28.妹よ
翌朝。
目を覚ます。
いつもと同じ朝だった。
カーテンの隙間から光が差し込んでいる。
時計を見る。
六時四十五分。
少し早い。
俺は布団の中でしばらく天井を見ていた。
昨日のことを思い出す。
ミエル。
天使。
願い。
そして。
別れ。
もう。
あいつは来ないのだろうか。
そう思うと。
少しだけ寂しい。
でも。
昨日、ミエルに言われた言葉を思い出す。
――あなたの願いは、もう叶っている。
叶った瞬間に終わる願いなら。
たぶん、最初から願う必要なんてなかった。
願いというのは。
叶ったあとに。
どうするかまで含めて。
初めて意味を持つ。
俺はベッドから起き上がった。
廊下に出る。
莉奈の部屋の前。
いつものように。
ノックをする。
「莉奈」
返事がない。
「朝だぞ」
少し待つ。
「……兄貴」
「起きてる?」
「うん」
「じゃあ、飯」
「今行く」
声は普通だった。
でも。
ほんの少し。
元気がない気がした。
俺は気になった。
けれど。
扉を開けようとはしなかった。
相手が自分で出てくる。
それを待つ。
それが。
今の俺にできることだった。
◇
朝食。
莉奈はいつもより静かだった。
母さんが話す。
「今日は帰り遅くなるかもしれないわ」
「分かった」
俺が答える。
莉奈は味噌汁を飲んでいる。
何も言わない。
「莉奈」
「ん?」
「今日は?」
「普通」
「また普通」
「……普通」
笑おうとした。
でも。
上手く笑えていなかった。
俺は。
何か言おうとして。
やめた。
無理に聞く必要はない。
自分から話したくなれば。
きっと話す。
そう思った。
「ごちそうさま」
莉奈が席を立つ。
食器を流し台へ持っていく。
そして。
「兄貴」
「ん?」
「今日、何時に帰る?」
「六時くらい」
「そっか」
それだけ。
莉奈は玄関へ向かう。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
扉が閉まる。
俺はその音を聞いた。
いつもと同じ。
でも。
何かが違う。
その違いを。
俺は上手く言葉にできなかった。
◇
放課後。
今日は学校からそのまま帰った。
文化祭の準備も一段落している。
だから。
早い帰宅だった。
家の前に着く。
玄関を見る。
莉奈の靴がある。
帰っている。
俺は少し安心した。
「ただいま」
返事がない。
「莉奈?」
家の中は静かだった。
自分の部屋へ向かう。
その途中。
リビングの扉が少し開いている。
中を見る。
莉奈がソファに座っていた。
テレビはついていない。
スマートフォンも触っていない。
ただ。
ぼんやり前を見ている。
「……どうした?」
「……別に」
その『別に』は。
今まで聞いてきたものとは違った。
逃げるための『別に』だった。
俺は隣に座った。
「学校で何かあった?」
「……」
「話したくなかったら、いいよ」
「……うん」
それで終わり。
俺も黙る。
テレビはつけない。
時計の音だけ。
カチ。
カチ。
カチ。
五分。
十分。
何も起きない。
俺は。
その静けさを受け入れた。
助けようとしない。
答えを求めない。
ただ。
ここにいる。
それだけ。
すると。
「兄貴」
莉奈が言った。
「ん?」
「……父さんと」
一度。
言葉が止まった。
「どう?」
「どうって?」
「うちの父さん」
「ああ」
少し考える。
「普通にいい人だと思う」
「……そう」
「なんで?」
「……」
莉奈は膝に手を置いた。
「私さ」
「うん」
「ここにいていいのかな」
その言葉に。
胸の奥が詰まった。
「何でそんなこと思う?」
「だって」
莉奈が笑おうとする。
「ここ、兄貴とお母さんの家だったじゃん」
「……」
「私が来て」
「うん」
「お母さんと兄貴の生活、変えちゃった気がして」
「それは――」
俺は。
思わず何か言い返そうとした。
でも。
口を閉じた。
『そんなことない』と即答するのは簡単だ。
でも。
莉奈が今感じている不安を。
言葉一つで消すことができるわけではない。
不安は。
本人にしか消せない部分がある。
「……怖い?」
俺は聞いた。
「うん」
莉奈が頷く。
「時々」
「そっか」
「兄貴とお母さんは、元々家族だったから」
「……」
「私は後から来ただけだから」
「……」
「だから」
莉奈の声が小さくなる。
「兄貴に好きな人ができたら」
「うん」
「私は必要ないんじゃないかなって」
その言葉に。
胸が痛んだ。
それは。
少し前の俺だった。
誰かに必要とされることで。
自分の居場所を確かめる。
でも。
莉奈もまた。
同じことを考えていたのだ。
自分がいなくても。
この家は回る。
自分がいなくても。
兄には他の人がいる。
だったら。
自分はここにいる意味があるのか。
「莉奈」
「ん?」
「俺」
