27.天使の願い
翌朝。
目を覚ましたとき。
最初に思ったのは。
妹を起こさなければ、ということだった。
昨日。
俺は自分が妹を欲しがった理由を知った。
誰かがいてほしかった。
家に帰ったとき。
そこに誰かの気配がしてほしかった。
自分が必要とされる場所が欲しかった。
そして。
その願いは。
もう叶っている。
だからといって。
何かが劇的に変わったわけではない。
朝は眠い。
学校へ行くのは面倒だ。
数学の授業は相変わらず難しい。
莉奈は相変わらず兄をパシリにする。
灯里とは。
少しずつ距離が近づいている。
つまり。
昨日までと何も変わらない。
でも。
自分の中にある「意味」だけが。
少し変わった。
俺は。
布団から出た。
そして。
莉奈の部屋へ向かった。
コンコン。
「莉奈」
「……ん」
「朝」
「……あと五分」
「いつも言ってるな」
「今日は本当に五分」
「信用できない」
「兄貴のくせに」
「その言葉、最近やたら使うよな」
「便利だから」
「やっぱりか」
ドアの向こうで。
小さく笑う声がした。
俺も笑った。
これでいい。
そう思った。
妹を起こす。
文句を言われる。
それでも。
同じ朝を迎える。
それが。
俺たちの日常だ。
◇
学校が終わる。
今日は文化祭準備もなく早く帰宅する。
俺は一人で駅へ向かう。
いつものベンチ。
いつもの場所。
そして。
いつもの人がいた。
「こんにちは」
天使ミエル。
「……またいるのか」
「また来ました」
「最近、よく会うな」
「そうですね」
ミエルは笑った。
けれど。
今日は少しだけ。
いつもと違って見えた。
「どうした?」
「分かります?」
「なんとなく」
「さすがですね」
「何が?」
ミエルは答えない。
ただ。
「少し話しましょうか」
そう言って。
ベンチを指差した。
俺は隣に座った。
「莉奈さんとは、どうです?」
「まあ」
「まあ?」
「普通」
「普通ですか」
「うん」
俺は笑った。
「でも」
一度。
言葉を探す。
「大事」
「そうですか」
「うん」
ミエルが。
少しだけ目を細める。
「それなら、もう大丈夫ですね」
「何が?」
「私の仕事です」
「……」
一瞬。
意味が分からなかった。
「仕事?」
「はい」
ミエルは立ち上がった。
「あなたの願いを叶えること」
胸の奥が。
ほんの少しだけ冷たくなった。
「……じゃあ」
「はい」
「もう終わり?」
「そうなります」
「……そっか」
自分でも驚いた。
もっと引き止めたくなると思っていた。
天使なのだから。
もっと何か特別なことをしてくれると思っていた。
でも。
ミエルは。
最初から。
願いを叶えたあとに。
何をするかは俺次第だと言っていた。
「もう、会えないのか?」
「必要なら会えます」
「それ」
俺は苦笑した。
「便利な言葉だな」
「天使ですから」
「何でも天使で済ませるなよ」
「人間だって何でも『兄貴だから』で済ませてるでしょう」
「……」
反論できない。
ミエルが笑う。
「あなたも変わりましたね」
「そうかな」
「最初に会ったときは」
一瞬。
「『妹が欲しい』しか考えていませんでしたから」
「ああ」
俺は少し恥ずかしくなった。
「今思えば、結構恥ずかしいな」
「かなり」
「そこは否定してくれよ」
「事実なので」
「天使って容赦ないな」
「よく言われます」
少し笑ったあと。
ミエルが静かに言う。
「でも」
「うん」
「あなたの願いは、悪い願いではありませんでした」
「……」
「誰かと一緒にいたいと思うこと」
「……」
「家に帰って、誰かの声を聞きたいと思うこと」
ミエルが。
俺を見る。
「それは、とても人間らしい願いです」
俺は。
何も言えなかった。
人間らしい。
その言葉が。
不思議と胸に残る。
俺はずっと。
妹が欲しいと思っていた。
それを。
幼い願いだと思っていた。
くだらない願いだと思っていた。
でも。
誰かと一緒にいたい。
寂しくない場所が欲しい。
自分の帰る場所が欲しい。
そう願うことは。
たぶん。
子供だけの感情ではない。
大人だって。
老人だって。
誰かと一緒にいたいと思う。
人間である限り。
完全に一人で生きることなんて。
きっと難しい。
「じゃあ」
俺は聞いた。
「ミエルの願いは?」
「私?」
「うん」
「……私の?」
「だって」
俺は笑う。
「一方的に願いを叶えて帰るなんて、ずるいだろ」
ミエルは少しだけ驚いた顔をした。
「私の願いですか」
「そう」
「そうですね……」
しばらく考える。
「私には」
ミエルが言う。
「願いなんて必要ないんです」
「どうして?」
「天使だから」
「また天使」
「ふふ」
少し笑って。
「でも」
ミエルは空を見る。
「もし一つだけ願っていいなら」
一拍。
「誰かの人生に、自分がいたことを覚えていてほしいですね」
「……」
その言葉は。
思っていたより。
ずっと寂しかった。
「忘れられるのが嫌なのか?」
「天使ですから」
「またそれ」
ミエルは笑った。
でも。
