03.妹が来た
荷物を受け取った腕が、すぐに悲鳴を上げた。
「……これ、何入ってるんだ?」
「本」
「本ってこんなに重くなる?」
「参考書」
「参考書で?」
「あとゲーム」
「お前な」
思わず睨む。
莉奈は、そんな俺の視線など気にした様子もなく、靴を脱いだ。
「兄貴、私の部屋どこ?」
「二階」
「案内して」
「自分で行けば分かるだろ」
「初めて来たんだけど」
「……そうだな」
言われてみれば、その通りだった。
この家は、今日からこの子の家でもある。
そう思うと、妙な気持ちになった。
昨日まで、俺と母さんだけが使っていた場所。
俺が物を置き、母さんが掃除をして、父さんの写真だけが静かに飾られている家。
そこに今日から、新しい人の生活が入ってくる。
新しい靴。
新しい鞄。
新しい声。
新しい――家族。
その言葉を頭の中で転がしてみる。
家族。
不思議だった。
父さんが亡くなってから、家族という言葉はどこか欠けたものになっていた。
母さんと俺。
二人で一つの家族。
それが当たり前になっていた。
もちろん、それを不幸だと思ったことはない。
母さんはいつも俺を大切にしてくれたし、俺も母さんを大切にしてきた。
ただ。
「二人」という数字には、どうしても静けさがあった。
二人分の食器。
二人分の足音。
二人分の会話。
それ以上でも、それ以下でもない。
それが今日から変わる。
その事実が、俺には少し怖くて――それ以上に、楽しみだった。
「兄貴?」
「……ん?」
「何ぼーっとしてるの?」
「いや」
俺は莉奈から視線を外した。
「なんでもない」
「ふーん」
莉奈は興味なさそうに答えた。
けれど、そのあと。
ほんの一瞬だけ、こちらを見た。
その目に映ったものが何だったのか。
俺には分からなかった。
期待。
不安。
警戒。
あるいは、その全部。
人間の目というのは、思っている以上に多くのことを語る。
だけど、それを読み取るには、俺はまだ莉奈という人間を知らなすぎた。
「こっち」
二階へ上がる。
「ここが莉奈の部屋」
「……結構広い」
「今まで物置みたいになってたから」
「へえ」
莉奈は部屋の中へ入った。
鞄を置く。
窓を開ける。
外を見る。
それだけだった。
もっと嬉しそうにするのかと思った。
もっとはしゃぐのかと思った。
俺は勝手にそんな姿を想像していた。
けれど、実際の莉奈は静かだった。
むしろ。
少しだけ寂しそうに見えた。
「……どうした?」
「何が?」
「いや」
俺は言葉を選んだ。
「気に入らない?」
「違う」
即答だった。
「じゃあ何?」
「……別に」
それ以上は聞けなかった。
いや。
聞かないほうがいいと思った。
新しい家。
新しい母親。
そして、新しい兄。
考えてみれば、莉奈にとっては全部が突然なのだ。
俺にとっては「妹ができる」という、ずっと欲しかった出来事。
でも莉奈にとっては。
「知らない男が兄になる」という出来事でもある。
そう考えた瞬間。
胸の奥に、少しだけ冷たいものが落ちた。
俺は浮かれていたのかもしれない。
自分の願いが叶ったことばかり考えていた。
莉奈の気持ちなんて、ほとんど考えていなかった。
「……なあ」
「何?」
「無理しなくていいからな」
「え?」
「その……」
自分でも、何を言いたいのか分からない。
「ここにいるの、まだ慣れないだろ」
「…………」
「だから、困ったことがあったら言えよ」
莉奈は黙った。
そして。
「兄貴ってさ」
「ん?」
「……変」
「いきなり悪口?」
「そうじゃなくて」
莉奈は少しだけ目を細めた。
「もっと面倒な人かと思ってた」
「なんだそれ」
「もっと、こう……『今日から俺の妹だ! 仲良くしよう!』みたいな感じかと思ってた」
