プロローグ.悪夢
【作品をお読みいただくにあたって】
本作は、昭和初期を舞台としたフィクションです。
時代背景や当時の社会通念、登場人物の思想・価値観を描くにあたり、現代では差別的と受け取られる言葉や表現が登場する場合があります。
作中の表現は、当時の社会や登場人物の考え方を描くためのものであり、特定の個人・集団への差別や偏見を助長する意図はありません。
ご理解のうえ、お読みいただけますと幸いです。
それは1938年6月13日、満月の日のことだった。
イギリス人のエドワードは、この日灯が少ない住宅街を1人静かに歩いていた。
日本に来て5年。記者として働くエドワードは、日本という異国の文化に共感し理解を示し、親日派として日本の文化を取り入れた生活を送ることで着々と信頼関係を築きあげてきた。
その成果もあり、今では顔見知りの店が出来ただけではなく顔パスで話を聞ける外交官の友人や、政治家、軍人までいる。それも全て5年という月日をかけてエドワードが築き上げた関係だ。
そして今日も「ある顔見知りの友人」から有益な情報を聴くことができた。今はその帰り……。
本来なら大通りを通り堂々と帰りたいが、何せ時世が時世だ。今はまだ市井に降り注ぐ影響もごく僅か。
しかしあくまでも「日本人」に対してだけだ。
大陸の戦況と世界からの非難の的になっている日本にとって自分のような「外国人」は、いくら親日派と言えど気が抜けぬ対象。うっかり気を抜き「スパイ」などという不名誉な疑惑をかけられたらたまったものではない。
――「目立つな」
エドワードが掲げる信念だ。
ゆえにより安全で慎重な方法で帰路に着く。大通りではなく、人気のない住宅街を灯りを持たず歩く。気配を消し誰にも見つからないように――。
――チリーン……。
ふと、鈴の音のような小さな音が耳を掠めた。思わず辺りを見渡すが、エドワード以外誰の気配も感じない。気のせいか?
しかし再び聴こえたその鈴の音に空耳ではないと確信する。時刻は日付の変わる少し前。こんなに時間に一般の人間が、灯りのない道を歩くことはない。
巡視中の憲兵か?であるなら憲兵特有の足音や音が聞こえるはずだ。それもない。ではいったい何なのか?
エドワードは小さく息を吐き思考を巡らせる。自分は想定外の状況に遭遇したようだ。だが慌てる必要はない。英国紳士たるものどんな状況下においても常に冷静でなければいけない。
あの鈴の音ような音は何か?日本の家庭であのような音のなるものを外に置く習慣はない。
強いて言えば「風鈴」という音が鳴るものを軒下にかける習慣があるが、時期にしては早く、これだけ家が軒連ねているのだ。もっとたくさん響くはずだ。しかも今夜は風も吹いていないため可能性は低い。そもそも昼夜問わず、この道を定期的に通っている。エドワードがその変化に気づかないはずがない。そしてさらに不可解なのが、その音が少しずつこちらに近づてきているということだ。
人為的な音――つまり誰かがこちらに向かっている。先程の推測したように憲兵ではない。
では誰か?このような時間に自分と同じように夜闇を歩く“影なる者“は。
不貞を行う野蛮人か、家なき放浪する乞食か孤児か、それとも――闇を纏い息を潜め生きる者たちか。
音は徐々に輪郭をはっきりさせながら、一定の速度でこちらに向かってきている。しかし音が反響しどちらからなのか方向までは掴めない。
エドワードは最大限意識を集中させ事態に備える。今自分の姿を見られるのは状況的に良くないが、物陰に身を隠そうにも相手がどこから現れるか判断できない以上、無闇に動くのは得策ではない。しかし見逃すこともできない。
――「見逃すな」
それもまたエドワードの掲げる信念なのだ。無意識に全身に力が入りそうになるが自制し、極度の不安と焦りが表に出ないよう努める。
鈴の音は止まることなく近づいてくる。そして――音は目の前に見える家と家の間にある細い路地裏からだと掴んだ。
チリーン、チリーン――チリー……。
あと一歩と言うところで消えた音。反響音もなくなり夜の静けさが住宅街を埋め尽くす。その静けさに合わせるよう生暖かい風が雲を運び、夜空を照らしていた月に影を落とす。先程より黒を濃くした世界。
何かに同調するように静かに広がる空気に、エドワードの額には無意識に汗が浮かび上がる。自分の予想では鈴の音に合わせ、その元凶と合間見えるはずだった。だが結果はどうだ?音は消え、辺りは静寂に包まれる。自分以外の気配がなくなった世界。
一瞬で消え失せた"もの"の存在の不気味さに、エドワードの身体が強張り、呼吸も押さえつけられたように荒い。
今のは何だったのか?
まさか無意識に自分が作り上げた錯覚?幻聴?いや、ありえない。自分は酒も飲んでいないし、日本の静かな夜にも慣れ、何なら「憲兵隊の巡視ルート」も把握している。唯一の不満があるとすれば、この想定内の現実に、少しばかりのスパイスがあればと考えたりもするが、それを実際行うほど馬鹿ではない。
では少し前に聴いた日本の「怪異」か?
イギリス人のエドワードにとって日本の「神話」や「怪異」は理解できない存在だ。イギリスは「人間」と「神々」の世界は一定の境界線が敷かれている。
しかし日本ではその「境界線」は存在しない。常に人々の生活に溶け込むもの。そして神ですら「1柱」ではなく「多神」。挙げ句の果てに、モノや人にまで神が存在すると言われてもエドワードには全く理解し難い内容であり、そんな「見えない何か」と共に生活するという感覚は、文化の違いという枠を超え少しだけ恐怖を覚える。
まさかその類の何か?
