30.妹よっ!!兄を敬えっ!!
朝。
目覚ましが鳴るより少し早く、目が覚めた。
理由は分からない。
ただ、妙に気持ちが落ち着かなかった。
今日が特別な日だからなのか。
それとも、特別な日になりそうな気がしているからなのか。
俺はしばらく天井を見つめていた。
そして、ふと思う。
――この部屋にも、ずいぶん長く一人でいたんだな。
父さんがいた頃には、家の中にはもっと音があった。
テレビの音。
笑い声。
食器の音。
誰かが歩く音。
父さんがいなくなってから、それらは少しずつ減っていった。
俺はそれを『静かになった』と思っていた。
でも、本当は違ったのだと思う。
俺が寂しかったのは、音がなくなったからではない。
人の気配がなくなったからだ。
誰かがいる。
誰かが帰ってくる。
誰かが自分に話しかける。
そんな当たり前のことを、俺はずっと欲しがっていた。
「兄貴ー」
その瞬間、声がした。
「起きてるー?」
「起きてる」
「じゃあ早く来て」
「何?」
「朝ごはん」
「はいはい」
俺は笑いながらベッドを出た。
昔だったら、こんな朝を夢見たことだろう。
かわいい妹がいて。
兄を慕って。
一緒に朝ごはんを食べて。
――現実は。
「兄貴、それ取って」
「自分で取れ」
「届かない」
「目の前だろ」
「兄貴のほうが近い」
「……はい」
「あと、牛乳も取って」
「まだ頼むの?」
「兄貴だから」
「その言葉、今日で百回目くらいじゃない?」
莉奈は笑った。
「兄貴って大変だね」
「誰のせいだよ」
「私」
「自覚あるのかよ」
食卓に笑い声が落ちる。
母さんも笑っている。
俺も笑っている。
それだけのことだった。
でも。
それだけのことが、俺には何より大切だった。
◇
「じゃあ行ってくる」
「遼太、今日は帰り遅くなるの?」
「ちょっとだけ」
「そう。気をつけてね」
玄関を出る。
少し先で莉奈が待っていた。
「遅い」
「準備に時間がかかってたんだよ」
「兄貴なんだから早くして」
「はいはい」
俺たちは並んで歩き出す。
以前は、この道を歩きながら『妹がいたらいいのにな』と考えてた。
今は、その隣に本当に妹がいる。
でも。
思っていたものとは全然違う。
もっと可愛らしくて。
もっと素直で。
もっと『お兄ちゃん』と慕ってくれる存在だと思っていた。
実際には――。
「兄貴、今日プリン買って」
「昨日も食べてただろ」
「昨日は昨日」
「お小遣いは?」
「ある」
「じゃあ自分で買え」
「……ケチ」
「なんで俺が怒られるんだよ」
こんな妹だった。
けれど。
俺は、この妹が好きだった。
もちろん、それは恋愛的な意味ではない。
莉奈という一人の家族が、ここにいることが好きなのだ。
家族というのは、理想通りである必要なんてなかった。
むしろ、思い通りにならないからこそ、そこには『相手』がいる。
自分の願いを叶えるための存在ではない。
自分とは別の考えを持ち、別の感情を持ち、時には自分を困らせる一人の人間。
だからこそ、家族なのだと思う。
「じゃ、ここで」
駅に着いた。
俺たちは今日も別々の電車に乗る。
「兄貴」
「ん?」
「今日も、ちゃんと帰ってきてよ」
「……うん」
「別に変な意味じゃないから」
「分かってるよ」
「じゃ」
「また」
莉奈は少しだけ手を上げて、人混みの中へ消えていった。
俺はその背中を見送る。
そして思った。
俺が欲しかったのは、『妹』という存在じゃなかった。
あの家に、誰かがいることだった。
家に帰れば、誰かがいる。
朝になれば、『おはよう』と言ってくれる。
夜になれば、『おやすみ』と言ってくれる。
そんな場所が欲しかったのだ。
――俺は、ちゃんと願いを叶えてもらったのかもしれない。
◇
放課後。
校門を出たところで、灯里が待っていた。
「遼太くん」
「灯里」
「少し歩かない?」
「うん」
並んで歩く。
桜舞い散る美しい春でもない。
太陽の日差しが明るく照らす夏でもない。
特別にきれいな夕焼けがあるわけでもない。
どこにでもある普通の帰り道。
それなのに。
俺の心臓だけが、普段よりずっと騒がしかった。
「昨日、ちゃんと妹ちゃんと帰れた?」
「うん」
「よかった」
灯里は少し笑った。
「遼太くん、家族の話するとき、本当に嬉しそうだね」
「そうかな」
「そうだよ」
少し沈黙が続く。
俺はポケットの中で手を握った。
そして、何度も頭の中で繰り返していた言葉を、ようやく口にする。
「灯里」
「うん?」
「俺……」
そこで言葉が止まった。
怖かった。
断られるかもしれない。