「そんな暑苦しい兄いるか?」
「ここにいそうだから言ってる」
「偏見だろ」
莉奈が、ほんの少し笑った。
俺も笑った。
その瞬間。
なんとなく。
さっきまで知らない少女だった莉奈が。
ほんの少しだけ近くなった気がした。
「……じゃあ」
「ん?」
「これ」
莉奈が指差したのは、持ってきた荷物。
「それ、下に置いといて」
「お前が置けよ!」
「重い」
「さっき俺に持たせたの、お前だろ!」
「兄貴だから」
「その理屈、万能すぎない!?」
莉奈はまた笑った。
今度は、さっきよりも少しだけ自然に。
「じゃあ、お願い」
「…………」
俺はため息を吐いた。
荷物を床に置く。
「ほら」
「ありがと」
それだけだった。
たったそれだけの会話。
なのに。
なぜか俺は、嬉しかった。
妹が自分に頼ってくれた。
そんな単純なことが、こんなにも嬉しい。
もしかすると。
俺が妹に憧れていた理由は、そこだったのかもしれない。
誰かに必要とされること。
頼られること。
「兄貴だから」と呼ばれること。
そういうものに、俺は憧れていたのかもしれない。
もちろん、そんなことはまだ自分でも分かっていなかった。
ただ。
俺はその日、人生で初めて。
「妹がいる」という感覚を知った。
そして。
その日の夕食。
俺は、その感覚が想像していたものとは大きく違うことを知ることになる。
◇
「いただきます」
声が重なった。
それだけで、少しだけ胸が熱くなった。
今まで二つしかなかった椅子が、増えている。
食卓に並ぶ料理も少し増えている。
味噌汁の湯気が、皆の間をゆっくりと漂っている。
俺はそれだけで、妙に嬉しくなった。
――俺には妹がいる。
そう思うだけで。
昨日までとは、世界の見え方が少し違っていた。
「兄貴」
「ん?」
「醤油」
「…………」
俺は箸を止めた。
「自分で取れ」
「近いじゃん」
「お前のほうが近い」
「兄貴なんだから」
「またそれか!」
母さんが吹き出した。
「ふふっ」
「母さんまで笑うなよ!」
「だって、二人とも仲良しなんだもの」
「仲良しじゃない!」
「仲良くない!」
俺と莉奈の声が重なった。
顔を見合わせる。
そして。
なぜか二人とも笑ってしまった。
俺は、その笑い声を聞きながら思った。
――ああ。
これか。
俺がずっと欲しかったものは。
くだらないことで言い合って。
どうでもいいことで笑って。
同じ食卓を囲む。
そんな時間。
それが妹というものなのか。
俺はそんなことを考えていた。
けれど。
その一方で。
ふと、父さんの写真が飾られている棚に目が向いた。
父さんなら、この光景を見てどう思うだろう。
母さんの隣に、新しい人がいる。
俺の隣には、妹がいる。
昔とは違う家族。
それを父さんは、喜んでくれるだろうか。
それとも。
少し寂しく思うだろうか。
答えは分からない。
死んだ人間に、直接聞くことはできないから。
ただ。
写真の中の父さんは。
いつものように笑っていた。
だから俺も、少しだけ笑った。
家族というものは。
きっと、変わるものなのだ。
一度失って。
そしてまた、形を変えて増えていく。
そう考えたら。
その変化が、少しだけ怖くなくなった。
「兄貴」
「何だよ」
「プリン」
「…………」
「食べていい?」
「自分で冷蔵庫から取れ!」
「やっぱ兄貴嫌い」
「なんでプリン一個でそこまで言われなきゃならないんだよ!」
母さんがまた笑った。
そして俺も笑った。
このときの俺は。
まだ知らなかった。
妹という存在が。
俺の想像以上に面倒で。
俺の想像以上にうるさくて。
俺の想像以上に、俺の心に入り込んでくることを。
そして何より――。
俺自身が。
この家の「兄」であることを。
少しずつ好きになっていくことを。