エドワードは浮かんだ思考をすぐさま振り払う。馬鹿馬鹿しいのもほどがある。そんなものは存在しない。見たこともないものを完全に否定するのは困難だ。だからと言って「ありえないもの」と結びつけるほど自分は気は病んではいない。
ではどうする?簡単だ。確認する。それだけだ。
音は目の前の路地裏の手前で止まった。そこを覗けば正体がわかるはずだ。そしてもし仮に――「自分の手に負えない」何かであれば逃げる。
日本では「逃げは恥」などと言われているが、エドワードには関係ない。重要なのはどう「溶け込む」かどうか。それだけだ。
風は静かに吹き抜け、流れる雲は月の光を隠す。
エドワードは息を殺し路地裏に近づき覗く。そして――。
男が1人佇んでいた。周りは暗く、深く帽子を被っているため表情はわからない。エドワードは男を見つけるまで気配に気づかなかった。まるで――最初から存在しない者のように。
直立不動のまま1ミリも動かない男と不意に目が合う。射抜くような眼光に一瞬足が竦む。一体なんだ、この男は。背広を着ているが、その佇まいはまるで軍人のよう。しかし軍人にしては殺気も威圧感もない。
だが確実にエドワードの動きを注視している。1秒も見過ごさないというように――。
エドワードの背中に嫌な汗が伝う。月はまだ隠れている。ここは周りの暗さを理由に気づかない振りをして立ち去るか。いや、距離が近すぎる。
男も自分に気づいているのだ。何も言わず立ち去るのは不自然だ。
ならば――。
エドワードは意を決して口を開く。あくまで「帰りが遅くなったこの辺りに住む外国人の住人」として――。
――チリーン……。
「見つけた。全く、急に追いかけてこなくなったから心配したわよ。「鬼ごっこ」なんだから、鬼役がいないと意味がないじゃない」
喉まで出かかった悲鳴を堪えたことを褒めたい。
エドワードは背後に現れた音と気配に冷静さを失いかけた。気づかなかった。いや、目の前の男に気をとらわれ過ぎていたのか。だがそれ以上にエドワードの警戒を強めたのは、
「あら、こんばんは。こんな時間に、こんな住宅街にいるなんて……物好きな人ね」
場に似合わないほど落ち着いた声。それがさらに不気味さを増幅させる。エドワードは必死に状況を整理しようと情報を集める。喉が渇いたように張りつくが気にする余裕はない。
だがエドワードの心を満たしたのは恐怖よりも好奇心だった。何せ自分は今、経験したことのない状況にいる。目の前の男、そして後ろにいる者……声の高さからして女だろうか?
後ろの人物はエドワードが反応しないことに気にも留めず、目の前の男に話しかける。
男が声を発することはないが、視線が自分後ろに向いているのがわかる。後ろにいた人物がエドワードの横を通り過ぎる。僅かに視線を隣に向けた瞬間、
「おい」
男が口を開いた。低く、圧のある声……エドワードの肩が震えた。通り過ぎた影が振り向く。そして雲が去り月の光が路地裏に差し込む。
1人の女――いや、少女だろうか――が立っていた。黒髪を靡かせ黒い服を纏った自分より背が低い者。その人物と意図せず目が合う。
「あら、異人さんでしたか?どこの国の方?顔立ちからして欧米系だけど……イギリスかしら?こんな夜遅くに歩いていたら、憲兵さんに怒られますよ。まぁ、この辺りの巡視はまだですから、見つかることはありませんが。もしかして、お仕事中でした?新橋……いや、銀座もありか。で、ご友人もしくは、同志と楽しく日本のお話しとか……」
エドワードは金縛りが解けたの如く、わき目を振らずに走り出した。先程まであった好奇心も紳士としての心構えも全てを捨てた。いや、正確には消された。
――なんだ、なんなのだ!あれは?
驚くことなく彼女が笑顔で発した言葉の数々。その意味を正確に理解したエドワードにとって、日本に来て初めて抱く恐怖。
なぜ憲兵の巡視ルートを知っている。なぜ銀座にいたとわかった。そしてなぜ……自分が日本の情勢を知りたがる人間――スパイだとわかった。
冷静さを失ったエドワード。そこからの記憶は曖昧だ。どうやって帰ってきたのかもわからない。気づいたときには自宅の椅子に座っていた。悪夢でも見ていたような気分だ。
だが自分は覚えている。あの夜の空気を、身体にまとわりつくような汗の感覚を。乾いた喉の痛みを。そして――月に照らされ微笑む彼女の異質さを。
もう日本にはいられない。その答えを出したエドワードの行動は早かった。素早く手続きを終え、1ヶ月後には引かれる想いなど微塵も残さず、イギリスへ帰国した。
あの日の夜の事は誰にも話さなかった。ただ1人――親しい日本人の友人にだけあの夜の悪夢を伝えて……。
余談だが同時期、奇妙な出来事が起こる。イギリスの記者、エドワード・ブラウンにスパイ容疑が浮上したのだ。その約2ヶ月後――ある作家が出した小説が、市井に広がる「ある噂」と似ていると話題となる。
「満月の夜に幻影」が現れるという噂が。
こちらの小説は「アルファポリス」でも連載しております。




