04.妹というもの
翌朝。
俺はいつもより少し早く目を覚ました。
理由は簡単だ。
妹がいるからだ。
昨日までなら、目覚ましが鳴るまで布団の中で粘っていた。
ところが今日は違う。
なんとなく落ち着かない。
リビングに妹がいる。
その事実が、妙に俺を早起きさせていた。
自分でも笑ってしまう。
たかが妹一人増えただけだ。
なのに、家の中の空気そのものが少し変わった気がする。
階段を下りる。
廊下を歩く。
そして――。
リビングの扉を開ける。
「……おはよう」
そこにいた莉奈が、眠そうな目を向けてきた。
「おはよ、兄貴」
「…………」
胸の奥が、ほんの少しだけ跳ねた。
兄貴。
昨日も何度か呼ばれた。
なのに。
朝一番にそう呼ばれると、妙に特別なものに聞こえた。
「何?」
「いや」
「じっと見ないで」
「ごめん」
俺は椅子に座る。
「今日も学校だよな」
「うん」
「楽しい?」
「別に」
即答だった。
「兄貴は?」
「まあ……普通」
学校は昨日までと変わらない。
クラスも友達も変わらない。
なのに家に帰れば、妹がいる。
そのことが、どうにも現実味を持たなかった。
「兄貴」
「何?」
「ネクタイ曲がってる」
「え?」
莉奈が立ち上がり、俺の首元へ手を伸ばす。
一瞬、体が固まった。
近い。
妹という存在に触れられたことなど、今まで一度もなかったからだ。
「じっとして」
「はい」
莉奈は慣れた手つきでネクタイを直していく。
「……別に自分でできるけど」
「じゃあ最初からちゃんとして」
「はい」
俺は従った。
そして。
心の中で小さく思った。
――これだ。
こういうのだ。
俺がずっと想像していた妹との生活。
朝、妹が兄の身だしなみを整えてくれる。
なんという素晴らしい朝だろう。
「はい、終わり」
「ありがとう」
「どういたしまして」
莉奈が席に戻る。
俺は、少しだけ浮かれていた。
――と思った、その瞬間。
「兄貴」
「何?」
「駅まで送って」
「…………」
「何?」
「いや」
俺は時計を見る。
俺の学校と莉奈の学校は、方向が少し違う。
同じ高校ではない。
だから途中まで一緒に歩いて、途中で別れる形になる。
「分かった」
「じゃあお願い」
俺は立ち上がった。
浮かれていた自分が、少しだけ恥ずかしくなった。
結局。
俺にとって妹とは。
朝から俺をパシる存在らしい。
◇
家を出る。
秋の朝は少し冷えていた。
莉奈は俺の半歩後ろを歩いている。
昨日までなら知らない少女が、自分の隣を歩いている。
それだけのことなのに、街の景色まで少し違って見えた。
「兄貴」
「ん?」
「歩くの速い」
「お前が遅いんだろ」
「合わせてよ」
「はいはい」
俺が歩幅を小さくすると、莉奈も少しだけ早くなる。
自然に隣へ並んだ。
そのことが。
なぜだか嬉しかった。
人間は不思議だ。
大きな幸福を求めているくせに、本当に心へ残るのは、こういう何気ない瞬間だったりする。
誰かと並んで歩く。
同じ方向へ進む。
それだけで。
「一人ではない」という感覚が、身体のどこかに染み込んでくる。
父さんが亡くなったあと。
母さんと並んで歩くことは何度もあった。
けれど母さんは俺を守る側だった。
俺もまた、母さんに心配をかけないように振る舞っていた。
だから。
誰かと肩を並べて。
くだらない話をしながら歩くことに。
俺は少し飢えていたのかもしれない。
「兄貴」
「今度は何?」
「今日、帰り何時?」
「知らない。たぶん六時くらい」
「じゃあ」
莉奈は少しだけ間を置いた。
「……夕飯、みんなで一緒に食べる?」
「…………」
思わず莉奈を見る。
「何」
「いや」
「だから何?」
「別に」
俺は前を向く。
顔が緩みそうになる。
危ない。
ここでニヤニヤしたら兄としての威厳が死ぬ。
「まあ、一緒に食べるだろ」
「そっか」
莉奈も前を向いた。
その横顔は、昨日より少しだけ柔らかかった。
駅が見えてくる。
「俺、こっちだから」
「うん」
莉奈は反対方向へ向かう。
別々の高校。
だから朝からずっと一緒というわけではない。
それでいいのだと思った。
家では家族。
学校では、それぞれが自分の世界を持つ。
家族だからといって、何もかも同じになる必要はない。
むしろ。
違う場所でそれぞれの時間を過ごして。
帰ってきたときにだけ、また同じ場所にいる。
その距離が。
俺には少し心地よかった。
「兄貴」
「ん?」
「……行ってくる」
「ああ」
莉奈は一瞬だけこちらを見た。
それから、小さく。
「またね」
と言った。
「……おう」
莉奈の背中が遠ざかっていく。
俺はその姿をしばらく見ていた。
そして。
ひとつの事実に気づいた。
俺はもう。
「妹ができた」という事実だけではなく。
「莉奈に会える」ことを楽しみにしている。
その違いが、なんだか妙に嬉しかった。
◇
学校に着く。
いつもの教室。
いつもの席。
いつもの友達。
なのに。
俺は昨日までとは違う人間になったような感覚があった。
「おはよ、神谷」
「おはよう」
友達と挨拶を交わす。
「なんか今日、機嫌よくない?」
「そう?」
「うん」
俺は少し考える。
そして。
「……妹ができたからかな」
ぽろっと口にした。
「は?」
「だから、妹」
「…………」
「…………」
友達が俺を見る。
「お前、妹できたの?」
「うん」
「昨日まで一人っ子だったよな?」
「うん」
「いつの間に?」
「親が再婚した」
「マジか」
友達が妙に羨ましそうな顔をした。
「で、可愛い?」
その質問に。
俺は一瞬考えた。
昨日までは、迷わず「可愛い」と答えていただろう。
でも。
今の俺は少し違った。
可愛いかどうかだけで莉奈を語るのは。
なぜだか違う気がした。
「……まあ」
「まあ?」
「面倒くさい」
「なんだそれ」
「でも」
俺は笑った。
「悪くない」
「へえ」
そのとき。
「何が悪くないの?」
背後から声がした。
振り向く。
白石灯里だった。
長い髪を揺らしながら、興味深そうにこちらを見ている。
「妹?」
「うん」
「昨日言ってた?」
「いや、昨日は会ってなかったから」
「そっか」
灯里は笑った。
「神谷くん、お兄ちゃんになったんだ」
「そうみたい」
「じゃあ、大変だね」
「もう大変」
「ふふ」
灯里が楽しそうに笑う。
「でも、神谷くん」
「何?」
「なんか嬉しそう」
「…………」
言われて。
少しだけ困った。
「そう見える?」
「うん」
灯里は迷いなく答えた。
「大切にしてあげてね。妹ちゃん」
「……うん」
その言葉が。
なぜか胸に残った。
俺はまだ、莉奈のことを何も知らない。
好きな食べ物も。
苦手なことも。
どんな友達がいるのかも。
どんな高校生活を送っているのかも。
家族になったばかりなのだから、当然だ。
けれど。
知りたいと思った。
妹だからではなく。
莉奈だから。
そう思った瞬間。
俺の中で。
ほんの少しだけ。
「妹」という言葉の意味が変わった気がした。




