29.兄を敬え!
朝、目を覚ます。
カーテンの隙間から差し込んだ光が、部屋の床に細い線を作っていた。
以前なら、目覚まし時計が鳴るまで布団の中で粘っていた。
学校がある。
起きなければならない。
それだけだった。
けれど今は違う。
階下から、かすかな物音が聞こえる。
冷蔵庫を開ける音。
食器が触れ合う音。
そして――。
「兄貴ー」
聞き慣れた声。
「……朝から何」
「起きてるなら早く来て」
「用件を言え」
「お腹すいた」
「自分で食べろ」
「兄貴なんだから朝ごはん準備して」
「その『兄貴なんだから』って便利すぎない?」
「便利だよ?」
さらりと言われてしまった。
僕は布団の中で天井を見つめた。
以前なら、このやり取りを夢にまで見ていたかもしれない。
ゲームの中に出てくるような、可愛い妹。
朝になれば起こしに来てくれて。
兄に甘えて。
少し照れながら「お兄ちゃん」と呼んで。
そんな存在。
けれど、現実の妹は違う。
「兄貴、牛乳なくなった」
「知らん」
「買ってきて」
「朝から?」
「学校から帰る途中で」
「自分で買えばいいじゃん」
「重い」
「一本だろ」
「兄貴、男でしょ」
「その理屈ずるくない?」
「じゃ、よろしく」
ドアの向こうから足音が遠ざかっていく。
僕はため息をついた。
でも、不思議と嫌ではなかった。
むしろ――。
少し、嬉しい。
頼られるから。
必要とされるから。
妹が僕を『兄』として扱ってくれるから。
それが、こんなにも嬉しいものだとは知らなかった。
◇
「じゃ、行こ」
朝食を終えると、莉奈が玄関で靴を履いていた。
「一緒に?」
「駅まで」
「珍しいな」
「何その言い方」
「いや、最近はいつも先に行ってるじゃん」
「今日は一緒に行きたい気分なの」
「そうですか」
「何笑ってんの」
「別に」
「絶対笑ってる」
僕たちは家を出た。
並んで歩く。
家から駅までは、それほど遠くない。
幼い時は、この道を母と二人で歩いた。
もっと昔は、父もいた。
その頃のことを思い出すと、胸の奥が少しだけ痛む。
でも今は、その隣に莉奈がいる。
同じ家を出て。
同じ道を歩いて。
同じ駅に向かう。
ただ、それだけ。
それだけなのに。
僕はふと思った。
家族というものは、こういうものなのかもしれない。
大きな出来事が起きることではない。
記念写真に残るような特別な一日でもない。
朝、顔を合わせる。
くだらないことで言い合う。
一緒に歩く。
帰ってくる。
その繰り返し。
人間は、特別な記憶だけで生きているわけではない。
むしろ、何でもない一日の積み重ねによって、『ここが自分の居場所だ』と感じるのかもしれない。
「……兄貴」
「ん?」
「今日、帰り一緒になったら、一緒に帰ろ」
「いいよ」
「即答?」
「嫌なの?」
「……別に」
莉奈は前を向いた。
耳が少し赤くなっている。
僕は何も言わなかった。
きっと、こういうところなのだ。
家族というものは。
言葉にしすぎると壊れてしまいそうなものを、何でもない顔で大切にしていく。
「じゃ、ここで」
駅に着くと、莉奈は別のホームへ向かう。
「友達に変なこと言わないでよ」
「何を?」
「……その、私が兄貴に甘えてるとか」
「甘えてる自覚あったんだ」
「ない!」
莉奈は僕を睨んだ。
それから少しだけ笑って。
「……じゃあ、また」
「うん。また」
小さく手を振って、莉奈は人の流れの中へ消えていった。
僕も自分の電車に乗る。
別々の学校。
別々の友達。
別々の世界。
それでも、帰る場所は同じ。
不思議なものだった。
◇
「おはよう、遼太くん」
教室に入ると、灯里が声をかけてきた。
「おはよう、灯里」
「なんだか今日、機嫌よくない?」
「そう?」
