵事務所
それが望月の仕事場兼住居の名称。牛込にあったオンボロ学生寮を格安で買取構えたこの場所は、多重層が入り混じる生活圏だが神楽坂付近と違い、喧騒とは程遠い地域だ。ここに事務所を構えて約3ヶ月。穏やかな住宅街に囲まれ少し歩けば商店もあるとなれば生活する分には申し分ない好立地場。
もしここに不満要素を上げるとすれば、外見はただのボロい学生寮のため、看板代わりに立てかけた板に事務所の名を書いても依頼人が来ないことだろうか。まぁこんな住宅街にポツンとある事務所の存在など近場の人間しか気づかないだろう。いや、場違い過ぎて近場の人間ですら気づかないかも知れない。それくらい人が来ないのだ。それでも風の噂とは一定の効果があるようで……。人づてに依頼人はやってくる。多額の報酬と厄介な依頼と共に。
ありがた迷惑な依頼のおかげで、閑古鳥が鳴いていようとも程々の生活ができているのだから文句は言えないが。
煙草を吸いながら、窓から入る風に吹かれ朝刊が捲れるのを捉える。一面はもちろん去年から始まった大陸での戦況と日本軍の悠々果敢な進軍状況。各国からの非難は日に日に増しているが、その殆どは強烈な友軍支持派の批判と共に片隅に追いやられている。その代わり盛大に上げられる戦果。それが今の日本――もとい、国民の大半の心情だと考えると…望月の心に暗い重しがのしかかる。
皆知らないのだ。前線の状況も、世界情勢も、そこに広がる光景も……彼らにとっての戦争は新聞に記載された「正当性」と「日本軍の強さ」だけ。現場の「現実」など存在していない。国民にとっての「真実」とは新聞の内容だけであり、華々しく搭載された栄光が「事実」だと。少し恐ろしく感じる現実をまじまじと突きつけられる。
――『真実』っていうのは『事実』じゃないんですよ。自分の信じたい『内容』。それが誰かにとっての『真実』。……たとえ多くの『嘘』で塗り固められた『仮初』だとしても、ね。
随分前に言われた言葉をふと思い出す。確かにそうだ。人は自分が信じたいことしか信じない。なぜなら自分に不利益な事実を受け入れるということは、自分が「不幸」になると同意義だから。誰しも進んでその道を背負いたくはない。当たり前だ。だが……もし、周りの声に耳を傾けず進み、全ての道が閉ざされた後、『その道』しか選択肢が残らなかったら、人は、国はどうなってしまうのか。望月はその先が案外遠くない未来にあるように思えてしまう。
――ドン、ドン
寮の扉を叩く音が響き望月の意識が現実に呼び戻される。「はーい」と元気な声と共にパタパタと廊下を進む音。無意識に小さく息を吐く。嫌な思考になっていた。昔から先を見据えすぎて陥る悪い癖だ。それに比べて――望月は僅かに口元を上げる。全く、穏やかな空気には少し明るすぎる声……しかし不快感も違和感なく自然に溶け込んでいる同居人の声と行動に呆れつつ時計に目を向ける。
――10:00
人が尋ねてくるには妥当な時刻。いつも通りだが本日の依頼予定はない。突発的な依頼が舞い込んでも対応できる。
薄い壁の向こうから話し声が聞こえてくる。おそらくこちらへ通すのだろう。望月は煙草を灰皿に押し付けると軽く目を瞑り意識を切り替える。同居人から仏頂面をどうにかしろと小言をもらうが、早々どうにかできるものでもない。だが確かに人の話を聞くのだから、それ相応の顔は必要なわけで……。応接間の扉が叩かれ、同居人と依頼人であろう人物が入ってくる。望月は最近マシになった探偵事務所の所長らしく、人のいい爽やかな笑みを浮かべ迎え入れた。
***
「……朝日新聞の社会部、ですか」
伊藤と名乗った男から手渡された名刺を見て呟く。
朝日新聞といえば大手であり社会部は主に政治や国内外の情勢についてを取り扱う部署だ。そんな時代の波を敏感に拾い届ける部署が、こんな辺鄙でオンボロ探偵事務所に一体何を依頼しに来たのだろう。
「はい。私の知り合いから貴方を紹介されてまして。どんな依頼や難事件でも解決してくれると」
「知り合い?」
ここに腰を下ろして数ヶ月。そんな難事件とも呼べる事件を解決した記憶はない。むしろ厄介な事件の方が圧倒的に多い。一体誰だ。そんな根も葉もない話を吹き込んで紹介した奴は。望月は思いつく限りの顔を思い浮かべ身構える。