一度。
深呼吸する。
「最初はな」
「うん」
「妹が欲しくて仕方なかった」
「知ってる」
「俺、たぶん」
少し笑う。
「すごく変な願いを持ってた」
「うん」
「だから」
一拍。
「お前が来たとき、最初は嬉しすぎて」
「……」
「俺の中で勝手に『理想の妹』にしてた」
「最悪」
「だろ?」
莉奈が少し笑う。
「でも」
俺は続ける。
「もう違う」
「……」
「今は」
莉奈を見る。
「お前が妹だから大事なんじゃない」
「……」
「莉奈だから大事なんだ」
莉奈は。
何も言わなかった。
ただ。
目を伏せた。
「だから」
「うん」
「俺の人生に誰かが増えても」
「……」
「お前が消えるわけじゃない」
「……」
「家族って」
俺は言った。
「新しい人が入ったら、古い人が追い出されるものじゃないだろ」
「……うん」
「一人増えたら、一人減るんじゃない」
「……」
「ただ、増えるんだよ」
莉奈の目が。
少しだけ潤んだ。
「だから」
俺は続けた。
「いていいとか、いてはいけないとか」
「……」
「そんなこと、考えなくていい」
「……本当に?」
「本当」
「邪魔じゃない?」
「むしろ」
俺は笑った。
「お前がいなくなったら、家が静かすぎる」
「……」
「たぶん、俺はそのほうが困る」
莉奈が。
ようやく笑った。
小さく。
でも。
ちゃんと笑った。
「……そっか」
「うん」
「兄貴」
「何?」
「私」
一度。
深く息を吸う。
「ここにいたい」
俺は。
その言葉を聞いて。
何も言わなかった。
ただ。
「うん」
と答えた。
「いて」
「……うん」
それだけ。
でも。
その一言で。
何かが。
少しだけ決まったような気がした。
◇
母さんが帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
俺が言う。
「おかえり」
莉奈も言う。
母さんは少し驚いて。
それから笑った。
「二人とも、ずいぶん仲良くなったわね」
「普通」
莉奈が答える。
「また普通?」
「うん」
俺たちは笑った。
夕飯を一緒に作る。
三人で食卓につく。
「今日は何があったの?」
母さんが聞く。
「別に」
莉奈が答える。
「そればっかりね」
「普通だから」
俺が笑う。
莉奈も笑う。
そして。
食卓に。
三人分の笑い声が響いた。
父さんが亡くなってから。
こんなふうに。
家の中で笑うことが。
少し減っていた。
でも。
今は。
また。
笑っている。
それは。
父さんを忘れたということではない。
新しい幸せができたから。
過去を消したわけでも。
裏切ったわけでもない。
失ったものを大切にしながら。
新しいものも大切にする。
人間は。
それを同時にやっていいのだ。
たぶん。
家族というものも。
そういうものなのだ。
◇
夜。
自分の部屋に戻る。
ベッドに横になる。
スマートフォンを見る。
灯里からメッセージが届いていた。
『今日は早く帰れた?』
『うん』
『よかった』
俺は少し笑う。
『莉奈と話してた』
『そっか』
そこから。
少し時間が空いた。
『妹ちゃん、大丈夫?』
『うん』
『よかった』
その言葉に。
俺は胸が温かくなった。
灯里は。
莉奈を嫌っているわけではない。
自分が大切に思う人の大切な家族を。
ちゃんと大切にしようとしてくれている。
それが。
嬉しかった。
『ありがとう』
送る。
『どういたしまして』
返事。
俺はスマートフォンを置く。
そして。
ベッドへ横になる。
今日。
莉奈は言った。
――ここにいたい。
俺も。
いてほしいと思った。
その二つが。
ちゃんと重なった。
家族というのは。
誰か一人が望むだけでは作れない。
お互いが。
『ここにいたい』と思える場所を。
少しずつ作っていく。
俺たちは。
まだ途中だ。
これからも。
きっと喧嘩する。
腹が立つこともある。
うるさいと思うこともある。
それでも。
明日の朝になれば。
また。
「おはよう」
と言う。
その繰り返しが。
家族を作っていく。
俺は。
そう思った。
◇
しばらくすると。
コンコン。
ドアを叩く音。
「兄貴」
「ん?」
「おやすみ」
「おやすみ」
「……あと」
「何?」
「明日」
「うん」
「一緒に朝ご飯食べよう」
「もちろん」
「……じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
足音が遠ざかる。
俺は目を閉じる。
そして。
ほんの少しだけ。
笑った。
昔の俺は。
妹が欲しかった。
今の俺は。
妹がいる。
その違いを。
初めて。
当たり前の幸せとして受け入れられた気がした。
明日も。
家に帰る。
明日も。
『ただいま』と言う。
そして。
誰かが。
『おかえり』と言ってくれる。
それだけで。
十分だった。