「うん。いつもより少しだけ」
鋭い。
「朝、妹と一緒に駅まで歩いてきた」
「ああ、それで」
「そんなに分かる?」
「分かるよ」
灯里は笑った。
「遼太くんって、妹ちゃんの話するとき、ちょっと嬉しそうだから」
「そうかな」
「そうだよ」
その言葉を聞いて、僕は少し考えた。
僕は昔、『妹が欲しい』と思っていた。
けれど、今になって思う。
欲しかったのは、妹という記号ではなかった。
誰かが自分を『兄』と呼んでくれること。
自分の帰りを待ってくれる人がいること。
自分が帰りたいと思える場所があること。
そういうものだったのだ。
「……家族って、いいな」
僕が呟くと、灯里は一瞬だけ目を丸くした。
「うん」
それから、優しく笑った。
「いいよね」
その笑顔を見た瞬間。
胸の奥で、何かが静かに動いた。
莉奈といると安心する。
家に帰ると、落ち着く。
母と食卓を囲むと、あたたかい。
けれど、灯里を見ると――少し違う。
もっと近くにいたいと思う。
もっと話したい。
自分のことを知ってほしい。
灯里のことも、もっと知りたい。
それは、『家族が欲しい』という気持ちとは違っていた。
似ているようで、全然違う。
人と人との距離には、いろいろな形がある。
家族になる距離。
友達になる距離。
そして、そのどちらでもない場所へ進んでいく距離。
僕は、その違いを意識した。
「遼太くん?」
「え?」
「どうしたの?」
「いや……」
僕は少し迷ってから、笑った。
「灯里と話してると、なんか落ち着くなって」
「……それ、ずるい」
「え?」
「そういうの、急に言わないでよ」
灯里は恥ずかしそうに目を逸らした。
その横顔を見て、僕の心臓が少し速くなる。
なるほど。
これが、好きということなのかもしれない。
◇
放課後。
僕が靴を履き替えていると、スマホが震えた。
『兄貴』
『今どこ』
『駅』
『じゃあ待ってて』
『なんで』
『一緒に帰るって言ったじゃん』
僕は画面を見て笑った。
その直後、別の通知が届く。
『遼太くん』
灯里からだった。
『明日少し話したいことがあるんだけど、放課後時間ある?』
僕は二つの画面を交互に見た。
家族の待つ場所。
そして、好きになった人からの連絡。
どちらも、僕にとって大切なものになっていた。
昔の僕は、何かを大切にするなら、ひとつしか選べないと思っていた。
妹が欲しい。
家族が欲しい。
誰かに必要とされたい。
そんな願いを、一つの形に押し込めようとしていた。
でも違った。
人間の心には、居場所を一つしか置けないほど小さくない。
家族がいて。
友達がいて。
好きな人がいて。
その全部が、自分の人生の中に同時に存在していい。
むしろ、人と人とのつながりは、増えることで誰かが消えるのではなく、
増えた分だけ世界そのものが広がるのだ。
僕は灯里に返信した。
『うん。少しなら大丈夫』
そして、莉奈にも送る。
『駅で待ってる』
返信はほとんど同時に来た。
『遅れたら兄失格』
『……分かったよ』
僕はスマホをポケットにしまった。
そして、少しだけ笑った。
妹ができたことで、僕の世界は狭くなると思っていた。
実際には、その逆だった。
家族が増えた。
大切な人が増えた。
そして僕自身も、少しずつ変わっている。
駅へ向かう。
その途中で、僕はふと足を止めた。
――明日は、今日より少しだけ違う日になるかもしれない。
そんな予感がした。
でも。
家に帰れば、きっといつも通りだ。
『兄貴、プリン』
たぶん、そう言われる。
だから僕も、きっといつも通り答えるのだ。
『自分で買え』
そう言いながら。
少しだけ嬉しくなってしまうのだろう。
家族というのは。
案外、そういうものなのだから。