今度は。
笑っているように見えなかった。
「人は」
ミエルが言う。
「誰かの人生に長く残るわけではありません」
「うん」
「出会って」
「うん」
「別れて」
「うん」
「いつか、記憶の隅に消えていく」
俺は。
父さんの写真を思い出した。
亡くなってから。
何年も経った。
顔を忘れてはいない。
声も。
仕草も。
覚えている。
でも。
思い出す回数は。
少しずつ減っている。
最初は毎日だった。
今では。
ふとした瞬間に。
思い出すくらい。
でも。
それは。
忘れたわけではない。
「だから」
ミエルが言う。
「人の記憶に残ることは」
少しだけ笑って。
「それだけで十分な願いなのかもしれません」
俺は。
その言葉を聞いて。
胸の奥が熱くなった。
「ミエル」
「はい」
「俺は覚えてるよ」
「……何を?」
「お前のこと」
ミエルは。
何も言わなかった。
「妹ができた日に」
「……」
「願いを叶えてくれた天使がいたって」
「……」
「忘れない」
ミエルの目が。
少しだけ細くなる。
「……それは」
「うん」
「嬉しいですね」
「だろ?」
「でも」
一拍。
「明日には忘れているかもしれませんよ」
「忘れない」
「一年後は?」
「覚えてる」
「十年後は?」
俺は少し考えた。
そのあと。
「……たぶん」
ミエルが笑った。
「人間らしい答えですね」
「何だよ」
「約束できないことを、無理に約束しないところが」
「それ、褒めてる?」
「はい」
俺も笑った。
「じゃあな」
「はい」
「また会おう」
「必要なら」
「その言い方やめろ」
「ふふ」
ミエルの姿がぼやけてくる。
そして。
見えなくなった。
胸の奥が。
少しだけ空いた。
でも。
不思議と悲しくはなかった。
なぜなら。
俺には。
帰る場所がある。
そこには。
母さんがいる。
莉奈がいる。
そして。
明日になれば。
灯里にも会える。
だから。
ミエルがいなくなっても。
俺は一人にならない。
そう思えた。
◇
家に着く。
「ただいま」
「おかえり」
母さんの声。
そして。
「早かったね、兄貴」
莉奈。
「でも、ちょっと寄り道してた」
「どこ?」
「秘密」
「怪しい」
「別に怪しくない」
「ふーん」
莉奈はテレビを見ている。
その横に座る。
「今日、学校どうだった?」
「普通」
「また普通」
「じゃあ」
莉奈が少し考える。
「疲れた」
「そっか」
「でも」
「うん」
「今は平気」
俺は。
その言葉に少しだけ安心した。
誰かが。
家に帰ってきて。
『今は平気』と言える。
それだけで。
この家が。
少しずつ『帰る場所』になっているような気がした。
「兄貴」
「ん?」
「今日」
「うん」
「……なんかあった?」
「どうして?」
「顔」
「またか!」
「だって」
莉奈が笑う。
「ちょっと寂しそう」
「……」
俺は。
一瞬だけ黙った。
でも。
正直に言うことにした。
「天使に会ってた」
「……まだ言ってる」
「本当に」
「はいはい」
莉奈が呆れる。
でも。
少し笑った。
「じゃあ」
「うん?」
「その天使に」
「何?」
「お疲れさまって言っといて」
「……」
俺は。
思わず笑った。
「分かった」
そう答えた。
ミエルはもう。
ここにはいない。
でも。
確かに。
この家に。
この日々に。
ミエルが残していったものがある。
妹。
家族。
帰る場所。
そのどれも。
今の俺にとって。
かけがえのないものだった。
◇
その夜。
俺は自分の部屋で。
机の上に一枚の紙を置いた。
そこに。
一つだけ名前を書いた。
――ミエル。
それだけ。
他には何も書かなかった。
忘れないため。
というより。
『覚えている』という事実を。
自分自身に残しておきたかった。
人は。
いつか忘れる。
どれだけ大切な人でも。
どれだけ好きだった場所でも。
時間が経てば。
記憶は薄くなる。
だから。
永遠に覚えていることだけが。
愛ではないのだと思う。
忘れてしまうことがあっても。
その人が。
一度、自分の人生に存在したこと。
その事実は。
消えない。
父さんも。
ミエルも。
そして。
これから出会う人たちも。
みんな。
俺の人生のどこかに。
何かを残していく。
俺も。
誰かの人生に。
何かを残せたらいい。
それが。
大きなことじゃなくても。
『いてくれてよかった』と。
一度でも思ってもらえたなら。
それで。
十分なのかもしれない。
ベッドへ入る。
電気を消す。
静かな部屋。
壁一枚向こうには。
莉奈がいる。
明日の朝には。
また。
「兄貴」
と呼ばれる。
そして。
俺はきっと。
「何?」
と答える。
その当たり前が。
たまらなく嬉しい。
俺は。
目を閉じた。
妹が欲しかった。
そう願ったあの日。
その願いは。
もう終わった。
だから。
これからは。
願いの続きを。
自分で生きていけばいい。
俺は。
まだ不器用な兄だ。
それでいい。
完璧じゃないから。
明日も。
兄妹になっていける。
そう思いながら。
俺は眠りについた。