今までみたいに笑って話せなくなるかもしれない。
せっかく近づけた距離が、また遠くなるかもしれない。
人を大切に思うほど、失うことが怖くなる。
それは家族でも、友達でも、好きな人でも同じなのだ。
でも。
だからといって、何も言わなければ何も始まらない。
俺は息を吸った。
「灯里と、もっと一緒にいたい」
灯里は何も言わない。
「話したり、笑ったり。困ったときは相談してほしいし俺も頼りたい」
自分でも分かっていた。
これは、格好のいい言葉じゃない。
完璧でもない。
でも、今の俺にはこれが精一杯だった。
「……だから」
俺は灯里を見た。
「灯里のことが好きです。俺と付き合ってください」
沈黙。
長く感じた。
けれど、灯里はやがて小さく笑った。
「……うん」
「うん?」
「私も」
たった四文字だった。
それなのに、胸の奥にじんわりと広がった。
嬉しい。
その感情は、こんなにも単純だった。
「よかった……」
思わず呟くと、灯里が笑う。
「遼太くん、今すごい顔してる」
「どんな顔?」
「安心した顔」
「……たぶん、すごく緊張してたから」
「私もだよ」
二人で笑った。
そして、また歩き出した。
何かが劇的に変わったわけではない。
空も。
道も。
街の音も。
昨日までと同じだ。
でも。
俺たちの中には、確かに昨日までなかったものが一つ増えていた。
それで十分だった。
◇
家に帰る。
「ただいま」
「おかえりー」
莉奈の声がする。
台所から顔を出した莉奈が、俺を見る。
「遅かった」
「ちょっと灯里と話してた」
「ふーん」
莉奈はじっと俺を見る。
「……何?」
「いや」
少しだけ口元を上げる。
「なんか、いいことあった?」
「え」
「顔に書いてある」
「そんなに?」
「うん」
「……まあ、あった」
「ふーん」
莉奈はそれ以上聞かなかった。
ただ、冷蔵庫を指して。
「兄貴」
「何?」
「プリン」
「自分で取れ」
「今日くらい取ってよ」
「なんで今日くらいなんだよ」
「兄貴なんだから」
「はいはい」
俺は冷蔵庫からプリンを取り出して、莉奈に渡した。
「どうぞ」
「ありがと」
莉奈はプリンを受け取って、そのまま自分の部屋へ向かう。
数歩進んだところで、振り返る。
「……兄貴」
「ん?」
「これからも、ちゃんと家に帰ってきてね」
一瞬。
時間が止まったような気がした。
でも俺は、笑って答えた。
「帰ってくるよ」
「そ」
それだけ言って、莉奈は部屋へ戻っていった。
俺はその背中を見ながら思う。
きっとこれからも、俺たちは喧嘩するだろう。
莉奈は俺をパシるだろう。
俺は文句を言うだろう。
灯里とも、きっと色々あるだろう。
嬉しいことばかりではない。
誰かと一緒に生きるということは、面倒なことも増えるということだ。
けれど。
俺はもう知っている。
面倒だから大切ではないのではない。
面倒なことまで含めて、その人が自分の人生の中にいるから、大切なのだ。
俺は昔、『妹が欲しい』と願った。
でも、本当はもっと別のものを願っていた。
帰る場所が欲しかった。
誰かのいる家が欲しかった。
そして、自分もまた、誰かにとっての『帰ってきてほしい人』になりたかった。
その願いは、もう叶っている。
毎朝の『おはよう』
毎晩の『おやすみ』
くだらない喧嘩。
頼みごと。
一緒に食べるご飯。
誰かを思う気持ち。
そういう小さなものを何度も積み重ねて、人は家族になる。
そして。
家族ができたからこそ、俺は家族とは違う大切さも知ることができた。
誰かを守ることだけが愛ではない。
何でもしてあげることが優しさでもない。
その人がその人の人生を歩くことを信じて、必要なときに隣にいる。
たぶん、それが人を大切にするということなのだ。
「兄貴ー!」
また莉奈の声が飛んでくる。
「今度は何!」
「お風呂先に入る!」
「今さら宣言することか、それ!」
「兄貴はあと!」
「はいはい」
「兄貴だから!」
「それは意味分からない!」
俺は笑った。
うるさい。
本当に、うるさい。
でも。
このうるささが、今は好きだった。
静かだった家に、声がある。
帰ってきたことを知らせてくれる声がある。
明日もきっと、『おはよう』と言う。
明日もたぶん、莉奈は俺をパシる。
そして俺は文句を言いながら、それでも何かを手伝う。
そんな日々が続いていく。
それでいい。
「……妹よ」
俺は小さく呟く。
「兄を敬えっ!!」
すぐに返事が返ってきた。
「絶対イヤ!」
俺は笑った。
そして。
――ただいま、と。
この家に帰ってこられることを、心から嬉しいと思った。




