08.妹は兄を敬わない
翌朝。
「兄貴」
「ん……」
「兄貴」
「……あと五分」
「起きて」
「…………」
「昨日、私を起こしたでしょ」
「…………」
「だから今日は、兄貴を起こしてあげる」
「それはありが――」
目を開けた。
目の前に莉奈の顔があった。
「うわっ!」
思わず布団から飛び起きる。
「何?」
「近い!」
「起こしただけじゃん」
「そうだけど!」
朝。
目覚まし時計より先に、心臓が起こされた。
莉奈は何でもない顔で俺の部屋を出ていく。
「早くしてね。遅れるよ」
「……お前」
「何?」
「ノックくらいしろ」
「兄妹なんだからいいでしょ」
そう言って、扉が閉まった。
俺は布団の上に座ったまま、しばらく動けなかった。
兄妹。
その言葉を、莉奈は何のためらいもなく使う。
俺はまだ、そのたびに少しだけ妙な気分になる。
嬉しい。
でも。
照れくさい。
そして。
少しだけ怖い。
人との関係に名前がつくというのは、不思議なものだ。
友達。
同級生。
母親。
父親。
そして、兄妹。
名前がつけば、それだけで距離が決まったような気になる。
けれど本当は逆なのだ。
名前が先にあって。
中身はあとから作っていく。
俺と莉奈も、今はまだそうなのだろう。
「兄妹」という名前だけが先にあって。
そこに毎日の生活を少しずつ積み重ねている。
俺はベッドから立ち上がった。
鏡を見る。
「……兄貴か」
昨日まで一人っ子だった自分に。
今では「兄」という肩書きがついている。
なんだか妙だった。
そして。
ちょっとだけ嬉しかった。
◇
リビングへ行く。
母さんは朝食の準備をしていて、莉奈は椅子に座ってスマートフォンを見ていた。
「おはよう」
「遅い」
「いや、遅くないだろ」
「私より遅い」
「それはお前が早すぎるだけだ」
「兄貴が遅い」
朝から兄としての威厳が削られていく。
「遼太」
母さんが笑う。
「莉奈ちゃん、すっかり馴染んできたでしょう?」
「そうかな」
「うん」
莉奈がスマートフォンから顔を上げた。
「この家、思ってたより静かじゃないし」
「それ、俺がうるさいって言ってる?」
「別に」
「絶対言ってるよな」
「兄貴」
「今度は何?」
「箸」
「……」
「取って」
「自分で取れ」
「遠い」
「五十センチくらいだぞ」
「兄貴のほうが近い」
俺はテーブルを見る。
確かに。
俺の目の前に箸がある。
莉奈のほうにはない。
取る。
「ほら」
「ありがと」
莉奈は受け取る。
そして、何事もなかったかのように朝食を食べ始めた。
俺も箸を持つ。
すると。
さっきまでの小さな苛立ちは、なぜか消えていた。
こういうことなのだろうか。
妹が兄に頼む。
兄が応える。
それだけのことなのに。
なんとなく。
「兄妹っぽい」と思ってしまう。
問題は。
頼みごとの数が多すぎることだ。
「兄貴」
「まだあるの?」
「味噌汁」
「自分でよそえ」
「熱い」
「子供か!」
「子供だよ」
「そういう意味じゃない!」
母さんが笑う。
「仲良しね」
「どこが?」
「どこがって、今の会話よ」
俺は莉奈を見る。
莉奈も俺を見る。
一秒。
二秒。
それから。
莉奈がふっと笑った。
俺も笑った。
たぶん。
仲が良いというのは。
喧嘩しないことではない。
くだらないことで喧嘩できることなのだ。
少なくとも今の俺は。
そんなふうに思い始めていた。
◇
学校へ向かう。
駅までの道は、すっかりいつもの道になりつつあった。
俺と莉奈は別々の高校に通っている。
だから途中でそれぞれの道に分かれる。
その短い時間が、妙に心地よかった。
「兄貴」
「ん?」
「今日、何時に帰る?」
「今日も六時くらい」
「そっか」
「何?」
「別に」
「またそれ?」
昨日も聞かれた。
一昨日も聞かれた。
いや、一昨日はまだ出会ったばかりだったから、こんな話はしていない。
でも。
最近、莉奈はよく帰宅時間を訊いてくる。
どうしてなのだろう。
夕食の時間を気にしているのか。
それとも。
ただ単純に、誰かが帰ってくる時間を知っていたいだけなのか。
聞けばいい。
なのに。
俺は聞かなかった。
何となく。
聞かないほうがいい気がした。
相手には、相手の言葉にする準備というものがある。
無理に扉を開ければ、中のものまで壊してしまうかもしれない。
俺はそんなことを思いながら歩いた。
「兄貴」
「今度は何」
「今日、帰りに――」
莉奈が言いかけたところで。
「兄貴、スマホ鳴ってる」
「え?」
ポケットを見る。
着信。
母さんだ。
「もしもし?」
『遼太?悪いんだけど、帰りに牛乳買ってきてくれない?』
「俺?」
『お願い』
「……分かった」
電話を切る。