「いえ、私の知り合いではないんです。先輩のお知り合いで、警視庁に勤めている多田さんと言う方です」
「……多田さん、ですか」
望月は顔には出さなかったが顔を顰めたくなった。
多田とは警視庁に勤務する叩き上げのベテラン警部の名だ。だが警官と言えど性格はあまり褒められるタイプではない。常に損得を考え、自分に得があるとわかれば悪事も見てみぬ振り。しかし自分が不利になると分かった途端、問答無用で権限を振りかざす小賢しい男。それが望月が抱く多田への評価だ。
「私が先輩に相談したら、色んな人に聞いてくださって……そしたら多田さんが貴方ならと事務所を紹介してくださったそうです。さすが探偵さんですね、警察官にも顔が効くなんて」
1ミリも嬉しくない知り合いだが依頼人の前で言うわけにはいかない。それよりその先輩とやらはよほど、人付き合いが上手いか情報通のようだ。少なくともあの多田が善意でこちらを紹介するほどには。
まぁ考えても仕方ない。望月は意識を切り替え改めて伊藤をみる。
「では、伊藤さん。依頼内容を教えていただけませんか?」
「はい。実は、ある人物を探していただきたいのです」
「……人探し、ですか?」
あの多田が回す案件。どれだけ厄介なのかと気を張ったが……何とも拍子抜けだ。
「失礼ですが、何故自分に?」
人探しなら他の探偵でもいいはずだ。わざわざ人に尋ねて紹介してもらう内容でもない。
「お知り合いでしたら、その方の交友関係をあたってみては?」
「私の知り合いではありません。そもそも、本当に実在するかどうかもわかりません」
「はぁ……」
どう言うことだ。雲行きが怪しくなってきた。望月は口を挟まず伊藤が話し出すのを静かに待つ。双方から上がる煙が静かに天上へ消えていく。伊藤が口を開く。
「それは突如現れました。まぁああいうものの噂はどれも同じ何ですが。それでも広がる早さが他のと断然違う……明らかに誰かが意図的に流しているのだと私は考えています。一体誰が、何の目的で?私は一記者としてその謎を追求したい。そして真相を国民に伝えたい。我々にとって幸運を運ぶのか、はたまた不幸を運ぶ存在なのか。『満月の幻影』に隠された、その正体を、私は暴きたいんです!」
望月の眉間に僅かな皺ができる。
くそっ!これが多田じゃなく知り合いの若旦那とかであれば、今すぐにでも殴り込みに行くのに。望月は喉まで出かけた舌打ちを飲み込む。
そういうことか。多田がこちらに寄越した理由がわかった。確かにこれは自分におあつらえ向きの案件だ。全くあのくそじじい、なんて依頼人を寄越しやがる。
望月は心の中で毒づくが、冷静になると悪い事ではないはずだ。あの多田が自分に寄越したという事は、多田にとって自分――自分たちはまだいいお得意様ということなのだ。問題があるとすれば……望月は視線を横にズラす。伊藤が気づいているかどうかは不明だが、お茶を出してから退出せず静かに話を聴いている第三者。その同居人を見て望月は渋い顔になる。ああ、見なければよかったと。
一方伊藤はそんな望月の様子にも、この部屋にいる同居人の存在にも気づかず熱弁を続ける。望月の表情が変わったのは自分の言わんとするその正体に気づき、「手に負えない」と諦めていると読み取ったのだ。身体を前のめりにし訴える。
「望月さんもご存知だと思います。今や東京で知らない者はいない程有名ですからね。そうです。その『幻影』の噂です。誰も見たことがない噂…ですが、私は必ず実在すると信じています!そしてその『正体』を私は国民に伝えたい!いや、これは伝えるべき義務があると!だからお願いします。力を貸してください!その噂の名は――ま「満月の幻影――『黒猫』ですね!」
突如割入ってきた声に、伊藤は驚きのあまり口を開けて固まり、望月は「やっぱり」というように頭を抱えた。男2人より幾分か高いその声の持ち主は、待ってましたとばかりに、張り詰めた空気の中堂々と乱入したのだった。
こちらの小説は「アルファポリス」でも連載しております。