莉奈が俺を見る。
「パシリ」
「母さんまで数えるな」
「兄貴、人気者だね」
「どこがだ」
莉奈が笑った。
その笑顔が少し楽しそうで。
俺は、まあいいかと思ってしまった。
頼られる。
必要とされる。
それはきっと。
俺が昔から欲しかった感覚に近い。
ただ。
それを人から奪わないようにしなければならない。
頼られることを望みすぎると。
「頼られる自分」を守るために、他人の困りごとを必要以上に抱えてしまうことがある。
そんなことを。
俺はまだ深く考えていなかった。
ただ単純に。
「兄貴」と呼ばれることが嬉しかった。
だから。
「じゃあ、また」
「うん」
莉奈が反対方向へ歩いていく。
俺も駅へ向かう。
数歩進んで。
振り返る。
莉奈もこちらを見ていた。
目が合う。
莉奈は何も言わない。
俺も何も言わない。
ただ。
どちらからともなく、小さく手を上げた。
それだけだった。
でも。
その「それだけ」が。
少しずつ積み重なっていく。
それが家族になるということなのかもしれなかった。
◇
放課後。
教室に残っていた俺は、机の中を整理していた。
「神谷」
声をかけられる。
灯里だった。
「何?」
「今日、一緒に帰らない?」
「いいよ」
鞄を持つ。
教室を出る。
「妹ちゃんとは、今日はどうだった?」
「今日も俺を使ってた」
「ふふ」
「笑い事じゃないから」
「でも、嬉しいんじゃない?」
「……」
言葉に詰まる。
「図星?」
「いや」
「顔に出てる」
「またそれ!?」
灯里が笑う。
「神谷って、本当に分かりやすいね」
「自分ではそんなつもりないんだけど」
「妹ちゃんに頼られると嬉しい?」
「まあ……」
俺は正直に答えた。
「うん。嬉しい」
灯里は一瞬だけ俺を見た。
「そっか」
「何?」
「いや」
灯里は前を向く。
「神谷って、誰かに必要とされるのが好きなんだなって」
「……そうかもしれない」
その言葉が、妙に胸に残った。
必要とされる。
俺はその言葉に惹かれている。
誰かが困っている。
俺が助ける。
ありがとうと言ってもらう。
そこには、分かりやすい関係がある。
俺は役に立った。
だから。
俺には価値がある。
――そんな考え方をしているのかもしれない。
でも。
もしそうだとしたら。
俺は。
「相手を助けたい」のではなく。
「助けることで自分を確かめたい」のではないだろうか。
「……神谷?」
「ん?」
「どうしたの?」
「いや」
俺は笑った。
「ちょっと変なこと考えてた」
「変なこと?」
「俺って、もしかして自分が思ってたより面倒な人間なのかもって」
灯里は少しだけ考える。
「人間なんて、だいたい面倒だよ」
「え?」
「自分のことだけじゃなくて、他人のことまで考えるんだから」
灯里が笑う。
「それくらいでいいんじゃない?」
俺は少し笑った。
「灯里って、たまに大人だよな」
「たまにって何?」
「褒めてる」
「ならいいけど」
二人で歩く。
その時間が。
俺には心地よかった。
家には莉奈がいる。
学校には灯里がいる。
少しずつ。
俺の世界に、人が増えている。
それが嬉しい。
そして。
その嬉しさが。
俺の中にある「一人になりたくない」という感情と繋がっていることに。
俺はまだ気づいていなかった。
◇
家に帰る。
「ただいま」
「おかえり」
母さんの声。
そして。
「兄貴、遅い」
莉奈。
「早いだろ」
「六時から五分遅い」
「厳しいな!」
莉奈はソファに座ったまま、こちらを見る。
「牛乳は?」
「ある」
「プリンは?」
「……」
「買ってきた?」
「…………」
「兄貴?」
「忘れた」
静寂。
莉奈が立ち上がる。
「……嘘でしょ」
「牛乳に集中したんだよ」
「私のプリンは?」
「明日でいいだろ」
「今日食べたかった」
「じゃあ自分で買いに――」
言い終わる前に。
莉奈が少しだけ口を尖らせた。
「……兄貴」
「何だよ」
「お願い」
「…………」
俺はため息をついた。
「一緒に行くぞ」
「うん」
莉奈の顔が、ほんの少しだけ明るくなった。
俺はそれを見て。
また負けた、と思った。
靴を履く。
莉奈も隣で靴を履く。
玄関を出る。
「兄貴」
「何?」
「ありがと」
「まだ買ってないけど」
「一緒に行ってくれるから」
「……そっか」
俺は少しだけ笑った。
家からコンビニまで。
ほんの数分。
たぶん、特別な出来事なんて何もない。
それでも。
俺にとっては。
その何でもない時間が。
少しずつ大切なものになっていく。
そして。
そのことに気づいたとき。
俺はようやく。
「妹が欲しかった理由」に。
ほんの少しだけ近づくことになる。
――まだ。
本人さえ、その理由を知らないまま。




